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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第3章 第二王妃ヴィクトリア
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第58話 冬の社交界に向けて

 冬の社交界が近づくにつれて、王都の空気は少しずつ変わっていった。秋の狩猟大会で起きた第一王子暗殺未遂事件から数か月が経ち、俺の身体もようやく日常へ戻るための準備ができるところまで回復していた。傷はまだ完全に消えたわけではなく、長時間の活動には疲れが残る。それでも、三日間の死線を越えた直後のように寝台から動くことすら難しい状態ではない。医師からも、無理をしないことを条件に、少しずつ政務へ復帰してよいとの許可が出ていた。


 そして、今日。


 俺は久しぶりに王宮の執務室へ戻っていた。


 扉を開けた瞬間、見慣れた机と椅子、積み重ねられた書類が目に入る。たった数か月離れていただけなのに、妙に懐かしく感じた。寝台の上から報告書を読んだり、グラフィルから情報を聞いたりするだけでも政務の一部はこなせたが、やはり実際に机へ向かって仕事をするのは違う。


「殿下、お帰りなさいませ」


 侍従が頭を下げる。


「ああ。戻ってきた」


 椅子へ腰を下ろす。


 まだ完全ではない。身体を起こしているだけでも以前より疲れやすいし、長時間の会議を続けることも難しい。それでも、自分の足でここまで来て、自分で椅子へ座れた。


 それだけでも、かなりの進歩だった。


 俺が数枚の報告書へ目を通していると、父上からの使者が現れた。


「殿下、国王陛下がお呼びです」


「分かった。すぐに向かう」


 俺は席を立った。


 まだ激しい運動はできない。


 それでも。


 歩くことくらいなら、もう問題ない。


              ◆


 父上の執務室へ入ると、そこにはアウレリウスと数名の侍従、そして王家の今後の予定を管理する官僚たちがいた。俺が入室すると、父上は手元の資料を閉じる。


「レノ。体調はどうだ」


「かなり戻りました。まだ長時間動くと疲れますが、政務なら問題ありません」


「そうか」


 父上は安堵したように頷いた。


「学院への復帰については?」


「医師からは、冬の社交界を過ぎてから様子を見るように言われています」


「うむ。それでいい。焦る必要はない」


 父上は一枚の資料を取り上げる。


「今日は、お前に今後の予定について話しておきたい」


「今後の予定?」


「ああ」


 その声を聞いて、俺は自然と姿勢を正した。


「お前が十五歳になるまで、あと2ヶ月ほどだ」


「はい」


「これまで第一王子派の勝利を確認する必要があったため、正式な予定として確定させていなかったものもある。だが、学院内の情勢も、王宮内の勢力も、以前とは大きく変わった。現状なら、予定を正式に組むことができる」


 父上が資料を机の上へ広げた。


「春の初めに、重要な王家の儀式をまとめて行う」


「……春ですか」


「ああ。王立貴族学院の卒業式、成人式、立太子の儀、そして婚約式だ」


 俺は資料へ目を落とした。


 そこには、それぞれの予定日を調整した日程案が記されている。


「卒業式と成人式」


「そして立太子」


 父上は順番に確認する。


「お前はそこで王立貴族学院を正式に卒業し、成人を迎える。その後、王太子として正式に立てられる。そして――」


「ティアとの婚約式」


「そうだ」


 その言葉を聞いた瞬間、少しだけ胸が熱くなった。


 以前なら、婚約はまだ先のことだと思っていた。


 第一王子派の勝利が確定していなかった。


 エクィトゥム王国との関係もある。


 だから、俺とティアの婚約は保留されていた。


 しかし、それも終わりに近づいている。


「正式な婚約式は、春の初めに行う」


「……分かりました」


 父上が頷く。


「それだけではない」


 次の資料へ手を置いた。


「エクィトゥム王国との間で締結する軍事同盟と貿易協定についても、同じ時期に正式な調印式を行う予定だ」


 俺は資料を見つめた。


「軍事同盟と貿易協定を、婚約式と同じ時期に?」


「そうだ」


 父上は静かに説明する。


「今回の婚約は、単なる王族同士の婚姻関係ではない。エクィトゥム王国とアンティクイランド王国の関係そのものを強化するものになる。だからこそ、婚約と同時期に両国間の軍事的、経済的な関係を正式な条約として確定させる」


