第38話 残り僅か
武術大会が終わった日の夕方、俺は学院から王宮へ戻っていた。第一王子派の勝利によって、学院内で長く続いてきた派閥争いはほぼ決着した。ティアとルキウスの一騎打ちも終わり、第二王子派の主要な戦力は崩れた。第一王子派七十七人、第二王子派六十三人という戦力差が、実際の戦いでも結果として表れたのだ。これで、学院内において第一王子派が第二王子派より優位に立っていることを否定する者はほとんどいないだろう。
だが、俺の頭には、勝利の喜びよりも別のことが残っていた。観客席から戦場を見つめていた第二王妃ヴィクトリアの姿だ。ルキウスが敗れ、第二王子派が学院内で明確な敗北を喫したにもかかわらず、彼女は焦らなかった。怒りも、動揺も、露骨な落胆も見せず、まるで今日の結果さえも最初から想定していたかのように、静かに戦場を見ていた。
だから俺は、学院内の勝利だけで全てが終わったとは考えていない。むしろ、相手が敗北した時にどんな反応をするかを見ることこそ重要だった。苦しんでいるなら追い込めばいい。怒っているなら、その感情を利用すればいい。焦っているなら、その焦りが新たな隙になる。
だが、何も揺れていないのなら、そこには揺れなくてもいい理由がある。ヴィクトリアが何を考えているのかは、まだ分からない。だからこそ、グラフィルにはすでに彼女の周辺を徹底的に調べるよう命じている。面会相手、手紙、侍女、護衛、王宮内での移動、ガルディシア伯爵家との連絡、第二王子派の残存勢力との接触、そして帝国との繋がりまで、可能な限り全てを調べさせるつもりだった。
そんなことを考えながら自室へ戻ろうとしていたところ、父上付きの侍従が廊下で俺を待っていた。
「殿下、国王陛下がお呼びです。執務室へお越しいただきたいとのことです」
「分かった。すぐに向かう」
父上がこのタイミングで俺を呼ぶ理由は、ほぼ分かっていた。今日の武術大会についてだろう。それだけではないかもしれない。第一王子派の勝利が確定に近づいた以上、王位継承争いに関する今後の予定について、何らかの話がある可能性もある。俺は侍従に案内され、王宮の奥にある父上の執務室へ向かった。
◆
「失礼いたします」
「入れ」
扉を開けると、そこには父上――国王アウレリウスがいた。いつも通り落ち着いた表情で机に向かっているが、その前には今日の武術大会に関する報告書や、今後の王家の予定をまとめた資料がいくつも並べられていた。俺が入室すると、父上は手にしていた書類を机へ置き、こちらへ目を向ける。
「レノ、座れ」
「はい」
俺は父上の向かいへ腰を下ろした。
「今日の武術大会については、すでに報告を受けている」
「そうですか」
「第一王子派の勝利は、ほぼ確定したと見ていいだろう」
第一王子派の勝利、即ち独立派の勝利だ。
「はい」
父上は一度、机の上の書類へ視線を落とした。
「お前が提案した集団戦形式も、教育改革としては十分な成果を上げたようだな。学院生たちは学年を越えて協力し、指揮系統を組み、集団として戦った。武術大会としても成功だっただろう」
「ありがとうございます」
「そして、政治的な意味でもだ」
父上の声が少しだけ低くなる。
「今日の結果をもって、学院内における第一王子派と第二王子派の勢力差は明確になった。第二王子派が学院内で再び大きな勢力を取り戻す可能性は、相当に低くなったと考えていい」
「……では」
俺が言葉を続けようとすると、父上が先に口を開いた。
「十五歳の時点で、必要な儀式をまとめて行う」
俺は一瞬、言葉を止めた。
「必要な儀式、ですか?」
「ああ。王立貴族学院の卒業式、成人式、立太子の儀、そして婚約式だ」
「……婚約式まで」
「そうだ」
父上は静かに頷いた。
「お前が十五歳になった時点で、第一王子派の勝利が正式に確定していると判断できるなら、それらを同時に執り行う。卒業して成人し、王太子として正式に立てる。そして、その場で婚約も正式なものとする」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ黙った。
ティア。いやグラーティア。
俺と彼女の婚約。
これまで、正式な婚約は保留されていた。理由は明確だった。俺が王太子になれるかどうかも決まっていない状態で、エクィトゥム王国第三王女であるグラーティアとの婚約を成立させることには、大きな外交上のリスクがある。もし第二王子派が勝利すれば、エクィトゥム王国にとっても話が変わる。だからこそ、エクィトゥム側は第一王子派の勝利が確定するまで婚約しないという条件を提示していた。
「エクィトゥム王国との話は、どうなっていますか」
「先方には、今日の結果を伝える」
父上は迷いなく答えた。
「これまで向こうからも、第一王子派の勝利が確定するまでは正式な婚約を行わないと伝えられていた。それはお前も知っているだろう」
「はい」
「今日の結果を見れば、向こうも正式な婚約へ向けた準備を始めるだろう。十五歳での卒業、成人、立太子。そして同時に婚約。王家としても、それが最も自然な流れだ」
「……承知しました」
十五歳。
あと一年ほど。
その頃には俺は学院を卒業し、成人として扱われる。王太子の座に就き、ティアとの婚約も正式なものになる。場合によっては、その先に王立士官学校への進学まで見えてくる。今まで漠然としていた未来が、今日を境に一つずつ具体的な予定へ変わり始めていた。
◆
「ただし」
父上の声が、俺の思考を止めた。
「今日の結果だけを見て、もう全てが終わったと思うな」
「……はい」
