第65話 和平交渉
腹黒王太子殿下参上!
中央宮殿の会議室。
長い机を挟み、二つの王国の代表が向かい合っていた。
アンティクイランド王国側は、外務卿、財務卿ペクーニア伯爵、軍務卿アトラシート伯爵、第一王子レノウィウス、そしてティア。
対するエクィトゥム王国側は、王太子フィリウス・アウレリア・デイ・エクィトゥムと、その側近四名。
先ほどの謁見を終えたばかりだというのに、会議室にはすでに戦場とは別種の緊張が満ちていた。
当然だ。
ここにいる全員が、戦争が終わればそれで終わりだとは思っていない。
戦場で奪い合ったものを。
今度は机の上で取り戻さなければならない。
最初に口を開いたのは、アンティクイランド王国の外務卿だった。
「では、改めまして。アンティクイランド王国とエクィトゥム王国の和平交渉を開始いたします」
フィリウスが静かに頷く。
「お願いします」
「まず、停戦について確認いたします」
外務卿が書類を開く。
「双方は現在の戦線において攻勢を停止する。新たな兵力の大規模な増派を行わず、停戦成立時点の配置を維持する。よろしいでしょうか」
「異論ありません」
フィリウスの返答は早かった。
「我が国も、大規模な戦闘を継続する意思はありません」
アトラシート伯爵が続ける。
「現在、エクィトゥム王国東部前線にはエクィトゥム王国はリティルファード侯爵軍二千が展開しております。一方、我が国も第三軍団予備役含め1100人、傭兵団合計1000人を国境方面へ展開しております」
「双方とも、停戦成立後は現在の配置を順次解除する。」
「それでよろしいですな?」
「構いません」
まず一つ。
戦場を止める条件がまとまった。
◆
「次に、占領地域です」
外務卿が地図を広げる。
「両国が戦争中に占領した地域は、原則として戦前の統治国へ返還する。返還に伴い、現地の行政機構を旧来の状態へ復帰させる」
フィリウスが地図を見る。
「当然でしょう」
「我が国としても、戦争で一時的に確保した地域を恒久的な領土とすることは要求しません」
「では」
外務卿が続ける。
「国境線についても、戦前の国境へ復帰する。今回の戦争を理由とした領土割譲は行わない」
「異論ありません」
フィリウスは即答する。
アトラシート伯爵が頷いた。
「それならば、国境問題については大きな争点にはなりますまい」
◆
「続いて捕虜です」
ペクーニア伯爵が書類を引き取る。
「両国の一般兵、士官、将校を含む捕虜は、停戦成立後、原則として返還する」
「ただし」
一拍置く。
「高位貴族、および王族に近い身分を持つ者については、通常の捕虜返還とは別に扱います」
フィリウスの側近の一人が、わずかに表情を動かした。
ペクーニア伯爵は淡々と続ける。
「高位貴族については、家格と身分に応じて身代金を定める。支払いが完了した者から順次帰還させる」
「相互に、ですな」
フィリウスが尋ねる。
「はい」
「我が国が拘束している貴国の貴族にも同様の条件を適用し、貴国が拘束している我が国の貴族にも同じ条件を適用する」
「それならば公平でしょう」
フィリウスが頷く。
「ただし、身代金の額については後ほど個別協議を求めます」
「承知しました」
ここも。
すんなりとはいかないだろう。
爵位の高い貴族ほど、身代金は莫大になる。
だが。
双方の利益が一致している以上、ここで決裂する理由もなかった。
◆
「では」
ペクーニア伯爵の声が少し低くなった。
「最後に、最も重要な問題の一つです」
会議室の空気が変わる。
「賠償金について」
フィリウスの側近たちが書類へ目を落とす。
フィリウス本人は、表情を変えない。
「アンティクイランド王国としては、戦争によって発生した損害について賠償を求めます」
「軍事施設の損壊」
「国境地域の民間被害」
「徴発によって生じた損失」
「戦争継続に伴って発生した追加的な軍事支出」
「これらを総合して、賠償額を決定するつもりです」
フィリウスが口を開いた。
「賠償の必要性については認めます」
ペクーニア伯爵が少しだけ目を細める。
「随分と素直ですな」
「先の戦争を始めたのが我が国側である以上、当然のことでしょう」
その言葉に。
レノウィウスは少しだけフィリウスを見る。
だが。
次の言葉で。
その意味が変わった。
「もっとも」
フィリウスが続ける。
「我が国が戦争へ踏み切った経緯については、すでに国内でも責任の所在が明確になっております」
静かな声。
「フェルゼンハルト公爵」
「グランツェン辺境伯」
「そして、彼らに追随した貴族派」
「彼らが王国の判断を歪め、国王陛下を誤った方向へ導いた」
俺は黙って聞いていた。
フィリウスの言葉は、事実と解釈が巧妙に混ざっている。
「陛下は貴族派を信頼していた」
「だからこそ、彼らの進言を信じられた」
「その結果として、戦争が起きた」
そして。
フィリウスの視線が。
ティアへ向く。
