第13話 軍務卿の停職処分
サナが王立貴族学院へ入学し、第一王子派が女子生徒との社交でようやく明確な優位を得てから。
しばらくして。
王都に、新たな噂が流れ始めた。
最初は。
ただの小さな噂だった。
「軍務省で、不正な金の流れが見つかったらしい」
「軍の物資調達に問題があったとか」
「本当か?」
「まだ噂だろう」
誰も。
最初は深刻に受け止めていなかった。
軍の予算は巨大だ。
武器。
防具。
馬。
食料。
魔石。
兵站。
軍事施設の修繕。
扱う金額が大きい以上。
多少の帳簿の食い違いがあったとしても、それほど珍しいことではない。
少なくとも。
その時の俺は。
そう思っていた。
◆
だが。
数日後。
「殿下」
カイが王立士官学校へ進んだ今、俺のもとへ報告を持ってくるのは別の側近だった。
「何だ?」
「軍務部門について、少し厄介な報告が上がっています」
「軍務部門?」
「はい」
「アトラシート伯爵に関するものです」
その名前を聞いた瞬間。
俺は顔を上げた。
「アトラシート伯爵?」
「はい」
軍務卿。
第一王子派。
そして。
俺とティアの剣術訓練を指導している人物でもある。
「何があった?」
「軍事物資の調達について、帳簿上の金額と実際の取引額に差があるようです」
「差?」
「はい」
「複数の軍需商人から、通常より高い価格で物資を購入していた記録があります」
「そして」
一拍。
「その商人の中に、アトラシート伯爵家と関係の深い家があると」
「……」
俺は黙った。
◆
数時間後。
中央宮殿では緊急の会議が開かれていた。
父上。
アトラシート伯爵。
軍務省の関係者。
そして。
俺も呼ばれていた。
会議室へ入る。
すでに。
アトラシート伯爵が席についていた。
いつもの厳しい表情。
だが。
今日は。
わずかに疲れているように見えた。
「報告は聞いた」
父上が言う。
「軍務部門の物資調達について、不正な支出があった疑いが出ている」
「はい」
アトラシート伯爵は静かに答える。
「私も把握しております」
「では、説明してくれ」
「まず」
伯爵は書類を机へ置いた。
「不正な支出があったという点については、調査する必要があります」
「ただし」
「私自身が金銭を受け取ったという証拠はありません」
「関係する業者も、私が直接選定したわけではありません」
淡々とした説明。
だが。
疑惑は消えない。
◆
「今回の問題は」
父上が言う。
「単なる金額の食い違いではない」
「軍務卿が管理する軍事予算だ」
「もし不正が事実なら」
「軍そのものへの信頼が揺らぐ」
アトラシート伯爵は頭を下げる。
「承知しております」
「だからこそ」
「徹底的に調査していただきたい」
「私も、その調査を妨げるつもりはありません」
その言葉に。
俺は伯爵を見た。
本当に。
何もしていないのか。
それとも。
まだ何かを隠しているのか。
俺には分からなかった。
◆
そして。
その日の午後。
学院にも噂が届いた。
「アトラシート伯爵が汚職?」
「嘘だろ」
「軍務卿だぞ?」
「でも軍の予算を不正に使ったらしい」
「第一王子派の重鎮だろ?」
「だからこそ問題なんじゃないか」
「もし本当なら」
「第一王子派への影響は大きいぞ」
俺は。
その話を聞きながら。
胸の奥に嫌なものを感じていた。
これは。
ただの汚職疑惑ではない。
第一王子派の中でも。
軍事を支える中心人物。
そのアトラシート伯爵を狙った疑惑なのだ。
◆
ティアも。
その話を聞いていた。
「レノ」
「ああ」
「アトラシート伯爵って」
「俺たちの剣術を教えてくれてる人だな」
「うん」
ティアは不安そうな顔をする。
「本当に悪いことをしたのかな」
「まだ分からない」
「……」
「疑惑があるだけだ」
俺はそう答えた。
だが。
内心では。
別のことを考えていた。
今まで。
第一王子派は少しずつ勢力を伸ばしてきた。
そして。
女子社交ではサナとティアの存在によって、ようやく明確な優位を取った。
そんな中。
第一王子派の軍事部門を支えるアトラシート伯爵に。
汚職疑惑。
偶然にしては。
出来すぎている。
◆
さらに数日。
新しい証拠が出てきた。
軍務部門の内部資料。
そこには。
軍事用の武器や防具を通常価格より高値で購入した記録が残されていた。
しかも。
契約を結んだ商人の一人が。
アトラシート伯爵家と親しい人物だった。
「これだけ揃うと」
会議室で。
調査官が言う。
「偶然とは考えにくい」
アトラシート伯爵は反論する。
「その契約は私が直接決めたものではありません」
「軍務部門内の担当官が処理したものです」
「では」
別の官僚が尋ねる。
「なぜ軍務卿の印が押されているのです?」
「最終承認には」
「軍務卿の決裁が必要だからです」
「つまり」
沈黙。
「伯爵は最終的に承認した」
「そういうことになります」
アトラシート伯爵は。
黙った。
◆
