第57話 幻想のような希望
学院が再開してから、数日。
俺のもとには、以前にも増して面倒な話が届くようになっていた。
「殿下」
カイが書類を机へ置く。
「例の噂ですが、まだ完全には収まっていません」
「例の噂?」
「ティアさんとのことです」
「……ああ」
戦場から戻った翌朝、ティアを連れて本隊へ帰還した。
夜中に本陣を抜け出した。
朝帰りした。
しかも、見知らぬ少女を連れていた。
事実だけを並べれば、誤解される余地はいくらでもある。
「第二王子派から第一王子派へ移ろうとしていた貴族の中にも、噂を気にして態度を保留している家があるようです」
「そうか」
俺は書類へ目を通す。
「……面倒だな」
「はい」
「放っておく」
「それでよろしいかと」
カイはそう言ったが、俺には別の問題があった。
噂そのものより。
その噂の原因になったティアの存在だ。
身元はまだ分かっていない。
帝国内戦で没落した高位貴族家の生き残りだという本人の話も、まだ裏付けは取れていない。
なのに。
今ではサナやエドとすっかり馴染み、王宮で普通に暮らしている。
「……一度、本人とも話しておくか」
噂をどうするか。
王宮に置き続けることに問題がないか。
確認するなら、それくらいで十分だ。
それ以上のことを考える必要はない。
――そうでなければ、ならない。
◆
王宮の庭園。
俺が向かった先では、サナとエドがティアと遊んでいた。
「ティアお姉様、こっちです!」
「待ってください、サナ様!」
「エドも早く!」
「分かった!」
三人の楽しそうな声が庭園に響いている。
俺は少し離れたところで足を止めた。
戦争が終わってから、サナは以前より明るくなった。
エドもティアとよく遊ぶようになっている。
ティア自身も、王宮での生活に少しずつ慣れてきているようだった。
「レノウィウス?」
ティアがこちらに気づく。
「ああ」
「どうしました?」
「少し話がある」
「私に?」
「そうだ」
サナがこちらを見る。
「お兄様、ティアお姉様に何の話ですか?」
「大したことじゃない」
「本当に?」
「ああ」
俺はサナを見る。
「少しだけティアを借りる」
「分かりました!」
素直に返事をする。
俺はティアと庭園の端へ移動した。
◆
「例の噂についてだ」
俺が切り出す。
ティアは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……私との噂ですか?」
「ああ」
「王都ではまだ続いているんですね」
「少しな」
俺は木陰のベンチへ腰を下ろす。
「俺が戦場の後にお前を連れて帰ったことが原因だ」
「そうですね」
「それで、第一王子派へ移ろうとしていた家が様子を見始めているらしい」
ティアが困ったように笑う。
「なんだか、私が原因みたいになっていますね」
「実際、噂の材料にはなっている」
「……すみません」
「謝る必要はない」
俺は即答した。
「お前が何かしたわけじゃない」
「ありがとうございます」
しばらく沈黙が続く。
「それで」
ティアが言う。
「どうするんです?」
「今のところ、何もしない」
「否定しないんですか?」
「下手に否定すると余計に広がる」
「なるほど」
「それに、噂を信じる人間は何をしても信じる」
「……冷たいですね」
「事実だ」
ティアが少し笑った。
「そういうところ、やっぱり似ています」
「またか」
「はい」
「その『昔の知り合い』か?」
「……そうです」
「俺と?」
「少しだけ」
ティアはそう答えた。
「本当に、少しだけですよ」
「ああ」
俺も、それ以上は聞かなかった。
これまでにも何度か、ティアに前世の誰かを重ねそうになったことがある。
だが、それはあくまで「似ている」というだけだ。
話し方が似ている。
仕草が似ている。
反応が似ている。
考え方が重なることもある。
そんな人間は、この世界にもいるだろう。
ましてや。
前世で知っていた人間が、この世界で別の姿になって生きているなど。
そんな都合のいい話があるはずがない。
――ただの思い込みだ。
きっと。
◆
「ただ」
俺は言葉を続ける。
「このまま噂が続けば、お前自身にも問題が出る」
「私に?」
「身元の分からない少女が、第一王子と恋仲だという話になっている」
「……確かに」
「王宮にいる以上、何かしらの説明は必要になるかもしれない」
「そうですね」
ティアは少し考える。
「でも、私はここを出るつもりはありません」
「……」
「サナ様もエド様も、私を受け入れてくれましたから」
ティアが庭を見る。
少し離れた場所では、サナとエドが花壇の前で何かを話している。
「それに」
ティアが小さく笑う。
「ここにいると、不思議と安心するんです」
「……そうか」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
その言葉にも、なぜか懐かしさを覚えた。
だが、それも偶然だ。
人間は、自分が安心できる場所を見つける。
それだけのことだ。
ティアがここを気に入った。
それ以上でも、それ以下でもない。
◆
話が終わる。
