第52話 瀕死
治療室の扉が閉じてから、どれほど時間が経ったのか、ティアには分からなかった。廊下の窓から見える空はいつの間にか夕暮れを越え、王都は夜へ沈み始めている。それでも治療室の中だけは昼間のように明るく、医師と治療師たちが途切れることなく動き続けていた。誰かが薬を持ち込み、誰かが治療道具を運び、誰かが何度もレノの状態を確認している。それでも、一向に扉の向こうから「大丈夫です」という言葉は出てこなかった。
やがて、治療室の扉が開く。
出てきた医師の顔を見た瞬間、ティアは何となく分かってしまった。
「……どうですか?」
声が震える。
医師はすぐには答えなかった。
「傷そのものは、処置を続けています。しかし……」
「しかし?」
「毒の作用が強すぎます」
その言葉を聞いた瞬間、ティアの表情が固まった。
「今の段階では、どれほどの量が回っているのか、正確には判断できません。解毒処置も行っていますが、未知の毒であるため、効果が確実とは言えません」
「……それで?」
「殿下の状態は、かなり悪いです」
ティアは黙って医師を見る。
「どれくらい……ですか?」
医師は視線を落とした。
「正直に申し上げます。今夜を越えられる保証はありません」
その言葉が、静かな廊下へ落ちた。
ティアは何も言えなかった。
周囲にいたエリシアや侍女たちも、息を呑んでいる。
「……そんな」
「我々も、全力で治療しています。しかし、今の殿下は非常に危険な状態です。毒の作用がこれ以上進めば、治療を続けること自体が難しくなる可能性もあります」
「治療を続けることが……難しく?」
「ええ」
医師は苦しそうに頷いた。
「今は、ただ時間との勝負です」
ティアの手が震えた。
「……レノは」
声が掠れる。
「レノは、まだ生きていますよね?」
「はい」
「なら……」
ティアは必死に言葉を繋いだ。
「なら、助けられますよね?」
医師は答えに迷った。
その沈黙だけで、十分だった。
「……努力します」
それだけだった。
ティアはその場で目を閉じた。
数日前まで、レノは普通に話していた。
エクィトゥム王国から帰ってきて。
学院に戻って。
秋になって。
園遊会や狩猟大会の話をして。
いつも通りの日常が続くと思っていた。
それなのに。
たった一本の矢で。
その全部が壊れた。
「……嫌」
小さく呟く。
「こんなの……嫌です」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
「だって……」
ティアは治療室の扉を見る。
「婚約するって……決まったばかりなのに」
声が震えた。
「これから一緒に生きるって……」
涙が頬を伝う。
「まだ、何も始まってないのに……」
「また、離れ離れになっちゃうの....」
エリシアがそっと肩へ手を置く。
ティアはその手を振り払わなかった。
ただ、扉を見つめ続けていた。
◆
夜が深くなっても、治療は終わらなかった。
何度も医師が出入りする。
そのたびに、ティアは立ち上がる。
だが。
「まだです」
「状態は変わりません」
「非常に危険です」
返ってくるのは、そればかりだった。
そして深夜。
治療室の中から、いつもより慌ただしい声が響いた。
「脈が弱い!」
「治療師を呼べ!」
「急いでください!」
ティアが立ち上がる。
「何があったんですか!?」
扉を開けようとするが、騎士に止められる。
「殿下、中へは――」
「でも!」
その瞬間、治療室から医師が飛び出してきた。
「グラーティア殿下、今はどうか待ってください!」
「レノに何があったんですか!」
「状態が急激に悪化しました」
ティアの顔が青ざめる。
「……悪化?」
「はい」
医師の声も緊張していた。
「毒の作用が強まっています。今は非常に危険です」
「助かるんですか?」
「……」
「先生」
「分かりません」
その一言に、ティアの顔から表情が消えた。
「……分からない?」
「現時点では、何とも申し上げられません。これから数時間が本当に危険です」
ティアは何も言わなかった。
何かを考えようとしても、頭が動かない。
ただ一つだけ。
レノを失うかもしれない。
その事実だけが頭の中に残っていた。
◆
夜は長かった。
そして、朝になった。
東の空が明るくなっても、治療室の扉は開かなかった。
ティアは一睡もしていない。
エリシアも同じ場所にいた。
アウレリウスも、途中で何度か医師へ確認を取りながら、治療室の前に残っていた。
