第53話 お忍び 前編
夏季休暇に入ってから、しばらく経ったある日のことだった。
俺は王宮の執務室で、エクィトゥム王国との和平交渉に向けた資料へ目を通していた。大規模な衝突が終わったとはいえ、完全に戦闘が止まったわけではない。西部では第三軍団とエクィトゥム側の残存部隊との小規模な衝突が続いているし、こちらでは講和条件の調整や戦後の内政、第一王子派のまとめまでやることが山積みになっている。
そんな俺のところへ。
「お兄様!」
勢いよく扉が開いた。
「……何だ、サナ」
顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべたサナがいた。その後ろにはエドリアンとティアもいる。
「お兄様、今日って忙しいですか?」
「見れば分かるだろ」
俺は机の上の書類を指差した。
「忙しい」
「でも、今日は夏季休暇ですよね?」
「ああ」
「では!」
サナが胸を張る。
「お忍びに行きましょう!」
「却下」
「早い!」
即答すると、サナが頬を膨らませる。
「まだ何も説明してません!」
「説明されなくても分かる。王族が王都へお忍びで出かけたいんだろ」
「そうです!」
「なら却下だ」
「どうしてですか!」
「理由はいくらでもある。王族が街へ出れば目立つ。警護の問題もある。お前たちが騒げば、それだけで正体が露見する」
「でも、変装すればいいじゃないですか!」
「変装したところで髪と瞳はどうする?」
「……」
サナが黙った。
俺は続ける。
「俺とお前は王族だ。顔を知っている者も多い。特に俺たちの瞳の色まで知っている者なら、髪を変えた程度では気づく可能性がある」
「じゃあ、髪を変えれば少しは大丈夫ですよ」
横からティアが口を挟んだ。
「それに、護衛を目立たないように配置すればいいんじゃないでしょうか」
「ティアまで行きたいのか?」
「私はサナ様の付き添いです」
「本当ですか?」
サナが横から覗き込む。
ティアは少し笑った。
「……まあ、私も少し興味はあります」
「ほら!」
サナが得意げに胸を張る。
「エドも行きたいですよね?」
「うん」
エドも頷いた。
「王都を普通に歩いてみたい」
「……」
三人とも行きたいらしい。
俺は書類へ目を戻した。
今日の予定を思い浮かべる。
和平交渉の資料整理。
軍務卿との打ち合わせ。
財務卿との賠償金案の確認。
どれも重要だ。
だが。
夏季休暇に入ってから、俺はずっとこれだ。
戦争が終わっても、頭の中から戦争が消えたわけではない。
「お兄様」
サナが少しだけ声を落とした。
「……少しくらい、いいじゃないですか」
「……」
「戦争も大きな戦いは終わったんです。夏休みなんですよ」
「……」
「私、ずっと王宮にいるだけじゃつまらないです」
エドも小さく頷いた。
ティアは何も言わず、こちらを見ている。
俺は息を吐いた。
「一日だけだ」
「本当ですか!」
「ああ。ただし条件がある」
「何ですか?」
「護衛を付ける」
「お忍びなのに?」
「お忍びと無防備は違う」
俺は三人を順番に見る。
「王族だと気づかれそうになったら、すぐに帰る。勝手に離れない。知らない人間についていかない。食べ物を勝手にもらわない。大声を出さない」
「はい!」
サナが勢いよく返事をする。
「声が大きい」
「……はい」
エドが吹き出した。
ティアも口元を押さえて笑っている。
「何だ?」
「いえ」
ティアが笑いながら首を振る。
「レノウィウスらしいなと思って」
「どういう意味だ?」
「こういうところです」
「意味が分からない」
「ふふ」
ティアはそれ以上言わなかった。
◆
「髪は茶髪に変えたから、少しはましになるだろう」
準備を終えた俺は、鏡の中の自分を見る。
普段の王族らしい髪色ではない。
茶髪に変えたことで、遠目から見れば印象はかなり違う。
サナも茶髪。
エドも茶髪。
服も平民風に変えている。
瞳の色までは変えられないが、これなら多少は身元を隠しやすい。
「どうですか?」
サナが嬉しそうに髪を触る。
「悪くない」
「やった!」
「ただし、勘違いするな」
「?」
「これで王族だと分からなくなるわけじゃない」
俺は冷静に言う。
「街で俺たちのことを知っている人間に見られたら、それで終わりだ。だから、目立つことはするな」
「はい」
「エドも」
「分かった」
ティアも自分の格好を見下ろす。
「私まで平民みたいな格好をするの、少し新鮮です」
「お前は普段から王族だと知られないようにしているだろ」
「そうですけど」
