第41話 夜景
宴が終わったのは、すっかり夜も更けた頃だった。ウィムーヌ子爵家の屋敷では、昼間とは違った静かな空気が流れている。昼の食卓では親族同士の会話や外交上の話も多く、俺も王族として相応しい態度を崩さないよう意識していたが、部屋へ戻るにはまだ少し早い気がして、俺は屋敷の中を歩いていた。そんな時、廊下の先にある扉が半ば開いているのに気づいた。使用人用の通路かと思ったが、扉の向こうから夜風が入ってくる。何となく気になって近づき、その扉を開けてみると、そこには思いがけず広いテラスがあった。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った屋敷の上から、海と領都を一望できる場所だった。
テラスへ出ると、まず目に入ったのは海だった。月明かりを受けた海面がところどころ銀色に輝き、その向こうには水平線が夜の闇へ溶け込むように伸びている。海岸沿いにはまだ眠っていない市場や酒場があり、店先の明かりが通りへ漏れ、街全体が小さな光の集まりのように見えた。昼間は人と馬車が行き交っていた道も、夜になれば人影は少なくなっている。それでも酒場から漏れる笑い声や、港の方から聞こえる船の音は完全には消えず、この街がまだ眠っていないことを伝えている。そしてそのさらに先、街の灯りから少し離れた丘陵には、昼間に見た葡萄畑が広がっていた。夜の葡萄畑は昼間とはまるで違い、月明かりを受けた葉が静かに揺れ、その向こうに海があるという景色は不思議なほど美しかった。
俺が欄干に手を置きながらその景色を眺めていると、背後から足音が聞こえた。振り返ると、そこにいたのはティアだった。彼女もこのテラスを見つけたらしい。
「こんな場所があったんだね」
「ああ。俺もさっき気づいた」
ティアは俺の隣まで歩いてくると、欄干から身を乗り出さない程度に海を眺めた。少しだけ夜風が吹き、彼女の髪が揺れる。昼間の宴では多くの人間に囲まれていたからか、こうして二人きりになると妙に静かに感じた。遠くの市場の明かりを眺めながら、しばらく何も言わずに立っていると、不思議と気まずさはなかった。むしろ、何も話さなくてもいい時間というものが、最近の俺には少し心地よく感じられていた。
「……綺麗だね」
ティアが海を眺めたまま言う。
「ああ」
「昼間とは全然違う」
「夜になると、葡萄畑も別の景色に見えるな」
「本当だ。昼間はずっと明るくて、葡萄の木がたくさんあるっていう感じだったのに、今は海と街の灯りの間に浮かんでるみたい」
俺はティアの言葉を聞きながら、もう一度景色を見る。海、街の明かり、酒場から漏れる暖かな光、その向こうに広がる葡萄畑。どれも派手ではない。それでも、この場所にしかない景色なのだろう。王都の夜景なら何度も見たことがある。王宮から見下ろす街の灯りはもっと大きく、華やかで、人口の多さをそのまま示すような光景だった。しかし、この領都の夜景には、それとは違う落ち着きがあった。海と畑と街が一つになっているような、静かで穏やかな夜だった。
「今日の料理も美味しかったね」
「パエリアか?」
「うん。まさかウィムーヌ子爵領で、あんな料理を見るとは思わなかった」
「俺もだ」
ティアは少し笑う。
「でも、ちょっと嬉しかった」
「何が?」
「レノと一緒に、同じものを見て、同じことを思ったから」
「……そうか」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ視線を逸らした。たいしたことを言われたわけではない。それなのに、妙に気恥ずかしい。前世では、こういう感情にもっと素直だった気がする。誰かと一緒にいることを喜び、楽しいことがあれば笑い、嬉しければ嬉しいと感じる。それが当たり前だった。だが、母上――リウィアが暗殺されてからの俺は、そうした感情を表へ出すことを極端に減らしてきた。王族として生き残るためには、感情よりも判断が必要だった。人の死を見ても、怒りに任せて動いてはいけない。誰かを信用する時も、感情だけで決めてはいけない。そうやって、俺は少しずつ冷静で、冷徹な人間になっていった。
けれど、ティアといる時だけは、それが少しずつ崩れていく。彼女は俺に政治的な判断を求める時もあれば、くだらないことで笑わせてくることもある。俺が考えすぎている時には、そんなに難しく考えなくてもいいと言ってくるし、俺が感情を抑えすぎている時には、呆れた顔をしながらもそのまま受け止めてくれる。今日も、料理を見て同じように「パエリアだね」と答えた。たったそれだけのことなのに、俺は昔の自分を思い出していた。
「ねえ、レノ」
「何だ?」
「私たち、本当に婚約するんだね」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わずティアを見る。彼女もこちらを見ていた。昼間のような王族としての表情ではない。少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑っている。
「ああ。十五歳になったら、卒業式と成人式、立太子の儀と一緒に婚約式を行う予定だそうだ」
「うん」
ティアは少しだけ俯いた。
「なんだか、変な感じ」
「何が?」
「今までずっと一緒にいたのに、婚約って言葉になると急に大きなことみたいに感じる」
「……分かる」