その日の夜。
王都では。
さらに別の噂が流れた。
「アトラシート伯爵は、軍需商人から金を受け取っていたらしい」
「第一王子派の軍務卿が汚職だって?」
「本当なら大問題だ」
「第一王子派も終わりじゃないか?」
そして。
第二王子派の貴族たちが。
この噂を積極的に広め始めた。
「第一王子派は軍まで私物化している」
「そんな者を軍務卿に置いておいてよいのか」
「王国の軍事予算を食い物にしていたのではないか」
まだ。
証拠は確定していない。
それでも。
噂だけは。
恐ろしい速度で広がっていった。
◆
俺は。
その状況を見ながら。
一つの疑問を抱いた。
早すぎる。
疑惑が出た。
数日で証拠らしき資料が出る。
さらに。
ほぼ同時に噂が王都中へ広がる。
まるで。
誰かが。
最初から準備していたようだ。
「……誰かが狙っている」
俺は呟いた。
ティアがこちらを見る。
「第二王子派?」
「分からない」
「でも」
「このタイミングはおかしい」
「女子社交で第一王子派が優位になった直後だ」
「そして」
俺は続ける。
「次は軍事だ」
「第一王子派の優位を崩すなら」
「軍務卿を潰すのは、かなり効果的だ」
◆
そして。
さらに数日後。
ついに。
父上から決定が下された。
「アトラシート伯爵の軍務卿としての職務を、一時停止する」
会議室に。
重い空気が流れる。
「調査が完了するまで」
「軍務卿としての決裁権を停止する」
「……承知しました」
アトラシート伯爵は。
静かに頭を下げた。
◆
だが。
問題は。
その後だった。
「では」
父上が言う。
「軍務卿代理には」
「第三軍団軍団長を任命する」
俺は顔を上げた。
第三軍団。
そして。
その軍団長の名前を聞いた瞬間。
「……」
空気が変わった。
第三軍団軍団長。
第二王子派に属する子爵。
つまり。
アトラシート伯爵が職務を停止した瞬間。
軍務卿の席に。
第二王子派の人物が座ることになったのだ。
◆
「お待ちください」
アトラシート伯爵が初めて声を強めた。
「職務停止中の代理として、なぜ彼を?」
「第三軍団を率いている以上」
「軍務部門を理解している。それに先の戦争で西部への派遣の功績もある。」
「代理として適任だ」
父上の答えは。
あまりにも当然だった。
「疑惑が晴れるまで」
「軍務卿の職務を止めたままにしておくわけにはいかない」
「軍務は一日たりとも止められない」
「……」
アトラシート伯爵は。
反論できなかった。
◆
俺は。
その場で。
ようやく事態の本当の怖さに気づいた。
アトラシート伯爵への汚職疑惑。
もし。
それだけなら。
伯爵個人の問題だ。
だが。
今。
軍務卿の座は。
第二王子派の手に渡った。
軍務部門の決裁権。
軍の人事。
軍需。
兵站。
軍事情報。
そうしたものを。
一時的とはいえ。
第二王子派の人物が握ることになる。
第一王子派の軍事基盤に。
大きな穴が空いた。
◆
その夜。
俺はティアと話していた。
「……これ」
ティアが言う。
「単なる汚職疑惑じゃないよね」
「ああ」
「アトラシート伯爵を止めて」
「第二王子派の人を軍務卿代理にする」
「出来すぎてる」
「俺もそう思う」
「まるで」
ティアが少し考える。
「最初から、この席を取りに来ていたみたい」
「……」
俺は答えなかった。
だが。
その可能性は。
もう無視できない。
◆
そして。
王都では。
新たな噂まで流れ始めた。
「第二王子派が軍務を掌握したらしい」
「アトラシート伯爵は、もう終わりなんじゃないか?」
「第一王子派も軍事面では苦しくなるな」
「第二王子派が優勢になった」
「いや」
「まだ疑惑の段階だ」
「それでも」
「軍務卿代理が第二王子派なんだぞ」
噂は。
また。
人々の不安を煽っていく。
◆
俺は。
父上の執務室を出た後。
一人で廊下を歩いていた。
頭の中が整理できない。
アトラシート伯爵が本当に汚職をしていたのか。
それとも。
誰かが仕組んだのか。
まだ。
分からない。
だが。
一つだけ確かなことがある。
今回の問題は。
アトラシート伯爵個人の問題ではない。
第一王子派の軍事基盤。
そして。
軍務という王国の中枢の一つが。
一時的に第二王子派の影響下へ入った。
「……厄介だな」
俺は足を止める。
これまで。
第一王子派と第二王子派は。
互角だった。
女子社交では。
ようやく第一王子派が優位に立った。
その直後に。
軍事部門で。
今度は大きく揺さぶられた。
誰かが。
この派閥争いを。
意図的に動かしている。
そんな気がしてならなかった。
「……調べるしかないな」
俺は静かに呟く。
軍務卿の座を奪われたこと。
第二王子派がそこへ入り込んだこと。
そして。
アトラシート伯爵への汚職疑惑。
その全部が。
本当に別々の出来事なのか。
それとも。
最初から一本につながっているのか。
俺は。
自分自身で確かめることを決めた。




