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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第3章 第二王妃ヴィクトリア
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第52話 瀕死

 治療室の扉が閉じてから、どれほど時間が経ったのか、ティアには分からなかった。廊下の窓から見える空はいつの間にか夕暮れを越え、王都は夜へ沈み始めている。それでも治療室の中だけは昼間のように明るく、医師と治療師たちが途切れることなく動き続けていた。誰かが薬を持ち込み、誰かが治療道具を運び、誰かが何度もレノの状態を確認している。それでも、一向に扉の向こうから「大丈夫です」という言葉は出てこなかった。


 やがて、治療室の扉が開く。


 出てきた医師の顔を見た瞬間、ティアは何となく分かってしまった。


「……どうですか?」


 声が震える。


 医師はすぐには答えなかった。


「傷そのものは、処置を続けています。しかし……」


「しかし?」


「毒の作用が強すぎます」


 その言葉を聞いた瞬間、ティアの表情が固まった。


「今の段階では、どれほどの量が回っているのか、正確には判断できません。解毒処置も行っていますが、未知の毒であるため、効果が確実とは言えません」


「……それで?」


「殿下の状態は、かなり悪いです」


 ティアは黙って医師を見る。


「どれくらい……ですか?」


 医師は視線を落とした。


「正直に申し上げます。今夜を越えられる保証はありません」


 その言葉が、静かな廊下へ落ちた。


 ティアは何も言えなかった。


 周囲にいたエリシアや侍女たちも、息を呑んでいる。


「……そんな」


「我々も、全力で治療しています。しかし、今の殿下は非常に危険な状態です。毒の作用がこれ以上進めば、治療を続けること自体が難しくなる可能性もあります」


「治療を続けることが……難しく?」


「ええ」


 医師は苦しそうに頷いた。


「今は、ただ時間との勝負です」


 ティアの手が震えた。


「……レノは」


 声が掠れる。


「レノは、まだ生きていますよね?」


「はい」


「なら……」


 ティアは必死に言葉を繋いだ。


「なら、助けられますよね?」


 医師は答えに迷った。


 その沈黙だけで、十分だった。


「……努力します」


 それだけだった。


 ティアはその場で目を閉じた。


 数日前まで、レノは普通に話していた。


 エクィトゥム王国から帰ってきて。


 学院に戻って。


 秋になって。


 園遊会や狩猟大会の話をして。


 いつも通りの日常が続くと思っていた。


 それなのに。


 たった一本の矢で。


 その全部が壊れた。


「……嫌」


 小さく呟く。


「こんなの……嫌です」


 誰に言っているのか、自分でも分からない。


「だって……」


 ティアは治療室の扉を見る。


「婚約するって……決まったばかりなのに」


 声が震えた。


「これから一緒に生きるって……」


 涙が頬を伝う。


「まだ、何も始まってないのに……」


「また、離れ離れになっちゃうの....」


 エリシアがそっと肩へ手を置く。


 ティアはその手を振り払わなかった。


 ただ、扉を見つめ続けていた。


              ◆


 夜が深くなっても、治療は終わらなかった。


 何度も医師が出入りする。


 そのたびに、ティアは立ち上がる。


 だが。


「まだです」


「状態は変わりません」


「非常に危険です」


 返ってくるのは、そればかりだった。


 そして深夜。


 治療室の中から、いつもより慌ただしい声が響いた。


「脈が弱い!」


「治療師を呼べ!」


「急いでください!」


 ティアが立ち上がる。


「何があったんですか!?」


 扉を開けようとするが、騎士に止められる。


「殿下、中へは――」


「でも!」


 その瞬間、治療室から医師が飛び出してきた。


「グラーティア殿下、今はどうか待ってください!」


「レノに何があったんですか!」


「状態が急激に悪化しました」


 ティアの顔が青ざめる。


「……悪化?」


「はい」


 医師の声も緊張していた。


「毒の作用が強まっています。今は非常に危険です」


「助かるんですか?」


「……」


「先生」


「分かりません」


 その一言に、ティアの顔から表情が消えた。


「……分からない?」


「現時点では、何とも申し上げられません。これから数時間が本当に危険です」


 ティアは何も言わなかった。


 何かを考えようとしても、頭が動かない。


 ただ一つだけ。


 レノを失うかもしれない。


 その事実だけが頭の中に残っていた。


              ◆


 夜は長かった。


 そして、朝になった。


 東の空が明るくなっても、治療室の扉は開かなかった。


 ティアは一睡もしていない。


 エリシアも同じ場所にいた。


 アウレリウスも、途中で何度か医師へ確認を取りながら、治療室の前に残っていた。


