第56話 第二王妃の一手
学院で、ユーザ・デイ・エクウスが第一王子派へ移った。
その知らせは、学院内だけに留まらなかった。
エクウス伯爵家そのものが第一王子派へ移ったことは、すでに王都の貴族社会では知られている。
その三男であるユーザまで第一王子を支持した。
戦勝によって拡大した第一王子派が、今度は学院の中でも確実に勢力を伸ばし始めている。
そして。
その動きを最も早く察知した人物の一人が、第二王妃ヴィクトリアだった。
◆
「……ユーザまで移りましたか」
中央宮殿。
ヴィクトリアは侍女から報告を受けていた。
「はい。エクウス伯爵家が第一王子殿下を支持するようになったことに加え、ユーザ様本人も学院で正式に第一王子殿下への支持を表明したとのことです」
「そう」
ヴィクトリアは静かに答える。
表情は穏やかなままだった。
だが。
内心では、状況を冷静に分析していた。
戦争前。
第一王子派は、まだ小さな勢力だった。
第二王子派は領地貴族でも法衣貴族でも大きく上回っていた。
学院でも同じ。
それが。
戦争で変わった。
第一王子自身が戦場で大戦果を挙げた。
エクウス伯爵をはじめとした領地貴族が支持へ回った。
法衣貴族も増えた。
そして今度は、その子弟が学院で動き始めている。
「このままでは、少々面倒ですね」
ヴィクトリアが呟く。
第一王子派を完全に止める必要はない。
今すぐ第二王子派と同等になるほど膨れ上がるわけでもない。
しかし。
今後、第二王子派から第一王子派へ大量の貴族が流れ込むことだけは避けなければならない。
戦争で生まれた第一王子の名声は、一時的な熱狂である可能性もある。
ならば。
その熱狂が次の支持へ変わる前に、水を差せばいい。
「何か、使えるものは?」
ヴィクトリアが尋ねる。
「使えるもの、ですか?」
「第一王子殿下について、王都で広まっている話です」
侍女が少し考える。
「……いくつかございます」
「その中で、最も広めやすいものを」
「ございます」
一瞬の間。
「戦場の後、第一王子殿下が夜中に姿を消された件です」
ヴィクトリアの目がわずかに細くなった。
「そう」
「翌朝、見知らぬ少女を連れて戻られた、と」
「ええ」
その話は、ヴィクトリア自身も知っている。
事実だった。
レノウィウスは夜に本隊を抜け出した。
そして翌朝。
身元も分からない美しい少女――ティアを連れて戻ってきた。
カイたちが驚いたのも知っている。
「……使えますね」
ヴィクトリアは静かに言った。
◆
その日から。
王都の貴族社会で、奇妙な噂が少しずつ広がり始めた。
「聞いたか?」
「何を?」
「第一王子殿下の話だ」
「戦争での武勇か?」
「いや、別の話だ」
酒席。
茶会。
馬車の中。
貴族家の使用人たち。
噂というものは、人から人へ移っていく。
「戦場で、殿下が夜中に姿を消されたらしい」
「本当か?」
「ああ」
「そして朝になって戻ってきた」
「それだけなら、夜の見回りでもしていたんじゃないか?」
「ところがな」
声が小さくなる。
「見知らぬ少女を連れていたらしい」
「少女?」
「しかも、かなりの美人だったとか」
「……なるほど」
「一晩、二人で森にいたらしい」
最初のうちは、事実にかなり近い。
だが。
噂というものは、広がるうちに形を変える。
「どうやら、戦場で出会って意気投合したらしい」
「一晩一緒だったそうですよ」
「第一王子殿下もお年頃ですからな」
「それで王宮へ連れてきたという話まである」
「へえ」
やがて。
「第一王子殿下は、戦場で知り合った少女と恋仲になったらしい」
そんな話まで生まれ始めた。
◆
ただし。
完全な嘘ではない。
レノウィウスが夜中に姿を消した。
翌朝、ティアを連れて戻ってきた。
その少女を王宮に置いた。
この三つは事実なのだ。
だからこそ、噂は妙に説得力を持った。
「でも、殿下はまだ十二歳だろ?」
「だからこそ、最近の若者は分からんのですよ」
「しかも相手の少女の身元も確認できていないそうだ」
