第52話 和平交渉準備
第一王子宮の執務室。
窓の外には、夏の強い日差しが降り注いでいる。
王立貴族学院は夏季休暇に入っている。
だが、俺に休暇らしい時間はほとんどなかった。
机の上には、エクィトゥム王国との和平交渉に関する資料が積み上げられている。
俺はその向かいに座るアトラシート伯爵を見た。
「さて」
俺は一枚の書類を手に取る。
「和平交渉の条件を整理しよう」
「はい、殿下」
アトラシート伯爵は頷いた。
「まず、絶対に譲らない条件は?」
「賠償金です」
俺は即答した。
「今回、向こうから侵攻してきた」
「我が国は領地を占領され、防衛線を突破され、多数の兵と民が被害を受けた」
「その責任を、何もなかったことにはできない」
「同感です」
アトラシート伯爵が地図を見る。
「問題は、金額でしょう」
「そこは向こうの支払い能力も考える」
「ですが、安くするつもりはありません」
「もちろんです」
伯爵は頷いた。
「では、第一条件は戦争賠償金」
「金額については財務卿とも相談して決める必要がありますな」
「分かっている」
俺は次の紙を取った。
「二つ目」
「占領された領地の返還」
「これは当然です」
「敵軍が占領した我が国の領地をすべて返還させる」
「はい」
「ただし、こちらもエクィトゥム王国の領土には手を出さない」
アトラシート伯爵が頷く。
「戦争前の国境へ戻すわけですな」
「そういうことだ」
俺は地図の上を指でなぞる。
「国境線を戦争前の状態に戻す」
「そのうえで、今後の国境侵犯を互いに行わない」
「一般的な停戦条件ですな」
「三つ目」
俺は続ける。
「捕虜の扱いだ」
「一般兵については、原則として相互返還とする」
「ただし、貴族や騎士など身分の高い捕虜については、身代金による解放を基本とする」
アトラシート伯爵が頷く。
「戦争捕虜の身分に応じて扱いを分けるのですな」
「ああ」
「エクィトゥム王国側の貴族が捕虜になっているなら、その家から相応の身代金を支払わせる」
「支払いが難しい場合は?」
「個別に交渉する」
「支払われるまでの間も、捕虜は適切に扱う」
「虐待や見せしめの処刑は禁止だ」
「承知しました」
伯爵が書き留める。
「高位貴族については、家の財力や身分に応じて身代金を設定することになるでしょう」
「そうだな」
「一般兵は相互に返還し、貴族や騎士は身代金による解放を基本とする」
「その方が現実的です」
「それでいい」
俺は次の資料へ目を移した。
「四つ目」
「戦争中に占領軍が持ち出した財産の返還」
「家畜、農具、商人の荷、可能な限り追跡できるものは返させる」
「ただし、戦場で失われたものまで一つ一つ請求するのは難しい」
「その分は賠償金に含める」
「妥当でしょう」
伯爵が頷く。
◆
「五つ目」
俺は続ける。
「今後、一定期間は相互に敵対行為をしない」
「国境付近での軍事行動も制限しますか?」
「そうだ」
「大規模な兵力の集結や、新たな城塞の建設については事前通告を義務付ける」
「戦争再開の口実を与えないためですな」
「ああ」
互いが戦後すぐに国境へ軍を集めれば、それだけで再戦の可能性が高まる。
「六つ目」
「捕虜や戦争によって離散した民間人の帰還」
「帰国を望む者については、双方とも妨げない」
「ただし」
俺は少し考えてから続ける。
「こちらへ亡命を希望する者まで、強制的に返す必要はない」
「その点は向こうが難色を示すでしょう」
「だろうな」
それでも譲る気はなかった。
戦争が終わったからといって、その人間の意思まで国家に縛らせるつもりはない。
「七つ目」
アトラシート伯爵が言う。
「戦争状態そのものの正式な終結」
「双方の国王による条約承認」
「その後の戦闘停止」
「それでいい」
伯爵が書類を整理していく。
◆
そこで。
アトラシート伯爵が一枚の別資料を取り出した。
「もう一つ、考慮すべき事情があります」
「何だ?」
「エクィトゥム王国の現在の国内事情です」
「貴族派の崩壊か」
「それもあります」
伯爵が地図を広げた。
「ですが、エクィトゥム王国にとって、今後より重大な問題になる可能性が高いのが――」
指が王国北東部から中東部へ伸びる。