 国王である父親。


 婚約者である少女。


 そして、レノを支える者たち。


 誰もが言葉を失っていた。


 やがて、朝になって初めて医師が出てきた。


「……どうですか?」


 アウレリウスが尋ねる。


「まだ生きておられます」


 その言葉に、ティアが顔を上げる。


「ですが、かなり危険な状態です」


「……」


「夜を越えたことは大きい。しかし、毒の作用が残っている以上、まだ安心できません」


「つまり?」


「今日一日を越えられるかどうかも分かりません」


 ティアは唇を噛んだ。


 昨日より良くなったわけではない。


 ただ、まだ死んでいないだけだった。


 それだけだった。


 そして、その「まだ生きている」という僅かな希望にしがみつくしかなかった。


              ◆


 二日目。


 レノは意識を戻さない。


 身体もほとんど動かない。


 治療師たちが魔力による治療を施し、医師が状態を確認する。しかし、明確な改善は見られなかった。


「……このままでは」


 医師の一人が小さく呟く。


「三日目まで持たない可能性があります」


 その言葉を聞いたティアは、何も言えなかった。


 三日。


 たった三日。


 それだけ生きれば。


 そこを越えれば、少しずつ回復する可能性がある。


 医師たちはそう説明していた。


 だが、その三日間があまりにも長かった。


 数時間ごとに状態が悪くなる。


 何度も「危険です」と言われる。


 何度も「まだ分かりません」と言われる。


 ティアはそのたびに、もう助からないのではないかと思った。


「……レノ」


 治療室の扉へ手を当てる。


「お願い……」


 涙が落ちる。


「まだ、何も返してないよ」


 返事はない。


「婚約だって、これからなのに」


 返事はない。


「お母様にも、ちゃんと話したいって言ってたのに」


 返事はない。


「今度こそ一緒に生きるって言ったじゃない」


 返事はなかった。


 ティアはその場に座り込んだ。


「……お願いだから」


 声が震える。


「置いていかないで……」


              ◆


 三日目の夜。


 治療室はこれまでで最も静かだった。


 医師たちが必要な処置を終え、何度も状態を確認している。


 そして。


「……」


 担当医がレノの状態を確認する。


 しばらくして。


「……毒の作用が、弱まり始めています」


 別の医師が顔を上げた。


「本当に?」


「はい」


 脈を確認する。


 呼吸を確認する。


 そして、何度も状態を確認する。


「急激な悪化が止まっています」


 医師の表情が少しだけ変わった。


「……峠を越えた可能性があります」


 扉の外で、その報告を聞いたティアは、すぐには意味を理解できなかった。


「……峠?」


「はい」


 医師が頷く。


「ここ三日間を生き延びました。毒による急激な危険状態を越えた可能性が高いです」


 ティアの目から、涙が零れた。


「じゃあ……」


「助かる可能性は、これまでよりは高くなりました」


 その瞬間。


 ティアはその場で膝をついた。


「……よかった」


 声にならない。


 ただ、何度も何度も頷く。


「よかった……」


 エリシアも目を伏せて、静かに涙を拭った。


 アウレリウスも長く息を吐いた。


「……そうか」


 短い言葉だった。


 だが、その声にはこの三日間で初めて、明確な安堵があった。


「ただし」


 医師が続ける。


「しかし、まだ安心はできません。殿下は瀕死の重傷を負っています。毒の影響も残っていますし、身体も大きく消耗しています。意識が戻るまで時間がかかる可能性がありますし、しばらくは自力で起き上がることもできないでしょう」


「……どれくらい?」


「正確には分かりません。数週間、あるいはそれ以上かかる可能性もあります」


 ティアは頷いた。


「それでも……」


 治療室の扉を見る。


「生きているんですよね」


「はい」


「なら、それでいいです」


 涙を拭いながら、ティアは静かに笑った。


「待ちます」


 治療室の中。


 レノはまだ目を覚まさない。


 自分の力で身体を動かすこともできない。


 完全に回復するまでには、長い時間が必要になる。


 だが。


 生きている。


 それだけでよかった。


 三日間。


 何度も絶望を突きつけられながら、それでも最後の一線を越えずに生き残った。


 だから、ここから先は少しずつでいい。


 傷を癒やし。


 毒の影響を抜き。


 失った体力を取り戻し。


 そしていつか。


 また、自分の足で立てる日を迎える。


 その日がいつになるのかは、誰にも分からなかった。


 それでも。


 もう、「死ぬかもしれない」という未来だけを見つめる必要はない。


 第一王子レノウィウスは、瀕死の状態から生き残った。


 そして今。


 長い回復の時間が、始まった。

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