「その戦争によって、我が妹まで危険な目に遭った」
ティアの指が。
膝の上でわずかに動いた。
兄上。
まただ。
兄は。
戦争の責任を貴族派へ集中させ。
国王を騙された被害者にし。
自分たち王族を、その被害を受けた側へ置いている。
その理屈は。
エクィトゥム国内では、すでにかなり有効に働いているのだろう。
「我が国としても、今回の戦争を繰り返したいとは思っていません」
フィリウスは静かに頭を下げた。
「だからこそ、賠償については誠実に協議する用意があります」
◆
ペクーニア伯爵が頷いた。
「賠償の支払い方法についても協議できるでしょうか」
「一括払いは、我が国の財政に大きな負担を与えます」
「分割を認めていただけるなら、より現実的な額を受け入れられる可能性があります」
「構いません」
ペクーニア伯爵が答える。
「ただし、賠償そのものは必須です」
「当然です」
フィリウスは頷いた。
「そこに異論はありません」
これで。
和平そのものを壊しかねない最重要条件の一つも、交渉の土台に乗った。
◆
「では」
アトラシート伯爵が口を開く。
「停戦後の国境地帯についても定めておきましょう」
「双方とも、国境から一定範囲以内に大規模な兵力を集結させない」
「新たな砦の建設や既存砦の大規模な増強については、事前に協議する」
「また、停戦後に国境付近で偶発的な衝突が発生した場合、即時の報復攻撃ではなく、まず外交協議を行う」
フィリウスは頷く。
「良いでしょう」
「これで」
外務卿が書類へ目を落とす。
「停戦」
「占領地返還」
「戦前国境への復帰」
「捕虜返還」
「貴族の身代金」
「賠償金」
「国境地帯の軍事行動制限」
「このあたりが、今回の講和条件の基本となります」
「後は、細部の詰めですな」
フィリウスが答えた。
「そう思います」
◆
ここまで。
話は驚くほど順調だった。
俺は逆に警戒した。
フィリウスは。
こちらが最も欲しい条件を。
ほとんど否定していない。
戦争を終わらせる。
賠償金を払う。
捕虜を返す。
国境を元に戻す。
それだけなら。
あまりにも話が早い。
「……」
俺は正面のフィリウスを見る。
そして。
思った。
この男は。
ここまでで終わるつもりがない。
◆
案の定。
「さて」
フィリウスは、そこで初めて少しだけ姿勢を変えた。
「戦争を終わらせる条件については、概ね合意できたようです」
外務卿が頷く。
「はい」
「ならば」
フィリウスが微笑む。
「今度は、戦争が終わった後の話をしませんか?」
アトラシート伯爵が目を細める。
ペクーニア伯爵も。
俺も。
その瞬間。
交渉の本当の第二段階が始まると理解した。
◆
そして。
フィリウスの視線が。
また。
ティアへ向いた。
「……グラーティア」
心配そうな笑み。
柔らかな声。
まるで。
長く離れていた妹をようやく見つけた兄のような顔。
だが。
ティアには分かる。
――来た。
兄は。
この瞬間まで待っていたのだ。
「兄上」
「無事だったんだね」
「……はい」
「本当に心配したよ」
その言葉は。
外から聞けば。
どこまでも優しい。
けれど。
ティアには。
その笑顔の奥にあるものが見えていた。
兄は。
この場で。
自分を政治に使うつもりだ。
◆
「レノウィウス殿下」
フィリウスが俺を見る。
「はい」
「妹が、大変お世話になったそうだね」
「戦場で出会い、その後、王宮で保護しています」
「聞いているよ」
フィリウスは笑う。
「それで」
「兄として、一つ確認したい」
「何でしょう」
「君は、グラーティアをどう思っている?」
俺はティアを見る。
ティアも。
少しだけ俺を見る。
「……大切な人です」
俺は答えた。
「異性として?」
「はい」
ティアの頬が、わずかに赤くなった。
「私も」
彼女は答える。
「レノウィウス殿下を、大切に思っています」
フィリウスは。
一瞬、黙った。
そして。
満足そうに笑った。
「……そうか」
ティアには分かる。
兄は。
喜んでいるのではない。
条件が一つ揃った。
そう考えている。
◆
「君たちの話を」
フィリウスが続ける。
「私は聞いている」
「戦場で出会った」
「妹を救った」
「王宮へ連れて帰った」
「その後、周囲から様々な噂が立った」
「それでも君たちは、その噂に屈しなかった」
そして。
「私は、その話に感銘を受けたよ」
穏やかな笑顔。
妹を応援する兄。
戦争で傷ついた家族を思いやる兄。
その役を。
フィリウスは見事に演じている。
「だから」
フィリウスは俺へ言った。
「君が妹の婿になってくれるんだね」
「……」
「これからも、妹をよろしくね」
俺は少し戸惑った。
それでも。
「はい」
答える。
「では」
俺は少しだけ笑った。
「義兄上と呼ばせていただけませんか?」
フィリウスの口元が緩む。
「うん」
「義弟にそう呼ばれるとうれしいよ」
「レノと呼んでいいかい?」
「はい」
「よろしくお願いします、義兄上」
