第57話 暗号
その日の夜、王宮では確保した商船から回収された資料の確認が行われていた。グラフィルが持ち帰った書状は、他の帳簿や荷札とは分けられ、王宮の管理下へ移されている。俺はまだ寝台から起き上がることもできなかったが、事件そのものが一段落した今、グラフィルから直接報告を受けることになった。
「殿下、先ほどの船から回収した書状について、ご報告があります」
「聞かせてくれ」
グラフィルは俺の寝台の横まで来ると、厳重に包まれた書状を机へ置いた。
「こちらが問題の書状です。外装だけを見ても、通常の商会間の文書とは考えにくいものでした。紙質、封蝋、保管方法、さらに同じ船に積まれていた高級品の包装まで考えると、かなり高位の相手へ渡すことを想定していた可能性があります」
「中身は?」
俺が尋ねると、グラフィルは少し間を置いて答えた。
「確認しました」
「それで?」
「……読めませんでした」
「読めない?」
「はい。文字そのものは我々が扱う一般的な文字ですが、文章として意味を成していません。一定の規則に従って言葉が置き換えられているようで、通常の読み方では内容を把握できませんでした」
俺は書状へ視線を向けた。
「暗号か」
「その可能性が高いと考えています。複数の書状を比較すると、同じ単語と思われる部分が異なる表記になっている一方で、文全体の構造には一定の規則性があります。単なる商人独自の略記では説明しにくい」
「つまり、意図的に読ませないようにしている」
「はい」
俺はしばらく黙った。
アルゲントゥム商会の残党。
高位貴族への献上品を思わせる高級品。
帝国軍諜報部隊と思われる護衛。
そして、暗号化された書状。
偶然にしては重なりすぎている。
「他の資料は?」
「帳簿や荷札については現在整理中です。商船内から複数の取引記録が見つかっていますが、決定的なものはまだありません。ただ、今回の書状だけは明らかに別扱いでした」
「分かった」
俺は少し考えてから、グラフィルへ視線を戻した。
「暗号解読を進めてくれ」
「承知しました」
「王宮の文書や外交記録を扱っている者の中に、暗号や古い記録方式に詳しい者がいるはずだ。使える人間は集めて構わない。過去の文書や他国の暗号との照合も行ってくれ」
「分かりました」
「それと、船に乗っていた者たちも調べろ」
「捕虜の尋問を?」
「ああ」
俺は静かに頷いた。
「アルゲントゥム商会の残党だけでなく、護衛として乗っていた者についてもだ。誰が何のために船へ乗っていたのか、どこから来たのか、誰から命令を受けていたのかを調べてくれ」
「承知しました」
「ただし、書状の存在を全員へ知らせる必要はない。尋問では、それぞれから独立して情報を取るようにしてくれ」
「分かりました」
グラフィルは一礼した。
「暗号解読と捕虜の尋問、どちらもすぐに始めます」
「頼む」
そこで一度、話が途切れた。
俺は机の上に置かれた書状を見る。
中身が読めない以上、今のところはただの紙だ。
だが、その紙がわざわざあれほど厳重に管理されていた理由がある。
そして、その周囲には高級品が積まれていた。
誰かへ届けるための荷物。
誰かと交わされたはずの書状。
それが暗号で書かれている。
偶然ではない。
問題は、誰と誰が何をやり取りしているのかだった。
「殿下」
グラフィルの声で、俺は顔を上げた。
「もう一つ、ございます」
「何だ?」
「医師から、そろそろ今後の復帰時期について相談してもよいとの話がありました」
「復帰時期?」
「はい。学院と政務への復帰についてです」
俺は天井を見つめた。
狩猟大会で襲撃されてから、まだそれほど長くは経っていない。傷も毒の影響も残っており、今は寝台から離れることさえ難しい。だが、三日間の死線を越えてからは、少しずつではあるものの身体は回復へ向かっている。
「医師は、具体的にいつ頃だと?」
「現在の回復速度なら、すぐに完全復帰するのは難しいとのことです。ただ、冬の社交界が始まる頃には、政務への段階的な復帰は可能になる見込みだそうです」
「冬の社交界か」
「はい。まずは寝台で報告を受ける程度から始め、身体の状態を見ながら執務室での政務へ戻す。長時間の会議や外出については、その後になるとのことです」
俺は頷いた。
「学院は?」
「学院については、政務より慎重に判断する必要があるようです。長時間座って授業を受けることに加えて、移動もありますから」
「つまり、冬の社交界が一つの目安になる」
「はい。冬の社交界までに十分な回復が得られれば、学院への復帰についても具体的な日程を決められるだろうとのことです」
俺は少し考えた。
秋の狩猟大会で負傷して。
三日間、生死の境を彷徨った。
そこから数か月かけて身体を戻し、冬の社交界の頃には政務へ戻る。
長いようで、決して長くはない。
「分かった」
「では、その時期を目標に?」
「ああ。冬の社交界までに、政務へ復帰できる状態まで身体を戻す。それを一つの目標にしよう」
「承知しました」
「学院については、医師の許可が出てから決める。無理に急ぐ必要はない」
「はい」
グラフィルが静かに頷く。
「殿下がそこまで回復されれば、学院側も復帰の準備を進められると思います」
「そうか」
俺は一度、窓の外へ目を向けた。
秋は、もうすぐ終わる。
そして冬が来る。
冬の社交界。
王都の貴族たちが再び集まり、王宮を中心に社交と政治が活発になる時期だ。
その頃には、少なくとも政務へ戻りたい。
学院についても、その時点で身体が許すなら復帰を考える。
俺は、そこまでを一つの目標として決めた。
「グラフィル」
「はい」
「暗号の件は、急いでくれ。ただし、焦って雑な調査をする必要はない。確実な結果を出してほしい」
「承知しました」
「捕虜についても同じだ。些細な証言でも構わない。商会の残党が誰と繋がっていたのか、少しずつでもいいから情報を集めてくれ」
「はい」
グラフィルが部屋を出ていく。
再び静かになった。
俺は寝台へ身体を預けたまま、書状の置かれていた机へ目を向ける。
アルゲントゥム商会。
帝国。
カヴィーレスターン。
高位貴族らしき相手へ送られる大量の高級品。
そして、暗号化された書状。
まだ全てが一本に繋がったわけではない。
だからこそ、今は焦らない。
冬の社交界までに身体を戻す。
その間に、グラフィルたちからできるだけ多くの情報を集める。
そして。
俺自身が再び動けるようになった時、その全てを一つずつ繋げていけばいい。
「……冬か」
俺は小さく呟いた。
それまでに、何が分かるだろう。
そして、その頃には。
俺の知らないところで動いている何かの正体が、少しでも見えているのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は再び目を閉じた。
今は、身体を治すことが先だ。
そして冬の社交界が始まる頃。
俺は再び、王宮と学院の表舞台へ戻ることになる。