「第一王子派の勝利は、ほぼ確定した。だが、王位継承争いそのものが終わったわけではない。今後一年の間に何が起こるかは分からない」
俺は父上を見た。
「その点について、私も一つ気になっていることがあります」
「ヴィクトリアか」
「……はい」
即答だった。
俺は少しだけ目を細めた。
「父上も、そう感じましたか」
「お前が何を気にしているかくらいは分かる」
父上は椅子へ深く座り直した。
「ヴィクトリアは、今日の結果を見ても焦っていなかった」
「はい。ルキウスが敗れ、第二王子派が学院内で完全に後退した。それなのに、あまりにも落ち着きすぎています」
「私も同じ印象を持った」
その言葉に、俺は僅かに緊張した。
「つまり、父上も何かあると?」
「分からん。ただ、ヴィクトリアが何かを考えている可能性は否定できない」
「……」
「だからこそ、お前も警戒しておけ」
父上は淡々と告げた。
「だが、証拠もないうちに直接動くな。第二王妃を疑っていると悟られれば、それだけでこちらが不利になる。何かあると思うなら、まず事実を集めろ。その上で判断しろ」
「すでにグラフィルへ、ヴィクトリアの周辺を徹底的に調べるよう命じています」
「そうか」
父上は短く頷く。
「ならば、そのまま続けろ。お前の判断は間違っていない」
「承知しました」
「ただし、一つだけ覚えておけ」
父上の表情が、国王としてのものへと変わる。
「勝利した時ほど、周囲をよく見ろ。負けた者が何を失ったのかではなく、何をまだ失っていないのかを見るんだ」
俺は、その言葉を頭の中で繰り返した。
ヴィクトリアは。
何も失っていないように見えた。
いや。
少なくとも。
そう見せていた。
「……分かりました」
「それでいい」
◆
父上は最後に、机の上の資料をまとめた。
「今日はもう休め。明日からはまた学院生活だ」
「はい」
「そして十五歳までの一年を大切に使え。卒業、成人、立太子、婚約。どれも王族として重要な節目になる。お前には、今まで以上に王太子としての自覚が必要になるだろう」
「承知しています」
俺は立ち上がった。
扉へ向かいかけたところで、最後にもう一度だけ父上へ振り返る。
「父上」
「何だ?」
「もしヴィクトリアが何かを企んでいると分かった場合は?」
父上は少し考えてから答えた。
「その時は、私に報告しろ」
「……私自身で処理する必要はありませんか」
「状況による」
父上は静かに言った。
「だが、今のお前は十四歳だ。どれだけ能力があろうと、王国全体に関わることを一人で抱える必要はない。王位を継ぐ者だからこそ、王として判断すべきことと、父親である私に任せるべきことを見極めろ」
「……はい」
その言葉に、俺は素直に頷いた。
「では、失礼いたします」
「ああ」
俺は帰り様に少し立ち止まる。
そして、最後に口を開く
「身辺、おきお付けください。」
「うむ。」
扉が閉まる。
廊下へ出た俺は、しばらく歩きながら今日の話を整理した。第一王子派の勝利は、ほとんど確定した。十五歳になれば王立貴族学院を卒業し、成人を迎え、立太子の儀を経て正式に王太子となる。そして、同じ時期にティアとの婚約式が行われる予定だ。エクィトゥム王国との約束も、第一王子派の勝利が確定したことで動き始めるだろう。これまで曖昧だった俺の未来が、ようやく具体的な形になり始めている。
普通なら。
これを喜ぶべきなのかもしれない。
だが。
俺は今日の武術大会で見たヴィクトリアの表情を思い出していた。ルキウスが敗れ、学院内で第二王子派の敗北が決まり、俺たちは正面から勝利した。それでも、彼女は焦らなかった。まるで、それが本当の敗北ではないと知っているかのように、あまりにも平静だった。
俺は窓の外へ目を向けた。十五歳になれば、俺の立場は大きく変わる。卒業、成人、立太子、婚約。俺が進む未来は、もうかなり具体的に決まっている。だからこそ、その未来へ進むまでの一年を、何も考えずに過ごすつもりはなかった。敵がまだ何かを残しているなら、それを知らなければならない。ヴィクトリアが何を考えているのか。ガルディシア伯爵家が次に何をするのか。第二王子派が学院の外でどのように動くのか。そして、帝国との関係がどこまで続いているのか。まだ確認すべきものは多い。
俺は立ち止まり、王宮の奥へ視線を向ける。
今日の勝利で、学院内の戦いは終わった。第一王子派が勝った。それは間違いない。だが、俺はそれだけで安心するほど鈍くはない。勝利した直後だからこそ、敗者の反応を見る。そして、何も焦っていない者がいるのなら、その者が何を知っているのかを考える。
「……まだ何かある」
俺は小さく呟いた。
グラフィルは、すでに動いている。
父上も、ヴィクトリアの動きを警戒している。
ならば。
俺は待つだけだ。
やがて届く報告を確認し、その中に何が隠れているのかを見極める。そして、本当に何かがあると分かった時には、必要な手を打つ。十五歳という節目を迎えるまで、残された時間は一年ほどしかない。その一年を平穏なものにするためにも、あるいは平穏では終わらないことを前提に備えるためにも、今の俺に必要なのは勝利に酔うことではなく、次に起こることを見落とさないことだった。
学院では。
第一王子派が勝った。
父上からは、十五歳での卒業、成人、立太子、そしてティアとの婚約という未来を示された。
だが。
その未来へ進むために、俺はまだ一つだけ、越えなければならない壁を抱えている。
第二王妃ヴィクトリア。
今日、彼女が見せた平静の理由が分からない限り、俺は完全な勝利を信じない。
だからこそ。
俺はこれからの一年を、何一つ見落とさずに過ごすつもりだった。




