第48話 学院の秋
夏季休暇が終わり、俺たちは再び王立貴族学院へ戻った。エクィトゥム王国から帰還してからしばらくの間は、学院が休暇中だったこともあり、今回の戦争や国家間の協議について考える時間が多かったが、季節が秋へ移り変わる頃には、王都の日常も少しずつ元へ戻り始めていた。学院へ登校する生徒たちの顔ぶれも変わらず、教員たちもいつも通り授業を進め、廊下では貴族家の子弟たちが友人同士で会話を交わしている。夏季休暇前まで学院内を覆っていた派閥争いの緊張も、今ではほとんど感じられなくなっていた。
俺は教室へ向かう廊下を歩きながら、周囲の様子を眺めていた。かつては第一王子派と第二王子派の生徒が露骨に距離を取り、昼食の席や授業後の会話にまで派閥の違いが表れていたが、今ではそうした光景もほとんどない。第二王子派に属していた生徒たちも、以前のように第一王子派へ敵意を向けることはなくなり、むしろ学院という一つの組織の中で、それぞれの立場を維持しながら静かに過ごしているように見える。武術大会で第一王子派が勝利したことで、学院内の勢力図は決定的に変わった。ルキウスが敗れ、アウルスを含む主要な第二王子派の戦力も打ち破られた以上、今さら表立って抵抗を続けても意味がない。第二王子派の生徒たちも、そのことを理解しているのだろう。
だからといって、俺は第二王子派が完全に消えたとは考えていなかった。学院という限られた場所では、第一王子派の勝利がほぼ確定している。だが、派閥というものは、単純に人数が減ったから消滅するわけではない。生徒たちの背後にはそれぞれの家があり、その家の背後には領地、財産、親族、官職、婚姻関係、そして王宮内の人脈が存在している。学院内で口を閉ざしたからといって、彼らの家まで第一王子派へ寝返ったわけではない。そう考えれば、今の学院が静かなのは第二王子派が敗北を受け入れたからではなく、次に動く理由がないから黙っているだけとも考えられた。
しかし、少なくとも学院生活そのものは以前より穏やかになっている。授業が終われば友人同士で話し、昼休みになれば食堂へ向かい、放課後になればそれぞれの家へ戻る。俺の側近として動いていた連中も、それぞれの役割へ戻り、学院内での派閥争いを意識して行動する必要はほとんどなくなった。ティアも以前より表情が柔らかくなっており、学院で俺と顔を合わせれば以前のように自然に話しかけてくる。エリシアも学院生活へすっかり馴染み、普段は気弱な少女として振る舞いながら、武術訓練の話になると別人のように目を輝かせるという、相変わらず分かりやすい性格をしていた。
そんな中で、学院は次の行事へ向けて動き始めていた。
「そろそろ学院園遊会の準備が始まるそうですよ」
昼休み、ティアがそう話しかけてきた。
「もうそんな時期か」
「はい。夏季休暇が終わって秋になりましたから。毎年、この時期は学院園遊会と狩猟大会の準備で忙しくなります」
「学院園遊会か」
王立貴族学院に通う貴族子弟にとって、学院園遊会は単なる学生行事ではない。生徒だけでなく、その家族や王宮関係者、学院へ関係する貴族まで集まるため、社交の場としての意味も大きい。特に今年は武術大会によって学院内の派閥争いがほぼ決着した直後ということもあり、去年までとは違った空気になることは容易に想像できた。
「今年は、去年より静かになるんじゃない?」
ティアがそう言って笑った。
「去年は第二王子派との間で何かと空気が悪かったからね」
「そうだな。少なくとも学院内では、もう表立って争う理由はない」
「それなら、普通の学院行事として楽しめそう」
「普通、というのがどこまで普通なのかは分からないけどな」
俺がそう返すと、ティアは少しだけ笑った。
確かに、学院園遊会という名前だけを聞けば穏やかな行事に思える。しかし、ここは王立貴族学院だ。集まるのは未来の貴族、官僚、騎士、王族たちであり、彼らの親や兄弟もまた国内の政治と深く関わっている。園遊会で交わされる会話一つとっても、単純な雑談で終わらないことは珍しくない。それでも、今年に限って言えば、学院内の派閥争いが決着したことで、少なくとも以前ほどの露骨な緊張はないだろう。
そして、学院園遊会と並んで秋の恒例行事となっているのが、狩猟大会だった。
狩猟大会は、貴族子弟にとって単なる娯楽ではない。騎士としての技量を示す機会であり、家同士の交流の場でもあり、同時に王族や有力貴族にとっては、生徒たちの成長を見る場でもある。俺自身も過去に何度か参加しており、森へ入って獲物を追った経験がある。前世の記憶が戻った直後に参加した最初の狩猟大会では、森の中で美咲――いや、ティアの前世について思い出したことさえあった。