ティアが少し笑う。
「こうやって堂々と街へ出るのは初めてなので」
その言葉に、俺は一瞬だけ彼女を見る。
何気ない一言だった。
だが。
妙に引っかかった。
ただ、それ以上は考えなかった。
◆
「護衛について報告します」
グラフィルが姿を現した。
「前方三名、左右四名ずつ、後方三名。全員、商人や旅人に偽装しております」
「多いな」
「王族四名ですので、これでも必要最低限です」
「分かった」
俺は頷く。
お忍びだからといって、護衛を減らしすぎるつもりはない。
何かあった時、俺一人だけならまだいい。
だが、サナとエドがいる。
もし俺の判断が遅れれば、三人とも危険になる。
戦場では。
一瞬の判断ミスが人の生死を分ける。
平穏な王都だからといって、その原則は変わらない。
「行くぞ」
「はい!」
サナが嬉しそうに答える。
こうして俺たちは、王宮の裏門から外へ出た。
◆
馬車は使わない。
王家の紋章入りの馬車など使えば、お忍びも何もない。
俺たちは徒歩で王都を進む。
護衛たちは距離を取って散らばっている。
俺は歩きながら、周囲を観察した。
人の流れ。
建物。
路地。
屋根。
護衛の位置。
万が一の退路。
「……」
ティアが隣からこちらを見る。
「何だ?」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「街に着いたばかりなのに、もうそんなに周囲を見てるんだなって」
「癖だ」
「そうですか」
ティアは少しだけ笑った。
「……昔の知り合いにも、そういう人がいました」
「そうか」
俺はそれ以上聞かなかった。
だが。
まただった。
ティアの何気ない一言に、妙な懐かしさを覚える。
理由は分からない。
だから、考えない。
◆
やがて王都の大通りへ出た。
人が多い。
商人の声。
荷車の音。
子供たちの笑い声。
王宮とは違う世界が広がっている。
「……すごい」
サナが小さく声を漏らす。
「声を落とせ」
「……すごい」
「よし」
エドが笑う。
俺も周囲を見る。
何人かがこちらへ視線を向けている。
だが、今のところ問題はない。
茶髪に変えた効果もあるようだ。
「お兄様!」
サナが店先を指差した。
そこには小麦と蜂蜜を使った焼き菓子が並んでいた。
「蜂蜜焼き菓子ですって」
ティアが看板を見る。
「美味しそうですね」
「食べたい!」
「僕も」
サナとエドがこちらを見る。
値段を確認する。
安くはない。
蜂蜜は高価だし、庶民が日常的に買えるものでもない。
それでも、肉を買うよりは現実的だ。
「一人一つ」
「やった!」
四つ購入する。
サナが一口食べる。
「美味しい!」
「ゆっくり食べろ」
「はい!」
エドも嬉しそうに食べる。
ティアも一口。
「素朴ですけど、美味しいですね」
「ああ」
俺も食べる。
蜂蜜の甘さと、小麦の香ばしさ。
王宮の菓子とは違う。
それでも。
「悪くない」
「でしょう?」
ティアが笑う。
その瞬間。
また。
妙な懐かしさが胸の奥を掠めた。
俺は何も言わなかった。
◆
その後も、市場を歩く。
野菜。
果物。
布。
木製の玩具。
本。
鍛冶屋。
サナは服飾店を眺め、エドは武器屋の前で立ち止まる。
「欲しいのか?」
「……少し」
「今日は見るだけだ」
「えー」
「今買えば目立つ」
「分かった」
エドは素直に頷いた。
ティアが笑う。
「エド様、また今度ですね」
「うん」
俺は三人を見る。
王宮では、何をするにも周囲に人がいる。
ここでは、ほんの少しだけ普通の子供として歩ける。
それは悪くなかった。
ただし。
俺だけは、最後まで気を抜くつもりはない。
楽しむことと警戒することは、両立できる。
◆
市場を抜けた頃。
前方から大きな歓声が聞こえてきた。
「何だ?」
エドが立ち止まる。
大通りの先には、大きな石造りの円形建築が見えた。
周囲には大勢の人間が集まっている。
「闘技場ですね」
ティアが看板を読む。
「今日は闘技大会が開催されているみたいです」
「闘技大会?」
サナの目が輝いた。
「見たい!」
俺は闘技場を見る。
入口。
警備。
観客。
周辺の道。
万が一の退路。
問題がないか確認する。
「……少しだけ見ていくか」
「やった!」
「騒ぐな」
「はい!」
サナが元気よく返事をする。
「……だから声が大きい」
「……はい」
俺は小さく息を吐いた。
こうして。
サナの「お忍びに行きたい」という一言から始まった俺たちの休日は、王都の闘技大会を観戦するところまで進むことになった。