ティアはサナとエドのもとへ戻っていった。
俺はその背中を見ながら、一人でベンチに残った。
「……」
なんとなく。
疲れた。
戦争が終わった。
だが。
終わったと思ったら、今度は政治。
派閥。
噂。
和平交渉。
王宮では、常に何かが起きている。
俺は額へ手を当てた。
「……面倒だな」
思わず愚痴が漏れる。
その時だった。
「何をぐずぐずしてるんですか?」
背後から声がした。
俺は振り向く。
ティアが立っていた。
「さっき戻ったんじゃなかったのか?」
「サナ様とエド様が遊んでいますから」
ティアは苦笑する。
「それより」
「何だ?」
「そんなところで落ち込んでないで、やるべきことをしなさい」
俺は黙った。
「いつまでも、ぐずぐずしてないで」
ティアが少しだけ呆れたように笑う。
「やるべきことをしなさい!」
「……はい!」
俺は反射的に返事をした。
自分でも驚くほど自然に。
考えるより先に。
身体が勝手に反応したような返事だった。
◆
沈黙。
ティアも、それ以上何も言わなかった。
俺も何も言わない。
ただ。
心の奥に、前世の記憶が鮮明に浮かんだ。
美咲。
前世で、俺が何かに落ち込んでいた時。
呆れたように笑いながら、いつも同じようなことを言っていた。
ぐずぐずするな。
やるべきことをやれ。
そして俺は。
いつも同じように返事をしていた。
はい、と。
何度も。
何度も。
くだらないことで落ち込んでは。
美咲に言われ。
俺が返事をする。
そんなやり取りが、前世では何度も繰り返されていた。
あまりにも日常的で。
あまりにも自然なものだった。
だからこそ。
今。
ティアからほとんど同じ言葉を向けられたことに、俺は言葉が出なかった。
偶然。
そう考えることはできる。
似た言葉を使う人間など、いくらでもいる。
だが。
胸の奥に残る違和感だけは、どうしても消えなかった。
一方で。
ティアも何かを感じているようだった。
けれど。
俺たちは、そのことを言葉にはしなかった。
互いに口へ出さず。
ただ心の中へしまった。
今まで感じてきた懐かしさも。
似た仕草も。
似た口調も。
そして、今のやり取りも。
すべて。
まだ「似ている」というだけのことにしておく。
そうしなければ。
お互いの中に生まれた疑念が、あまりにも現実味を持ってしまう。
◆
俺はティアから視線を逸らした。
――そんなはずがない。
俺は一度死んでいる。
前世とはまるで違う世界へ生まれた。
美咲は、もういない。
そう思って生きてきた。
そこへ。
偶然出会った少女が、美咲に似ている。
最初は、それだけだった。
似た話し方。
似た笑い方。
似た仕草。
それなら、まだ分かる。
人間なのだから、似ることくらいある。
だが。
前世で何度も繰り返していたやり取りまで重なってくると。
さすがに、気のせいだと言い切るのが難しくなる。
それでも俺は、むしろ別の可能性を考えた。
――俺が、そう思いたがっているだけなのではないか。
美咲を忘れられていないから。
懐かしい仕草をする人間を見つけて。
無意識に美咲の面影を重ねているだけ。
戦争もあった。
母を失い。
祖父も失った。
前世の記憶を抱えたまま、第二の人生を生きてきた。
だから。
心が勝手に過去へ縋っている。
その方が自然だ。
そうでなければ。
ただの幻想だ。
きっと。
◆
ティアもまた、何も言わなかった。
けれど。
その胸の内にも、同じようなものが残っているのだろう。
懐かしい。
似ている。
けれど。
まさか。
そんなことがあるわけがない。
自分が前世で愛した幼馴染が。
別の世界で。
別の家に生まれ。
別の名前を持って。
目の前にいる。
そんな話を信じろという方が無理だ。
だから。
ティアもまた、その可能性を心の奥へ押し込める。
口にしない。
確かめない。
まだ。
ただの幻想かもしれないのだから。
◆
「……今日は、もう戻る」
俺が言う。
「はい」
ティアも頷く。
俺はその場を離れた。
庭園を抜けながら、さっきのやり取りを思い出す。
何度も繰り返した、前世の日常。
その一部分が、今の世界でも再現された。
それだけ。
そう考えればいい。
そう考えるべきだ。
「……幻想だ」
小さく呟く。
けれど。
完全には、納得できない。
だからといって、すぐに確かめる勇気もない。
もし違っていたら。
俺が勝手に美咲を重ねていただけだったら。
それはそれで、情けない。
そして。
もし。
本当にティアが美咲だったなら。
その時は。
今まで信じてきたものが、全部変わってしまう。
だから。
急ぐ必要はない。
決めつける必要もない。
ただ。
もう一度くらい、ティアと話してみてもいい。
何気ない会話を。
何でもない時間を。
それで何か分かるかもしれない。
もちろん。
それすらも、自分が幻想を確かめたがっているだけなのかもしれない。
そう思いながら。
「……また、ティアのところへ行くか」
俺は歩き出した。
まだ確信はない。
むしろ。
「きっと幻想だ」
そう思う気持ちの方が強い。
それでも。
その幻想が、本当にただの幻想なのか。
それだけは。
自分自身で確かめてみようと思った。