「軍事同盟については、シルウァニア王国戦も関係している」


「その通りだ」


 父上が頷く。


「現在、エクィトゥム王国との間では実質的な協力関係が始まっている。しかし、正式な同盟となれば意味が違う。両国が互いの安全保障を支え、戦時には一定の軍事協力を行うことが正式に定められる」


 俺は資料へ視線を落とした。


 エクィトゥム王国。


 人口八百万人。


 戦時動員可能兵力約四十万人。


 そのうち三十五万人をシルウァニア王国戦へ投入する大国。


 その国と軍事同盟を結ぶ。


 アンティクイランド王国にとって、極めて大きな意味を持つ。


「貿易協定の方は?」


「エクィトゥム王国との交易条件を整備する。穀物、鉱産物、海産物、工芸品などの輸出入について両国間の関税や優遇措置を定める予定だ」


 俺は少し考えた。


「食料輸入の安定化にも繋がりますね」


「そこが重要だ」


 父上は頷いた。


「お前がエクィトゥム王国で説明した通り、我が国は穀物生産だけでは需要を満たせない。だからこそ、今後の軍備や戦争を考える上でも、食料輸入を安定させなければならない」


「なるほど」


 俺は資料を閉じた。


「つまり、春の初めに行われるのは、俺の人生にとっても、国家にとっても大きな節目になる」


「そういうことだ」


 父上は少しだけ笑った。


「卒業」


「成人」


「立太子」


「婚約」


「そして、エクィトゥム王国との軍事同盟と貿易協定の調印」


 その全てが、半年ほど先に集まっている。


「随分と多いですね」


 俺が思わずそう言うと、父上は苦笑した。


「王族というのは、節目が多いからな」


 俺も少し笑った。


「確かに」


 けれど。


 その予定表を見ていると、不思議な感覚があった。


 前世では、十五歳という年齢はただの中学生だった。


 今世では違う。


 卒業し。


 成人し。


 王太子となり。


 そして、ティアと正式に婚約する。


 さらにエクィトゥム王国との軍事同盟と貿易協定が結ばれ、両国の関係は正式に次の段階へ進む。


 俺の未来が、目の前で具体的な日程として決まっていく。


「父上」


「何だ?」


「学院への復帰についてですが」


「ああ」


「春には間に合うでしょうか」


 父上は少し考える。


「医師からは、冬の社交界を無事に乗り切れるなら、学院復帰も十分に可能だと聞いている」


「なら、春には戻りたいです」


「無理はするな」


「分かっています」


 俺は頷いた。


「ただ、卒業だけは自分の足で迎えたい」


 父上はしばらく俺を見ていた。


 そして、静かに笑う。


「そうか。ならば、まずはそこを目標にしろ」


「はい」


 俺は窓の外を見る。


 冬の社交界が近づいている。


 そして、その先には春がある。


 春になれば。


 俺は十五歳になる。


 学院を卒業し、成人を迎え、立太子の儀を受ける。


 ティアとの婚約式が行われる。


 そして、エクィトゥム王国との軍事同盟と貿易協定が正式に結ばれる。


 これほど多くの未来が、一つの季節に集まっている。


 だが。


 俺はその未来を、ただ待っているつもりはなかった。


 アルゲントゥム商会の残党から確保した暗号文。


 ヴィクトリア。


 ヒルゼルス男爵家の事件。


 そして、一年半後に迫るシルウァニア王国戦。


 まだ片付いていない問題は多い。


 それでも。


 少しずつ、未来へ向かって進んでいる。


「春が来れば、いろいろなことが変わりますね」


「そうだな」


 父上が答えた。


「だからこそ、それまでに身体を完全に戻せ」


「はい」


 俺は静かに頷いた。


 冬の社交界。


 そして、その先の春。


 そこには、俺にとって大きな節目が待っている。


 卒業。


 成人。


 立太子。


 婚約。


 軍事同盟。


 貿易協定。


 今の俺にできることは、その日を万全の状態で迎えることだった。

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