「シルウァニア王国です」
「……ああ」
聞いたことはある。
エクィトゥム王国の北東部から中東部にかけて国境を接する、小国。
だが、その国は単なる小国ではない。
「山岳民族の軍事国家」
「はい」
「エクィトゥム王国の宿敵」
「その通りです」
アトラシート伯爵が頷く。
「シルウァニア王国は領土も人口もエクィトゥム王国より遥かに小さい」
「しかし、山岳地帯を生かした軍事力は強大です」
「長年にわたり、エクィトゥム王国と敵対している」
「今回の戦争によってエクィトゥム王国軍は大きな損害を受けています」
「東部戦線――我が国との戦線を維持しながら、さらにシルウァニア王国への備えまで強化するのは難しいでしょう」
俺は地図を見る。
「つまり」
「エクィトゥム王国の国王派は、我が国との戦争を終わらせて、北東から中東部のシルウァニア王国へ戦力を集中させたい」
「そう考える可能性が高いということです」
「だから、和平に応じる可能性も高い」
「はい」
俺は少し考える。
「今回、向こうが早期の和平を選べる理由は一つじゃないわけだな」
「その通りです」
「我が軍との戦争継続による損耗」
「国内の政変」
「貴族派の崩壊」
「王政府の再編」
「そして、シルウァニア王国への警戒」
アトラシート伯爵が頷く。
「国王派が国内をまとめるためにも、我が国との戦争を終わらせる方が都合がいいでしょう」
「なら」
俺は少し笑う。
「こちらから無理に相手を追い詰める必要はないな」
「はい」
「向こうにも、戦争を終わらせたい事情がある」
「だからこそ、賠償金を含めたこちらの条件を飲ませられる可能性がある」
「そういうことです」
なるほど。
戦場で勝った。
それだけではない。
相手にも、戦争を終わらせたい理由がある。
ならば。
こちらはその事情を利用すればいい。
◆
「では、条件をまとめよう」
アトラシート伯爵が頷く。
「一、アンティクイランド王国への戦争賠償金」
「二、占領地の完全返還」
「三、戦争前の国境線への復帰と相互の国境侵犯禁止」
「四、一般兵の捕虜は原則として相互返還。貴族・騎士など高位捕虜は身代金による解放を基本とする」
「五、戦争中に占領軍が持ち出した財産の可能な限りの返還」
「六、一定期間の軍事行動制限。大規模な兵力集結や新規要塞建設などへの制限」
「七、帰国を望む民間人の帰還。ただし亡命希望者は個別に扱う」
「八、正式な停戦・講和条約の締結」
俺は頷く。
「それでいい」
「ただし」
俺は一番上の紙を指で叩いた。
「賠償金だけは絶対だ」
「はい」
「そして高位貴族の身代金も、簡単に放棄するつもりはない」
「承知しました」
俺は窓の外を見る。
夏の空は青い。
春から始まった戦争は、まだ完全には終わっていない。
国境では小規模な戦闘が続いている。
だが。
エクィトゥム王国には、戦争を終わらせたい事情がある。
国内の政変。
戦力の損耗。
そして――。
北東から中東部にかけて国境を接する、宿敵シルウァニア王国。
山岳民族によって成り立つ軍事国家。
エクィトゥム王国にとって、そちらへ備える必要性が高まっている以上、我が国との戦争をいつまでも続ける理由は薄い。
「俺たちはエクィトゥム王国と総力戦をしたいわけではない」
「戦争を終わらせたい」
アトラシート伯爵が頷く。
「ならば、向こうも同じ方向を向く可能性が高いでしょう」
「ああ」
俺は書類へ目を戻す。
「だったら、勝った側として要求するべきものは要求する」
「賠償金」
「捕虜の身代金」
「占領地の返還」
「そのうえで、相手が受け入れられるところまで譲歩する」
「それで講和を成立させる」
伯爵が書類をまとめた。
「財務卿と協議して、賠償金と身代金の基準案を作成します」
「頼む」
「交渉の場では、私が軍事的な根拠を補足します」
「ああ」
俺は深く息を吐いた。
剣を抜く必要のない戦場。
そこで待っているのは、今までとは違う戦いだ。
相手にも戦争を終わらせたい事情がある。
だからこそ。
こちらも、勝った国として相応の条件を突きつける。
「……これで戦争を終わらせよう」
そう呟く。
次に勝つべきものは、敵軍ではない。
この戦争そのものだ。