国王である父親。
婚約者である少女。
そして、レノを支える者たち。
誰もが言葉を失っていた。
やがて、朝になって初めて医師が出てきた。
「……どうですか?」
アウレリウスが尋ねる。
「まだ生きておられます」
その言葉に、ティアが顔を上げる。
「ですが、かなり危険な状態です」
「……」
「夜を越えたことは大きい。しかし、毒の作用が残っている以上、まだ安心できません」
「つまり?」
「今日一日を越えられるかどうかも分かりません」
ティアは唇を噛んだ。
昨日より良くなったわけではない。
ただ、まだ死んでいないだけだった。
それだけだった。
そして、その「まだ生きている」という僅かな希望にしがみつくしかなかった。
◆
二日目。
レノは意識を戻さない。
身体もほとんど動かない。
治療師たちが魔力による治療を施し、医師が状態を確認する。しかし、明確な改善は見られなかった。
「……このままでは」
医師の一人が小さく呟く。
「三日目まで持たない可能性があります」
その言葉を聞いたティアは、何も言えなかった。
三日。
たった三日。
それだけ生きれば。
そこを越えれば、少しずつ回復する可能性がある。
医師たちはそう説明していた。
だが、その三日間があまりにも長かった。
数時間ごとに状態が悪くなる。
何度も「危険です」と言われる。
何度も「まだ分かりません」と言われる。
ティアはそのたびに、もう助からないのではないかと思った。
「……レノ」
治療室の扉へ手を当てる。
「お願い……」
涙が落ちる。
「まだ、何も返してないよ」
返事はない。
「婚約だって、これからなのに」
返事はない。
「お母様にも、ちゃんと話したいって言ってたのに」
返事はない。
「今度こそ一緒に生きるって言ったじゃない」
返事はなかった。
ティアはその場に座り込んだ。
「……お願いだから」
声が震える。
「置いていかないで……」
◆
三日目の夜。
治療室はこれまでで最も静かだった。
医師たちが必要な処置を終え、何度も状態を確認している。
そして。
「……」
担当医がレノの状態を確認する。
しばらくして。
「……毒の作用が、弱まり始めています」
別の医師が顔を上げた。
「本当に?」
「はい」
脈を確認する。
呼吸を確認する。
そして、何度も状態を確認する。
「急激な悪化が止まっています」
医師の表情が少しだけ変わった。
「……峠を越えた可能性があります」
扉の外で、その報告を聞いたティアは、すぐには意味を理解できなかった。
「……峠?」
「はい」
医師が頷く。
「ここ三日間を生き延びました。毒による急激な危険状態を越えた可能性が高いです」
ティアの目から、涙が零れた。
「じゃあ……」
「助かる可能性は、これまでよりは高くなりました」
その瞬間。
ティアはその場で膝をついた。
「……よかった」
声にならない。
ただ、何度も何度も頷く。
「よかった……」
エリシアも目を伏せて、静かに涙を拭った。
アウレリウスも長く息を吐いた。
「……そうか」
短い言葉だった。
だが、その声にはこの三日間で初めて、明確な安堵があった。
「ただし」
医師が続ける。
「しかし、まだ安心はできません。殿下は瀕死の重傷を負っています。毒の影響も残っていますし、身体も大きく消耗しています。意識が戻るまで時間がかかる可能性がありますし、しばらくは自力で起き上がることもできないでしょう」
「……どれくらい?」
「正確には分かりません。数週間、あるいはそれ以上かかる可能性もあります」
ティアは頷いた。
「それでも……」
治療室の扉を見る。
「生きているんですよね」
「はい」
「なら、それでいいです」
涙を拭いながら、ティアは静かに笑った。
「待ちます」
治療室の中。
レノはまだ目を覚まさない。
自分の力で身体を動かすこともできない。
完全に回復するまでには、長い時間が必要になる。
だが。
生きている。
それだけでよかった。
三日間。
何度も絶望を突きつけられながら、それでも最後の一線を越えずに生き残った。
だから、ここから先は少しずつでいい。
傷を癒やし。
毒の影響を抜き。
失った体力を取り戻し。
そしていつか。
また、自分の足で立てる日を迎える。
その日がいつになるのかは、誰にも分からなかった。
それでも。
もう、「死ぬかもしれない」という未来だけを見つめる必要はない。
第一王子レノウィウスは、瀕死の状態から生き残った。
そして今。
長い回復の時間が、始まった。




