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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第3章 第二王妃ヴィクトリア
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第18話 完璧な人間

 その頃。


 アエテリア大陸西部海岸地域、エクィトゥム王国では、戦争の準備が着々と進められていた。


 先の戦争によって大きな被害を受けた南部方面軍は壊滅状態にあり、軍の再建は急務だった。エクィトゥム王国政府は、生き残った傭兵たちをそのまま放置するのではなく、能力と忠誠を確認した上で正規兵として雇用し、さらに各地から志願兵を募ることで、南部方面軍の再編を進めていた。


 だが、今回の軍拡は単なる戦力回復が目的ではない。


 大陸の支配者であった帝国は、大戦に加えて内戦まで抱え、かつての圧倒的な力を失いつつある。そして、帝国の弱体化によって生まれた空白を利用すれば、約三百年にわたる宿敵、シルウァニア王国を今度こそ打ち倒せるかもしれない。


 エクィトゥム王国とシルウァニア王国は、長い歴史の中で幾度となく争ってきた。国境を巡り、交易路を巡り、時には王位継承にまで介入し合う。両国にとって互いの存在そのものが脅威であり、その因縁はもはや三百年という年月では簡単に語れないほど深かった。


 そして今。


 エクィトゥム王国は、その因縁へ終止符を打つために動き始めていた。


              ◆


 王都エクィティア。


 中央宮殿の地下深くには、王家の人間でさえ限られた者しか存在を知らない巨大な宝物庫があった。そこには金貨、銀貨、宝石、古代文明の遺物、歴代の王が蓄えてきた財宝、そして平時には決して手を付けないことを定められていた国家予備の資産まで、膨大な財宝が眠っている。


 建国以来460年。


 何代もの王が、何十年、何百年という時間をかけて蓄えてきたものだ。その目的は、国家存亡の危機に陥った時、あるいは国家の未来を決定するほどの大戦争を行う時に使うためだった。


 だからこそ、歴代の王たちはどれほど苦しい時代であっても容易には手を付けなかった。


 しかし。


 今の王は、その財宝を初めて大規模に動かすことを決断した。


「これだけ残っているのか……」


 財務官が地下の宝物庫を見渡しながら、思わず声を漏らす。


「はい。建国以来460年、歴代の王が蓄えてきたものです」


「これを軍に使うのですか?」


「ああ」


 王の返答は短かった。


「今しかない」


 大陸の支配者であった帝国は、大戦と内戦によって弱体化している。そして、エクィトゥム王国と帝国の国境を塞ぐようにアンティクイランド王国が独立した。だが、その新興国家は帝国が立て直した時、最初に狙われる可能性が高い。


 ならば。


 帝国が再び力を取り戻す前に。


 三百年の宿敵を倒しておく。


「我が国は三百年待った。もう二度と、待つ理由はない」


 こうして。


 エクィトゥム王国は、建国以来蓄えてきた財宝を大規模に放出し始めた。


              ◆


 王都だけではない。


 各地の軍事都市でも、新しい兵舎が建設され、武器が発注され、防具が作られ、馬が集められ、兵糧が備蓄されていく。生き残った傭兵たちには王国軍への正式採用を希望する者を募り、各地から集まった志願兵には訓練を経て正規軍へ編入する道を示した。


 それまでのエクィトゥム王国軍は、正規軍、貴族軍、傭兵、領主私兵など、様々な戦力によって成り立っていた。今回の軍拡では、それらを可能な限り一つの軍事体系へ組み込み、国家として統一された戦力へ再編していく。


 軍は増える。


 武器も増える。


 兵站も整っていく。


 その全ては。


 シルウァニア王国との三百年の因縁を終わらせるためだった。


              ◆


 そんなエクィトゥム王国の中央宮殿。


 王太子フィリウスの執務室では、一人の側近が軍の再編状況を報告していた。


「南部方面軍の再編については、予定通り進んでおります」


「ああ」


「先の戦争から生還した傭兵のうち、王国軍への編入を希望した者については、順次正式雇用へ切り替えております。志願兵についても予想以上の応募が集まっています」


「そうか」


「また、武器と防具の生産量も増加しております」


 フィリウスは机の上に置かれた資料へ目を通していく。


「財宝の放出については?」


「予定の第一段階を完了しました」


「これなら、軍の規模をこれまでよりかなり大きくできます」


「よし」


 フィリウスは、ほとんど感情を見せずに答えた。


 彼はもともと、感情の起伏が少ない。喜びも、怒りも、悲しみも、表に出すことが少ない。そのため、周囲からは冷徹な王太子と見られていた。


              ◆


 報告が一区切りついたところで、側近の一人がふと思い出したように尋ねた。


「殿下。一つ、よろしいでしょうか」


「構わない」


「アンティクイランド王国の第一王子についてです」


 フィリウスの手が、一瞬だけ止まった。


「レノか」


「はい。本当に、アンティクイランドでは第一王子殿下が勝利するのでしょうか?」


 側近は続ける。


「現在の勢力は、第一王子派が領地貴族三割、法衣貴族四割。第二王子派が領地貴族七割、法衣貴族六割。さらに軍務卿まで第二王子派へ移った。数字だけを見れば、第一王子派がかなり不利です」