そんなことを考えていると、ティアが少しだけ首を傾げた。
「今年の狩猟大会も参加する?」
「王族だからな。参加しない方が不自然だろう」
「そうだよね」
「それに、今年は学院内の状況も落ち着いている。去年までのように、誰かが派閥を利用して騒ぎを起こす可能性も低いだろう」
「……そう思う?」
ティアの声が僅かに変わった。
「何か気になることでもあるのか?」
「ううん。ただ、レノは少し警戒しすぎる時があるから」
「警戒しすぎるくらいでちょうどいい」
俺がそう答えると、ティアは少しだけ苦笑した。
「やっぱり変わらないね」
「何が?」
「そういうところ」
ティアはそれ以上何も言わず、窓の外へ目を向けた。
俺もつられて外を見る。
学院の敷地に植えられた木々の葉が少しずつ色づき始めている。夏の強い日差しは弱まり、涼しい風が校舎の間を通り抜ける。秋になったのだと、改めて実感した。
そして、秋という季節が来たということは――。
学院園遊会と狩猟大会が近づいている。
表面的には、それだけの話だった。
学院内の派閥争いは終わった。
第二王子派も抵抗を見せなくなった。
授業も通常通り行われている。
学院には穏やかな時間が戻ってきた。
だからこそ、俺は妙な違和感を覚えていた。
静かすぎる。
あれほど激しく争っていた第二王子派が、武術大会で敗北した後、これほど素直に沈黙しているのが少し気にかかった。もちろん、戦力を失い、学院内での勝利が絶望的になった以上、表立って動く意味がないという判断は理解できる。それでも、これまでの第二王子派を知っている俺からすると、この静けさが完全な敗北によるものなのか、それとも別の理由によるものなのかは、まだ判断できなかった。
ただ、今すぐ何かが起きる証拠もない。
ならば、必要以上に疑うこともない。
俺はそう判断した。
グラフィルには引き続き王宮やヴィクトリア周辺の調査を続けさせている。学院外で大きな動きがあれば、いずれ報告が上がってくるだろう。それまでは、目の前の学院生活を普通に過ごせばいい。
そんなことを考えながら教室へ戻ると、教員から園遊会と狩猟大会についての正式な説明があった。学院園遊会では各学年がそれぞれの役割を担い、生徒たちが中心となって会場を作り上げるという。狩猟大会についても例年通りの形式が予定されており、参加を希望する生徒は事前に申請することになっていた。
教室のあちこちから、早くも狩猟大会についての話が聞こえてくる。どの獲物を狙うか、誰と組むか、去年は誰が優勝したのか、今年は誰が強いのか。武術大会とは違い、派閥そのものが前面に出る行事ではないからか、第二王子派の生徒たちも普通に会話へ加わっていた。そこには以前のような露骨な敵意はない。
学院は、少しずつ元の日常を取り戻していた。
俺はその光景を眺めながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
王位継承争い。
ヴィクトリア。
エクィトゥム王国との婚約。
そして、一年半後に予定されているシルウァニア王国との戦争。
ここ最近、考えなければならないことが多すぎた。だからこそ、学院で過ごす普通の日々くらいは、そのまま普通に過ごしてもいいのかもしれない。
秋の学院。
園遊会。
狩猟大会。
それらは、少なくとも表面上は、何の変哲もない学院生活の一部だった。
だが――。
学院の中で何も起きていないからといって、王国全体が静かなわけではない。
むしろ俺の知らない場所では、あの夏の間に様々なものが動き始めていた。
エクィトゥム王国では、シルウァニア王国戦へ向けた準備が始まっている。
アンティクイランド王国でも、表向きには何も変わらないまま、軍務卿や財務卿たちが一年半後の戦争に向けた準備を始めている。
そして――。
第二王妃ヴィクトリアの周辺についても、グラフィルが調査を続けている。
俺はまだ、その報告を受け取っていない。
だから今は、何も分からない。
分からない以上、勝手に敵の姿を作り上げるつもりもなかった。
学院内で第二王子派が抵抗をやめたのなら、それを一つの事実として受け入れる。
そして、次に何かが起きた時に考える。
それでいい。
「レノ」
ティアが再び俺へ声をかけてきた。
「今年の狩猟大会、楽しみだね」
「ああ」
俺は窓の外へ目を向ける。
秋の風が吹き、木々の葉が静かに揺れていた。
「たまには、何も考えずに楽しむのも悪くない」
「……うん」
ティアが嬉しそうに笑う。
こうして、王立貴族学院の秋が始まった。
学院園遊会と狩猟大会を控えた、生徒たちにとっては穏やかな季節だった。