俺も同じだった。これまでティアとは何度も一緒にいた。学院でも、王宮でも、戦場でも、くだらない会話をしたこともあれば、政治や戦争について話したこともある。それなのに、「婚約」という言葉になると、急にその先まで意識してしまう。十五歳で婚約し、その後には結婚が待っている。王族として考えれば当然の流れなのだろうが、頭では理解していても、実際に自分の未来として考えると妙に恥ずかしくなる。
「……その先は、結婚なんだよね」
ティアが小さく言った。
「ああ」
「……」
「……」
どちらも。
少し黙った。
さっきまで普通に話していたのに、急に言葉が続かなくなる。別に何か特別なことをするわけでもない。ただ未来の予定を口にしただけなのに、それが妙に照れくさい。俺は自分でも意外だった。戦場で敵を前にしても冷静でいられる。国家方針を巡る会議でも、貴族たちの思惑を整理しながら判断できる。それなのに、こういう話になると、どうにも調子が狂う。
ティアが先に笑った。
「レノ、顔がちょっと赤いよ」
「……夜風のせいだ」
「そういうことにしておくね」
「ティアも似たようなものだろう」
「……それは言わないで」
ティアも少しだけ顔を逸らした。その様子を見ていると、俺まで可笑しくなってくる。こんな会話をしている自分が、少し信じられなかった。母上が暗殺されてから、俺は王族として生き残ることばかりを考えてきた。周囲の人間を疑い、敵の思惑を読み、必要ならば冷酷な決断も下してきた。自分が傷つくことよりも、国が揺らぐことの方を気にするようになり、いつしか年齢相応に笑うことさえ少なくなっていたと思う。
けれど、ティアといる時は違う。こうして夜の海を眺めながら、明日の政治でも戦争でもなく、婚約や結婚という未来について話しているだけで、十四歳の少年だった頃の自分が少しだけ戻ってくるような気がした。大人の王族として振る舞うことも、冷徹に判断することも、もちろん今の俺には必要だ。それでも、全部を捨ててまでそうならなければならないわけではない。ティアが隣にいる時くらいは、昔のように笑ってもいい。嬉しい時には嬉しいと言ってもいい。未来を思い浮かべて恥ずかしくなっても、それを隠さなくてもいい。そんな当たり前の感情を、俺はティアのおかげで少しずつ取り戻していた。
「ねえ、レノ」
「何だ?」
「十五歳になったら、卒業して、成人して、王太子になって……そのあと、私と婚約するんだよね」
「そうだな」
「その時も、今日みたいに恥ずかしくなるかな」
「……さあな」
「私は、たぶん恥ずかしくなると思う」
ティアが笑う。
「でも、嬉しいとも思う」
「……俺も」
その言葉を口にしてから、自分でも少し驚いた。昔の俺なら、そんなことを素直に言葉にしなかっただろう。嬉しいと思っていても、必要のない感情だと切り捨てていたかもしれない。だが今は、そうしなくてもいい気がした。
「じゃあ、一緒だね」
「ああ」
ティアは嬉しそうに笑った。
夜の海を渡ってきた風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。遠くの市場ではまだ人の気配があり、酒場の明かりが街を柔らかく照らしている。その先の葡萄畑は月明かりの中で静かに広がり、昼間とは全く違う表情を見せていた。俺はその景色を眺めながら、ふと思う。母上が生きていた頃の俺は、もっと普通の子供だった。母上が笑えば嬉しかったし、誰かと遊ぶことも好きだった。美味しいものを食べれば素直に喜び、くだらないことで笑うこともできた。母上を失ってから、それらを守るために、俺は冷たくならなければならなかったのだと思う。
けれど、冷たくなることだけが強さではなかった。何を捨てても生き残ることだけが、王族として正しいわけでもない。ティアと出会ってから、俺は少しずつそれを理解している。政治では冷徹でいればいい。必要な時には感情を切り捨てればいい。だが、人としての感情まで捨てる必要はない。こうして誰かと未来を話し、その未来を少し恥ずかしく思いながら、それでも楽しみにする感情もまた、今の俺にとって大切なものだった。
「今日は、ここに来られてよかった」
ティアが静かに言った。
「俺もだ」
俺はそう答えた。かつてなら、もっと別の言葉を選んでいたかもしれない。だが今は、それで十分だった。母上の実家で、海を眺めながら、ティアと婚約や結婚の未来について語る。こんな時間が自分にあること自体が、不思議で、少しだけ嬉しい。
そして俺は思った。母上が暗殺されてから、俺は冷徹であることを自分に課してきた。王位継承争いを勝ち抜くため、国家を守るため、敵を排除するためには、それが必要だったからだ。けれど、ティアが隣にいてくれる限り、俺は冷徹な王族であるだけではなく、笑ったり、照れたり、未来を楽しみにしたりできる一人の少年でもいられる。昔の自分を取り戻したというより、冷徹な今の自分の中に、昔の少年だった頃の感情をもう一度居場所として作ることができたのだと思う。
「もう少し、ここにいようか」
俺がそう言うと、ティアは小さく頷いた。
「うん。もう少しだけ」
俺たちはそれ以上多くを語らず、並んで夜の景色を眺め続けた。海の向こうには何も見えない。それでも、その先にはこれから訪れる未来がある。卒業、成人、立太子、婚約、そしていつか迎える結婚。まだ少し先の話なのに、それを思い浮かべるだけで妙に恥ずかしくなり、それでも不思議と楽しみに思える。そんな感情を抱けるようになったことを、俺は静かに噛み締めていた。きっと、それだけでもティアと出会った意味は十分にあるのだろう。




