第54話 お忍び 後編
闘技場へ入ると、外の大通りとは比べものにならないほどの歓声が押し寄せてきた。円形の観客席には多くの人が集まり、中央の試合場では次の試合に出る二人の男が向かい合っている。俺たちは王族用の席など使わず、一般の観客に混じった目立たない場所へ腰を下ろした。偽装した護衛たちも周囲に散っているため、少なくとも今すぐ危険が迫っているわけではない。
「思ったより大きいですね」
ティアが辺りを見回す。
「ああ。王都ではこういう大会が人気なんだろう」
「お兄様、どっちが勝つと思います?」
サナが俺の袖を軽く引く。
試合場を見る。
一人は大柄な男で、長剣を両手で構えている。もう一人は細身で、片手剣を持っている。体格だけを見れば、大柄な方が有利に思える。
「細身の方だ」
「え?」
サナが目を丸くする。
「どうしてです?」
「大柄な方は踏み込みが大きい。力はあるが、一度振り始めると動きが止まりやすい」
「なるほど」
「逆に細身の方は、さっきから相手の足ばかり見ている。たぶん、踏み込む瞬間を待っている」
ティアも試合場へ視線を向ける。
「……本当ですね」
「次に大柄な方が踏み込めば、避けて懐へ入る」
直後、大柄な男が前へ出た。
細身の男が半歩ずれる。
振り下ろされた剣が空を切り、その内側へ細身の男が入り込む。
決着。
観客席から歓声が上がった。
「すごい!」
エドが声を上げる。
「予想通りですね」
ティアがこちらを見る。
「ああ」
「どうして、あんなにすぐ分かるんですか?」
「動きを見れば分かる」
「私には全然分かりませんでした」
「慣れだ」
「そういうものなんですね」
ティアが笑う。
その笑い方を見た瞬間、俺はわずかに目を細めた。
まただ。
何かが引っかかる。
だが、何が引っかかっているのかまでは分からない。
◆
その後も試合は続いた。
槍使い。
斧使い。
剣士。
魔術を扱う者までいる。
サナとエドは純粋に試合を楽しみ、俺とティアは時折、戦い方について話していた。
「今の槍使い、少し下がりすぎましたね」
ティアが言う。
「ああ。距離を保とうとしすぎている」
「でも、近づかれるよりはいいんじゃないですか?」
「それだけならな」
「他にもあるんですか?」
「下がることしか考えなくなれば、相手に主導権を渡す」
ティアは試合場を見る。
「……だから、少しだけ前へ出る」
「そうだ」
「相手に『まだ踏み込める』と思わせてから、逆に誘う」
「そういうことだ」
「なるほど」
また、話が自然に続いた。
俺が一から説明しなくても、ティアは途中から意図を理解する。
それ自体は、頭の回転が速いだけだと考えれば説明がつく。
だから、俺は深く考えなかった。
「お兄様、次はどっちですか?」
「今度は分からないな」
「えっ」
サナが驚く。
「お兄様でも分からないんですか?」
「ああ。実力が近い」
「本当に?」
「俺だって何でも分かるわけじゃない」
サナが少し笑った。
「何だ?」
「ちょっと安心しました」
「失礼だな」
ティアも小さく笑う。
その時。
俺は、ふと昔のことを思い出した。
前世でも、似たようなことを言われたことがあった。
自信満々に何かを言った後で外した時。
隣にいた幼馴染が、少し笑いながら、
――たまには外すんだ。
そんな顔をしていた。
その記憶が一瞬だけ浮かんだ。
俺はすぐに試合場へ視線を戻した。
◆
休憩時間。
サナとエドが飲み物を買いに行き、俺とティアだけが席に残った。
観客席では次の試合を待つ人々が、酒を飲みながら談笑している。
「……さっき」
ティアが口を開いた。
「何だ?」
「レノウィウスって、昔から戦いを見るのが好きだったんですか?」
「どうだろうな」
俺は少し考える。
「戦うことそのものより、人がどう動くかを見る方が好きだった」
「人がどう動くか?」
「ああ。どういう時に怒るのか、困るのか、焦るのか。そういうのを見るのが昔から癖だった」
