第60話 エクイトゥム王国王太子一行出立
翌朝。
目が覚めてから。
俺は妙な気分だった。
いつもと同じ王宮の天井。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ時間。
それなのに。
頭の中には、昨日の出来事が残っている。
「……料理!」
あの一言。
そして。
「……美咲」
俺は天井を見上げたまま、小さく呟いた。
夢ではない。
あれは現実だった。
ティアは。
前世の美咲だった。
ずっと心のどこかに残っていた幼馴染。
一度は完全に失ったと思っていた相手。
それが。
今はこの王宮にいる。
「……」
あまりにも現実離れした話だ。
けれど。
昨日、直接確かめた。
だから疑う余地はない。
ただ。
俺は一つだけ、まだ分からない。
ティアがこの世界で、どんな人生を歩んできたのか。
どこから来たのか。
なぜ身元を隠しているのか。
それは。
まだ何も知らない。
そして。
昨日、俺はそれを聞かなかった。
聞かなかったというより。
聞けなかった。
再会した直後に、そんなことまで問い詰める気にはなれなかった。
◆
朝食を終え、第一王女の離宮へ向かう。
そこでは、いつものようにサナとエドが遊んでいた。
「お兄様!」
サナが俺に気づく。
「おはようございます!」
「ああ」
そして。
「ティアお姉様もいますよ!」
視線を向ける。
ティアがこちらを見た。
「おはようございます、レノ」
「ああ。おはよう」
それだけ。
昨日、城壁の上であれだけのことを話したのに。
今日の俺たちは。
まるで何もなかったように挨拶を交わした。
けれど。
ほんの一瞬。
目が合った。
ティアの口元が、わずかに緩む。
俺も。
ほんの少しだけ笑った。
サナは気づいていない。
エドも気づいていない。
でも。
俺たちには、それで十分だった。
◆
サナたちが遊んでいる間。
俺とティアは少し離れた場所で話していた。
「……昨日のこと」
俺が口を開く。
「はい」
「誰にも言うつもりはない」
「私もです」
「今まで通りでいい」
「……うん」
ティアが小さく頷く。
「その方がいいと思います」
「ああ」
ティアは少しだけ笑った。
「でも」
「何だ?」
「こうして普通に話していると、不思議ですね」
「何が?」
「昨日まで、ただの『ティア』だったのに」
「今は?」
「……昔から知っている人に戻ったみたいな感じです」
俺は少し考える。
「俺も似たような感じだ」
ティアが嬉しそうに笑う。
「そっか」
「ああ」
それだけの会話なのに。
妙に心が落ち着いた。
◆
昼過ぎ。
俺は執務室へ戻った。
机の上には、和平交渉に関する書類。
エクィトゥム王国との交渉条件。
賠償金。
占領地返還。
捕虜。
国境問題。
その他の停戦条件。
やらなければならないことは多い。
だが。
昨日までと違って。
俺は少しだけ気持ちが軽かった。
ずっと心の奥に残っていたものが。
一つ。
ようやく片付いたからだ。
「……美咲」
書類へ目を落としたまま、また名前を思い出す。
そして。
自分で少し笑った。
「本当に、いたんだな」
前世では。
もう二度と会えないと思っていた。
それが。
今は王宮の中にいる。
◆
一方。
第一王女の離宮。
ティアはサナとエドの相手をしながら、時々ぼんやりしていた。
「ティアお姉様?」
「はい?」
「どうしたんですか?」
「何でもありませんよ」
笑って答える。
けれど。
胸の奥には昨日の光景が鮮明に残っている。
湊。
本当に。
湊だった。
ずっと探していた。
もう会えないと思っていた。
それなのに。
今は。
同じ王宮にいる。
すぐ近くにいる。
嬉しい。
嬉しくて仕方ない。
できるなら。
このままずっと。
この王宮で。
サナやエドと一緒に笑って。
湊と何でもない話をして。
そんな時間を過ごしたい。
けれど。
「……」
胸の奥に、別の現実が重なる。
私は。
エクィトゥム王国第三王女。
グラーティア・アウレリア・デイ・エクィトゥム。
そして。
ここは敵国。
レノウィウスは。
アンティクイランド王国第一王子。
その事実は。
昨日、湊と再会したからといって消えるわけではない。
だから。
私はまだ。
本当のことを言えない。
◆
「殿下!」
午後。
執務室へカイが入ってきた。
「何だ?」
「エクィトゥム王国から新たな報告です」
「新たな報告?」
俺は書類を受け取る。
目を通して。
「……出立したのか」
「はい」
カイが頷く。
「エクイトゥムの王都コンスタンティアにいる副外務卿の手の者が飛ばした伝令鳩によると先日、エクィトゥム王城をフィリウス・アウレリア・デイ・エクィトゥム王太子殿下一行が出立したとのことです」
「……」
俺は書類を読み直す。
新王太子。
そして。
アンティクイランド王国との和平交渉における全権大使。
その本人が。
すでに王城を離れた。
「随分と早いな」
「国内の政治状況もありますから、交渉を長引かせるつもりはないのでしょう」
「だろうな」
俺は書類を机へ置く。
「到着までの予定は?」
「現在のところ、詳しい日程を確認中です」
「そうか」
俺は窓の外を見る。
いよいよ。
来る。
先の戦争で敵だった国の。
次代の王。
その人物が。
自ら和平交渉のために、こちらへ向かっている。
「……準備を始めるぞ」
「はい」
カイが一礼する。
扉が閉まる。
◆
俺は一人になった執務室で、窓の外を見る。
昨日まで。
俺の中での大きな問題は。
ティアの正体だった。
いや。
正確には。
彼女が美咲だったことを確かめることだった。
それは。
昨日、終わった。
そして今日。
別の問題が動き始めた。
エクィトゥム王国の王太子。
フィリウス。
次の王。
そして。
今回の和平交渉の全権大使。
「……忙しくなりそうだな」
俺は小さく笑う。
だが。
その胸の奥には。
昨日までにはなかったものがある。
失ったと思っていた幼馴染との再会。
そして。
その幼馴染と、この国で過ごす時間。
それを。
今度こそ大切にしたい。
ただ。
俺はまだ知らない。
その少女が。
自分が戦場で救った「身元不明の少女」ではないことを。
そして。
今まさにエクィトゥム王城を出立した王太子こそが。
その少女が隠している秘密に、最も近いところにいる人物だということを。
夏の終わり。
二人がようやく見つけた「あの日の続き」に。
新たな政治の波が、静かに押し寄せようとしていた。




