第46話 ティアの幼少期
会議が終わった。
最後にいくつかの細かな確認を終えると、俺は資料をまとめ、席を立った。三十五万人の軍を動かすエクィトゥム王国と、一万七千しか戦場へ送れないアイティクイランド王国。その差を改めて突きつけられた会議だったが、少なくとも互いの事情を理解したことで、これからの協議を進めるための土台はできたと思う。
オスティエール公爵をはじめとする実務担当者たちは、まだ残って細かな作戦の調整を続けるらしい。俺も本来ならその場に残るべきなのだろうが、今日のところはここまでだった。
会議室を出ると、先ほどまで張り詰めていた空気が少しだけ遠ざかったように感じた。
「レノ」
廊下へ出たところで、声を掛けられた。
振り返ると、そこにはエクィトゥム王国の第一王妃が立っていた。
「第一王妃」
「少し時間をもらえるかしら?」
「はい」
第一王妃は穏やかに微笑むと、俺を別の部屋へ案内した。そこは先ほどの会議室とは違い、王族が休息を取るための小さな応接室だった。窓からは王城の庭園が見え、会議室にあったような地図や軍事資料もない。
俺が向かいの席へ腰を下ろすと、第一王妃もゆっくりと腰を下ろした。
「先ほどの会議、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
「まさか、ティアの婚約者になる少年と、あれほど本格的な戦争の話をすることになるとは思っていませんでした」
そう言って、第一王妃は小さく笑った。
「私も少し驚いています」
「あなたは、もっと普通の少年らしい話をしているものだと思っていましたよ」
「……一応、俺も普通の話くらいはします」
「そう?」
第一王妃は楽しそうに目を細めた。
そして、少し間を置いてから、ふと表情を柔らかくした。
「ところで」
「はい」
「ティアのことを、少し聞いてもいいかしら?」
「ティアのことですか?」
「ええ。あなたは前世のことを知っているのでしょう?」
「はい」
「では、今のティアがどういう子なのかも、ある程度は知っているのでしょうね」
その問いに、俺は少し考えた。
「……知っているつもりです」
俺の答えを聞いて、第一王妃は静かに笑った。
「そう。なら、少しだけ話しておきましょう。あの子がこの世界で、どんな人生を歩んできたのか」
「お願いします」
第一王妃は窓の外へ視線を向けた。
「ティアが五歳になるまでは、本当に普通の王女でした」
「普通、ですか?」
「ええ。少し優秀ではありましたけれど、それ以外は特に変わったところもありませんでした。礼儀作法も覚え、王族としての教育も受けて、周囲の者にもよく懐いていました。魔法についても、年齢を考えれば十分に優秀でしたが、まさか後にあれほどのことになるとは誰も思っていませんでした」
「五歳の時に、何かあったんですね」
「ええ」
第一王妃の表情が、少しだけ曇った。
「五歳のお披露目の時です」
「……魔力暴走」
「そうです」
俺は黙って頷いた。
ティアからも、以前その話を聞いたことがある。
「王族の子供が五歳になった時のお披露目は、この国ではそれなりに重要な行事です。親族だけでなく、多くの貴族や王宮関係者も集まります。ティアも、それまでは自分が王女として皆の前に立つことを楽しみにしていました」
「ですが……」
「魔力が暴走した」
「はい」
「それも、普通の魔力暴走ではありませんでした」
第一王妃は少しだけ言葉を選んだ。
「周囲の者が止めようとしても、幼いティア自身には制御できなかった。本人も何が起きているのか理解できていなかったのでしょう。あの子にとっては、自分の力が突然、自分の意思とは関係なく溢れ出しただけです」
「それ以降、表に出なくなった」
「ええ」
第一王妃は静かに頷いた。
「お披露目の後、ティアは王宮の表舞台から遠ざけられました。もちろん、王族としての教育そのものを止めたわけではありません。ですが、人前へ出すことには慎重になりました。本人が何かを起こすことを恐れたというより、周囲がティアを恐れるようになってしまったのです」
「……」
「子供というのは、周囲の反応に敏感ですからね。ティアも、自分を見る大人たちの目が変わったことに気づいていたのでしょう」
俺は黙って聞いていた。
今のティアからは、そんな過去があったとは想像しにくい。
いつも明るく、時には俺よりも大胆で、戦場ではエリシアと一緒になって敵陣へ突っ込んでいくような少女だ。