「……」
ティアはしばらく黙っていた。
「それ」
「何だ?」
「私の昔の幼馴染も、そんなところがありました」
「へえ」
「人の表情を見ていることが多くて」
「似ているな」
「はい」
ティアが少し笑った。
「でも、違うところもあります」
「どこが?」
「あなたの方が、ずっと冷たいです」
「……」
「私の幼馴染は、もっと普通でした」
「そうか」
「はい」
ティアはそう答えたあと、少しだけ遠くを見るような目をした。
「でも、不思議ですね」
「何が?」
「あなたと話していると、たまにその人を思い出すんです」
俺はすぐには返さなかった。
「俺も」
「……え?」
「お前と話していると、時々昔の知り合いを思い出す」
ティアがこちらを見る。
「どんな人ですか?」
「幼馴染だ」
「……そうなんですね」
「ああ」
俺はそれ以上説明しようとして、やめた。
「昔から近くにいた」
そこまで言って、少しだけ笑う。
「くだらないことで話したり、どうでもいいことで喧嘩したり。それでも次の日には普通に話していた」
ティアが静かに聞いている。
「今思えば、本当にくだらないことばかりだった」
「でも、大切だったんですね」
「……まあな」
それだけ答える。
ティアはそれ以上聞かなかった。
俺も聞かなかった。
◆
しばらくして、ティアがふと笑った。
「そういえば」
「何だ?」
「私の幼馴染も、こういう時によく自信満々なことを言ってました」
「どういう時だ?」
「何かを見て、『次はこうなる』って」
「当たるのか?」
「半分くらい」
「それは微妙だな」
「でしょう?」
ティアが笑う。
「でも、外した時はちょっと悔しそうにしていました」
「……」
俺は思わず苦笑した。
「それなら、俺より人間味があるな」
「そうかもしれません」
会話はそれだけだった。
だが。
妙に自然だった。
昔から知っていたような自然さ。
俺はそのことに、少しだけ違和感を覚えた。
◆
サナとエドが戻ってくる。
「お待たせしました!」
「次の試合、もうすぐ始まりますよ!」
「ああ」
俺たちは再び試合場へ向き直った。
それから何試合か観戦したが、俺は時々隣を気にしてしまった。
ティアも同じなのか、たまにこちらを見る。
けれど。
どちらも、その理由を尋ねることはなかった。
◆
大会が終わる頃には、空が夕暮れ色に染まっていた。
「楽しかったですね!」
サナが満足そうに笑う。
「ああ」
エドも頷いた。
「また来たい」
「機会があればな」
四人で闘技場を出る。
王宮へ戻る道を歩きながら、ティアが隣へ並んだ。
「今日はありがとうございました」
「何が?」
「闘技大会です」
「ああ」
「それから……」
ティアが少しだけ考える。
「いろいろ話せたことも」
「そうか」
俺は前を見る。
「俺も悪くなかった」
しばらく歩く。
会話が途切れる。
それでも、不思議と気まずくはなかった。
ただ。
俺の中には、小さな疑問が残っている。
ティアと話していると、前世の幼馴染を思い出す。
だが、具体的に何か一致しているわけではない。
口調が似る時がある。
仕草が似る時もある。
考え方が重なることもある。
けれど、それだけだ。
似た人間など、いくらでもいる。
俺はそう考える。
それでも。
完全には忘れられなかった。
一方のティアも。
レノウィウスと話していると、前世の幼馴染を思い出す。
ただ、こちらも確信するほどのものではない。
同じような言葉。
似た反応。
時折感じる妙な安心感。
けれど。
自分の知る人は、もうこの世界にはいないはずだった。
「……」
夕暮れの中。
一度だけ、二人の視線が重なる。
すぐに互いに前を向いた。
どうして、この人と話しているとこんなに懐かしいのだろう。
その疑問だけが、二人の胸の片隅に小さく残った。
その日の二人は、まだ知らない。
その疑問が。
これから少しずつ、大きなものへ変わっていくことを。