「それでも、殿下は第一王子が勝つと?」


 フィリウスは、静かに窓の外を見た。


「俺は、レノが勝つ可能性は十分にあると思っている」


「なぜでしょうか?」


 フィリウスは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いていく。


「俺とレノは、冷徹さという意味では似ているように見えるかもしれない。だが、本質的には違う」


「俺は、感情が薄い。何かを成し遂げたいという欲求も、人よりかなり乏しい。必要だからやる。国が必要とするから判断する。それだけだ」


 フィリウスは少しだけ自嘲するように笑った。


「だから、俺の冷徹さは感情そのものを持たないことに近い。それは政治をする上では便利だ。だが、人間として強いとは限らない」


              ◆


「レノは違う」


 フィリウスはアンティクイランド王国の方向へ視線を向けた。


「奴は感情が強い。怒る時は怒る。悔しければ悔しがる。ティアのことになれば、明らかに判断が変わる。それでも最後には、感情そのものに飲み込まれない」


「感情を抑えているのですか?」


「いや」


 フィリウスは首を振る。


「制御している。抑圧とは違う。そこが重要だ」


 感情を殺し続ければ、いつか人間は壊れる。怒りも、悲しみも、喜びも、本来は人間が持っているものだ。それを無理に消し続ければ、判断力ではなく心そのものが摩耗する。


「だが、レノには感情を発露できる相手がいる」


「グラーティア殿下……」


「ああ。ティアだ」


 フィリウスは、珍しく親しげな呼び方をした。


「奴はティアの前では感情を隠さない。怒ることもある。笑うこともある。弱さを見せることもある。そして、それを終えた後に、また政治の場へ戻れる」


「それが、レノの強さだと?」


「そうだ」


 フィリウスは即答した。


              ◆


「人間は、感情を持っているからこそ、誰かを守ろうと思える。何かを成し遂げたいと思える。負けたくないと思える。国を変えたいと思える」


 フィリウスは続ける。


「俺には、そういう衝動が弱い。だから必要だから動く。だが、レノは違う。奴には強い感情がある。だからこそ、強い目的を持てる」


「そして、それなのに感情に支配されない」


 フィリウスは、そこで初めてはっきりと評価を口にした。


「俺より、よほど優秀だ」


              ◆


 側近は少し驚いた。


「殿下ご自身より、ですか?」


「そうだ」


「俺は、感情が薄いから冷静だ。レノは、感情が強いのに冷静でいられる。前者より、後者の方が難しい」


 フィリウスは窓辺から離れた。


「しかも、レノは一人ではない。ティアがいる。そしてサナやルリウスたちもいる。奴は感情を捨てて強くなる必要がない。むしろ、感情を持ったまま、それを自分の力へ変えられる」


「だから」


 フィリウスは静かに結論を出した。


「今の数字だけで、レノが負けるとは思わない。むしろ、今の苦境は奴にとって必要な経験になるだろう」


「軍務卿を失った。貴族も離れた。学院でも劣勢になった。普通なら心が折れる」


「だが、奴は怒るだろう。悔しがるだろう。それでも立て直そうとする。その感情を力に変えるはずだ」


              ◆


 側近が慎重に尋ねる。


「では、殿下は第一王子が勝つと思っている?」


 フィリウスは少しだけ目を細めた。


「勝つ可能性は高い。ただし、確定ではない。政治に絶対はないからな」


 そう言って、フィリウスは机の上の地図へ目を落とした。


「だが、アンティクイランドの王位継承争いには、一つ明確な期限がある」


「期限、ですか?」


「ああ」


 フィリウスは答える。


「レノウィウスが十五歳になる時だ」


 アンティクイランド王国では、第一王子が十五歳で成人する。そして成人を迎えた時点で、国王が第一王子を正式に王太子へ任命すれば、第一王子派の勝利が確定する。


 逆に。


「十五歳になっても王太子に任命されなければ」


 フィリウスは淡々と続ける。


「第一王子派の敗北だ。第二王子派の勝利が確定する」


「つまり」


「あと二年」


 側近が呟いた。


 そう。


 今のレノウィウスは十三歳。


 成人まで。


 残された時間は二年しかない。


「二年後には」


 フィリウスは地図の上にあるアンティクイランド王国へ目を向けた。


「この王位継承争いに決着がつくだろう」


              ◆


 フィリウスは、しばらく黙っていた。


「だからこそ、俺はレノが面白いと思っている」


「今の勢力だけなら、明らかに第二王子派が優位だ」


「だが」


「レノには二年ある」


「そして、その二年間で」


「奴が何を積み上げるのかは、まだ誰にも分からない」


 ティア。


 サナ。


 ルリウス。


 残った第一王子派の貴族たち。


 そして。


 十三歳のレノ自身。


 今は弱い。


 だが。


 二年あれば。


 状況は変わる。


「二年後」


 フィリウスは静かに呟いた。


「レノが王太子に選ばれるのか。それとも、第二王子が勝つのか」


「その日まで」


「俺は、この国からアンティクイランドを見ていよう」


              ◆


 その頃。


 エクィトゥム王国では、軍の再編が進み、建国以来蓄えられてきた財宝が次々と軍需へ姿を変え、新たな兵が集まり、武器と兵糧が増えていた。


 三百年の宿敵。


 シルウァニア王国へ再び剣を向ける準備も、着々と整っている。


 一方。


 遠く海を隔てたアンティクイランド王国では、十三歳の第一王子が、失った勢力を取り戻すための反撃を始めていた。


 そして。


 その戦いには。


 明確な期限がある。


 あと二年。


 レノウィウスが十五歳になる、その日。


 王太子に任命されれば、第一王子派の勝利。


 任命されなければ、第二王子派の勝利。


 その時。


 アンティクイランド王国の次代を誰が担うのか。


 すべてが決まる。


 まだ十三歳。


 されど。


 残された時間は。


 二年しかない。


 王位継承争いは。


 すでに。


 その最終決戦へ向かって動き始めていた。

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