「こちらこそ」
フィリウスは笑った。
「これからも、義兄弟同士、お互いに助け合おうね」
「はい」
「レノがこの国の王太子になることも、僕は応援しているよ」
「……ありがとうございます」
「妹と君が、こんなに素晴らしい出会いをしたんだ」
「この縁を、両国の未来にも繋げたいと思わないかい?」
◆
ティアは。
兄の笑顔を見ながら。
心の中でため息をついた。
――やっぱり。
全部。
ここまでの「妹思い」も。
「義兄弟として助け合おう」も。
最後には。
国家利益へ繋がる。
「例えば」
フィリウスが言う。
「軍事同盟」
アトラシート伯爵が反応した。
「軍事同盟?」
「はい」
フィリウスは頷く。
「今回のような戦争を、二度と繰り返さないために」
「両国が互いを守る仕組みを作る」
ペクーニア伯爵が問う。
「貿易については?」
「貿易協定を結びたい」
「関税を引き下げる」
「通行税も一定範囲で減免する」
「人と物の流れを増やせば、双方の利益になる」
そして。
「父上は」
フィリウスが少し笑う。
「ウィーヌム子爵領の高級ワインをとても気に入っていてね」
「今より安く、安定して仕入れられるなら、きっと喜ばれる」
ペクーニア伯爵は黙って書類へ視線を落とした。
◆
「それと」
フィリウスは。
今度は少しだけ困ったような笑みを作った。
「僕にも、一つ悩みがあってね」
「悩み?」
俺が聞く。
「シルウァニア王国だよ」
会議室の空気が変わった。
フィリウスが地図を広げる。
シルウァニア王国。
エクィトゥム王国の長年の宿敵。
「我々は」
「シルウァニア王国との戦争準備を進めている」
東側を指す。
「我が国は東部から陸上攻撃を行う」
次に北。
「さらに、シルウァニア王国唯一の港町を北部の海上から攻撃する」
そして南。
「アンティクイランド王国には」
「南部から圧力をかけてもらいたい」
俺は地図を見る。
東。
南。
北の港。
「つまり」
アトラシート伯爵が言った。
「シルウァニア王国を三方向から圧迫する」
「その通り」
フィリウスは頷く。
「ただし」
優しい兄の口調のまま。
「私は義弟に、いきなり戦争に参加してくれと言っているわけではないよ」
「まずは、両国が友好関係を築く」
「軍事同盟を結ぶ」
「貿易を深める」
「その延長として」
「将来、シルウァニア王国との共同防衛が必要になった時に」
「互いに助け合う」
言葉は柔らかい。
だが。
意味は明確だ。
アンティクイランド王国に。
シルウァニア戦へ加わってほしい。
◆
俺はフィリウスを見る。
「かなり先の話ですね」
「そうだね」
「それでも」
「今のうちから考えておく価値はある」
フィリウスは笑う。
「レノ」
「はい」
「義兄弟なら」
「困った時は助け合うものだろう?」
「……」
「君が王太子になった時」
「僕は君を支える」
「だから」
「君にも、いつか我が国を支えてほしい」
「第二王子派の背後にはあの金におぼれたカヴィーレスターンがいるからね。」
それは。
純粋な義兄弟の会話に聞こえる。
だが。
ティアには分かっている。
兄は。
婚約を使って。
第一王子派の支持を固め。
アンティクイランド王国を味方につけ。
軍事同盟を結び。
貿易を結び。
そして。
シルウァニア王国を。
東からエクィトゥム軍。
南からアンティクイランド軍。
北の港にはエクィトゥム海軍。
三方向から攻撃する。
その未来まで。
もう見ている。
◆
それでも。
フィリウスは最後まで。
妹を心配する兄の顔を崩さなかった。
「妹を」
穏やかに。
「これからもよろしくね」
その言葉に。
ティアは思った。
――違う。
兄上。
それは。
妹を頼んでいる言葉じゃない。
僕たち二人の関係を。
あなたの国と。
僕の国を。
義兄弟という形で結びつけようとしている。
そんな言葉だ。
もちろん。
兄が自分を大切に思っていることを。
ティアは否定しない。
けれど。
今の兄の笑顔に。
「妹だけを思う兄」の感情がないことも分かる。
フィリウスは。
王太子だ。
まず。
国家の利益を考える。
そのためなら。
妹の純愛ですら。
外交の武器にする。
それが。
兄のやり方だった。
◆
「レノ」
フィリウスが笑う。
「答えは今日じゃなくていい」
「まずは」
「この和平を成功させよう」
「それから」
「僕たちの未来について、ゆっくり話そう」
「はい」
俺は頷く。
「よろしくお願いします、義兄上」
フィリウスは満足そうに笑った。
「うん」
「よろしくね、レノ」
そして。
両国の代表は再び書類へ目を戻した。
和平交渉は。
表向きには。
戦争を終わらせるための話し合い。
だが。
その実。
フィリウスはすでに。
次の戦争を見据えている。
しかも。
今度は。
アンティクイランド王国を。
味方として。
シルウァニア王国へぶつけるために。
そして。
その計画の中心には。
妹と。
敵国の第一王子。
二人の「純愛」があった。