「第一王子殿下が戦場で拾った少女を、そのまま王宮に置いている?」
「……それは少し問題では?」
噂は、単なる恋愛話から別の形へ変わっていく。
「戦場で出会った身元不明の少女を、感情で王宮へ連れてきた第一王子」
その印象が生まれていった。
◆
数日後。
ある男爵家の当主が、息子から尋ねられた。
「父上」
「何だ?」
「第一王子殿下を支持するおつもりですか?」
「……」
「最近、そういう話をよく聞きます」
父親は少し考えた。
「今はまだ決めるな」
「なぜです?」
「殿下の戦功は確かに大きい」
「だが」
一拍。
「政治家としての判断は、まだ分からない」
「戦場で勝つことと、王国を治めることは同じではない」
「それに、最近は妙な噂まである」
「……あの少女ですか?」
「そうだ」
「身元も分からぬ少女を王宮に置いているという話が本当なら、少なくとも慎重に見た方がいい」
別の家でも。
似たような会話が生まれていた。
◆
学院でも。
少しずつ変化が現れ始める。
「なあ」
「何だ?」
「第一王子殿下の噂、知ってるか?」
「戦場の少女の話だろ?」
「ああ」
「本当に恋仲なのかな?」
「さあ」
第一王子派へ移ろうとしていた者たちの中には、その噂を聞いて足を止める者もいた。
戦争で勝った。
それだけなら魅力的だ。
だが。
王族として慎重であるべき立場の人間が、身元の分からない少女を感情で連れてきた。
もしそれが本当なら。
「……少し様子を見た方がいいんじゃないか?」
「俺もそう思う」
こうして。
第一王子派への流入は、完全に止まることはなかった。
しかし。
その勢いは明らかに鈍くなった。
◆
ヴィクトリアのもとへ報告が届く。
「第一王子派へ移ろうとしていた家のいくつかが、態度を保留しています」
「そう」
「ただし、すでに第一王子派を表明した家が離脱したわけではありません」
「それで十分です」
ヴィクトリアは微笑んだ。
目的は第一王子派を消滅させることではない。
今は。
これ以上の拡大を抑えること。
それだけでいい。
「戦争で得た名声は、時間が経てば落ち着きます」
「なら、その間に第二王子派を固めればいい」
「はい」
ヴィクトリアは窓の外を見る。
レノウィウスは戦場で勝った。
だからこそ。
彼の名声を正面から否定するのは得策ではない。
ならば。
本人の評判を直接傷つけるのではなく。
その周囲に疑問を生ませる。
「噂というものは、不思議ですね」
ヴィクトリアが静かに言う。
「少し事実を混ぜるだけで、人は勝手に続きを作ってくれる」
侍女は何も言わない。
ヴィクトリアも、それ以上は語らなかった。
◆
その頃。
レノウィウス本人は。
「殿下」
カイから報告を受けていた。
「何だ?」
「少し妙な噂が出回っております」
「噂?」
「はい」
カイが言いにくそうに口を開く。
「殿下が、戦場で知り合った少女と恋仲になったという……」
「……」
俺は黙った。
「そして、一晩を共にしたとか」
「……」
しばらく何も言わなかった。
俺は額を押さえる。
「誰だ、そんな馬鹿な噂を流したのは」
「ただ」
カイが続ける。
「完全な嘘とも言えないところが厄介なんです」
「……確かに」
俺はため息をつく。
夜に森へ行った。
朝帰ってきた。
その時、ティアを連れていた。
事実だけを並べれば。
確かに誤解されても仕方がない。
「訂正する必要は?」
「するほどではないかと」
「なぜ?」
「下手に否定すると、かえって噂が広がります」
「……」
その通りだった。
「まあいい」
俺は書類へ視線を戻す。
「くだらない噂だ」
「そうですね」
カイが苦笑する。
「ですが」
「何だ?」
「第一王子派への流入は、少し鈍っております」
俺は黙った。
戦争で勝った。
それで人が増えた。
だが。
政治とは、単純ではない。
勝っただけでは、支持は永遠には続かない。
「……なるほど」
俺は小さく息を吐いた。
「これが社交界か」
戦場とは違う。
剣を抜かず。
血を流さず。
それでも。
人を動かす戦いは、すでに始まっていた。