「だから、ティアは王宮の中で過ごす時間が増えていったのですか?」
「そうね。外から見れば、ただの『表に出ない王女』です。でも本人からすれば、望んでそうなったわけではありません」
第一王妃は苦笑した。
「そんな状態が長く続いたところへ、ダライアス王があの子をアイティクイランド・エクィトゥム戦争へ向かわせることを決めました」
「……そこから、俺と出会った」
「そういうことです」
第一王妃は、そこで初めて少し呆れたような表情を浮かべた。
「正直に言えば、私はあの子が戦争から戻ってきた時、まず無事だったことに安心しました。そして、その次に思ったのが――」
「何ですか?」
「どうしてこうなったのかしら、でした」
「……」
「ダライアス王の意向で戦争へ向かい、行方不明になったかと思えば、敵国の第一王子と一緒に帰ってくる。しかも、ただ一緒に帰ってきただけではなく、その第一王子と恋仲になっている」
第一王妃は俺を見る。
「母親としては、かなり驚きますよ?」
「……それは、そうでしょうね」
「しかも、その相手がアンティクイランド王国の第一王子ですから」
「申し訳ありません」
「あなたが謝ることではありませんよ」
第一王妃は笑った。
「むしろ、ティアがそこまで自分の意思で何かを選べるようになったことを、私は嬉しく思っています」
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
「ええ」
第一王妃は穏やかに続けた。
「五歳のお披露目以来、ティアはずっと、自分の力や立場によって周囲から行動を決められてきました。人前に出るな。無理をするな。魔力を使うな。王女なのだからこうしなさい。王族なのだからこう振る舞いなさい。そういう言葉を、あの子は何度も聞いてきたはずです」
「……」
「だからこそ、戦争から戻ってきたあの子を見た時、私は少し驚きました。以前とは違っていたんです」
「どう違っていましたか?」
「自分で決めたことを、自分の言葉で話すようになっていました」
第一王妃は微笑んだ。
「それがたとえ、敵国の第一王子を好きになったという、とんでもない話だったとしてもね」
「……」
「最初に聞いた時は、本当に驚きましたよ。よりによって敵国の王子なのですから」
俺は苦笑した。
「俺も、かなり驚かれたと思っています」
「ええ。ですが――」
第一王妃はそこで少しだけ間を置いた。
「今のティアを見ると、私はこれでよかったのだと思っています」
「……」
「あなたと一緒にいる時のあの子は、とても楽しそうですから」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
ティアがこの世界でどんな幼少期を過ごしてきたのか。
俺は知らなかった。
五歳のお披露目で魔力を暴走させ、それを境に人前へ出ることを避けるようになったことも、周囲の視線を気にしながら王宮で過ごしていたことも、戦争へ送り出されたことも。
俺が知っていたのは、その後のティアだった。
戦場で俺と出会い、俺の隣に立つことを選び、そして今、婚約者としてこの国へ戻ってきた少女。
「……母親としては」
第一王妃が再び口を開いた。
「まさか、戦争へ送り出した娘が、敵国の第一王子を連れて帰ってくるとは思いませんでした」
「……俺も、まさか自分がこうなるとは思っていませんでした」
「ふふっ」
第一王妃は楽しそうに笑った。
「でも、結果としては悪くなかったのでしょうね」
「そうだと思います」
「なら、これからもあの子をお願いします」
その言葉に、俺は少しだけ姿勢を正した。
「はい」
それだけは、迷わず答えられた。
第一王妃は満足そうに頷いた。
「ありがとう」
窓の外へ目を向ける。
王城の庭園には、夕暮れの光が差し込んでいた。
会議室で話していた戦争のこととは、まるで別世界のような静かな時間だった。
だが、俺にとっては同じ一日だ。
国家同士の戦争について話し、その直後にはティアの過去を聞く。
王族として生きる以上、どちらも切り離すことはできないのだろう。
そして――。
ティアがこの世界で歩んできた道を知ったことで、俺は改めて思った。
俺だけが、前世から続く人生を抱えているわけではない。
ティアにもまた、俺の知らない過去がある。
そして俺たちは、その過去を抱えたまま、この世界でこれからの人生を歩いていく。
その先にあるのが、婚約なのか。
戦争なのか。
あるいは、その両方なのか。
今の俺には、まだ分からなかった。




