第九話「二頭の狼」
ジャムカと過ごした一年半は、俺の人生で最も不思議な時間だった。
楽しかった。本気で楽しかった。そして同時に、少しずつ、確実に、何かが壊れていく時間でもあった。
メルキト戦の後、俺たちは合流したまま一緒に暮らし始めた。
ジャムカの陣営と俺の家族を合わせて、数百人の集団になっていた。オノン河の上流、草の豊かな谷間に陣を張った。ゲルが何十基も並んで、朝になると馬の嘶きと子供の声が入り混じる。俺が知っている草原の暮らしの中で、一番賑やかだった。
ジャムカは面白い男だった。
頭の回転が速い。話がうまい。人を笑わせる才能がある。焚き火を囲んで酒を飲みながら、昔の英雄の話や、草原の怪談や、他の部族の噂話をする。ジャムカが語ると、どんな話でも引き込まれた。周りの男たちが腹を抱えて笑う。俺も笑った。
二人で狩りに出ることも多かった。
ジャムカの弓の腕は俺と同じくらいだった。走る馬の上から兎を射抜き、飛ぶ鳥を落とす。父に教わった「考えるな、なれ」の射法を、ジャムカは誰にも教わらずに身につけていた。天性の才能だった。
「おまえと射比べすると退屈しないな」
ジャムカが笑いながら言った。
「普通の奴が相手だと、つまらなくて弓を引く気がなくなる」
「それ、褒めてるのか」
「褒めてるに決まってるだろ。俺がおまえ以外の奴を褒めると思うか?」
ジャムカはそう言って笑った。嘘じゃないと思う。ジャムカは本気で俺を認めていた。少なくとも、この頃は。
夜は同じ毛皮にくるまって寝た。草原のアンダ(義兄弟)の習わしだ。互いの背中を預けて、同じ火で暖を取る。それは信頼の証だった。
腰帯を交換した。ジャムカがメルキト戦で奪った金の装飾のついた帯を俺にくれた。俺はジャムカに、父の形見の帯を渡した。互いの帯を締めることは、互いの命を預けるということだ。
この男と一緒なら、何でもできる。そう思っていた。
最初の違和感は、小さなことだった。
ある日、陣営の中を歩いていると、ジャムカが配下の男を怒鳴っているのが聞こえた。
「おまえは羊飼いの家の出だろう。なぜ馬飼いの列にいる。身分を弁えろ」
怒鳴られていたのは、若い男だった。馬の扱いがうまくて、最近、馬の群れの管理を手伝い始めていた。でもジャムカに言わせれば、「羊飼いの家系の人間が馬飼いの仕事をするのは秩序の乱れ」らしい。
俺には理解できなかった。
馬の扱いがうまいなら、馬の仕事をさせればいい。親が何をしていたかなんて関係ない。ボオルチュだって牧畜民の息子だ。出自を問うなら、ボオルチュは俺の配下にいる資格がない。
でもその時は、何も言わなかった。ジャムカの陣営のことだ。口を出すべきじゃない。
数日後、似たようなことがまた起きた。
今度は宴の席だった。焚き火を囲んで酒を飲んでいる時、座る順番でジャムカが指示を出した。
「族長の家の者が前。それ以外は後ろだ」
俺の配下のジェルメが後ろに回された。ジェルメは鍛冶屋の家の出だ。身分は低い。でも弓の腕は確かで、忠実で、俺が信頼している男だった。
ジェルメは黙って後ろに下がった。不満は顔に出さなかった。でも目の奥に、硬いものが光っていた。
俺は何も言わなかった。でも、腹の中に小さな棘が刺さった気がした。
「ジャムカは、血筋で人を見る男だね」
ボルテが言ったのは、ある夜のことだった。
ジョチを寝かしつけた後、ゲルの中で二人きりの時間。ボルテは火の前で髪を梳きながら、静かに言った。
「気づいてた?」
「最初からわかってたよ。あの人の目を見ればわかる。族長の息子には敬意を払うけど、下の身分の人間には——悪気はないんだろうけど、壁がある」
「悪気がないのが厄介なんだ。本人は正しいと思ってやってる」
「そうだね。あの人にとっては、血筋で人を分けるのが"秩序"なんだ。おまえにとっての"秩序"とは違う」
俺は黙って考えた。
ジャムカは間違っているのか。草原では昔から、族長の家系が上で、牧畜民が下だ。それが何百年も続いてきた秩序だ。ジャムカはそれを守ろうとしているだけだ。
でも俺は——
俺はその秩序の外側で育った。追放されて、飢えて、首枷をはめられて、最底辺から這い上がってきた。ソルカン・シラは下の身分の男だったが、命を懸けて俺を助けてくれた。ボオルチュは牧畜民の息子だが、理屈抜きで俺と走ってくれた。
血筋じゃない。行動だ。
その人間が何をしたか。それだけが、俺にとっての判断基準だった。
「テムジン」
ボルテが俺を見た。
「あの人とは、いつか離れなきゃいけない」
「……わかってる」
「二頭の狼は、同じ群れを率いられない。どっちかが従うか、離れるか。でもジャムカは従わない。おまえも従わない。そういう二人だ」
ボルテの目は冷静だった。感情じゃなく、事実を述べている目だ。
「今じゃない。でも、遠くもない。覚悟しておきなさい」
俺はうなずいた。
火が爆ぜる音がした。ジョチが寝返りを打った。それだけが、静かなゲルの中の音だった。
決定的な出来事は、初夏の移動の時に起きた。
草原の遊牧民は、季節ごとに宿営地を変える。夏は北の涼しい高地へ、冬は南の谷間へ。数百人の集団が家畜を連れて移動する大がかりな引越しだ。
移動の先頭で、ジャムカが言った。
「山沿いに行こう。馬飼いの者たちは山の斜面に。羊飼いの者たちは谷に」
単なる移動指示に聞こえた。でもボルテの顔が変わった。
その夜、ボルテが俺に言った。
「あの言葉、聞いた?」
「山沿いに行くって話か。別に普通の——」
「普通じゃない。あの人は、おまえの人間とあの人の人間を分けようとしてる。馬飼いと羊飼いで分けるって言ったけど、実質的にはジャムカの配下が山の上の良い場所を取って、おまえの配下が下の悪い場所に回される。そういう配置になってる」
俺は地形を思い出した。ボルテの言う通りだった。山の斜面は風通しがよく、水場に近い。谷は湿気が多く、夏は虫が多い。
「偶然かもしれない」
「偶然ならいいけどね。でもジャムカは偶然でものを言う男じゃないでしょう」
その通りだった。ジャムカの言葉は、常に計算されている。冗談を言う時でも、裏に意図がある。
「あの人はね、試してるんだよ」
ボルテが続けた。
「おまえが黙って従うかどうかを見てる。従えば、おまえはあの人の下だって確定する。逆らえば、対立が表面化する。どっちに転んでも、ジャムカの得になるようにできてる」
「……おまえ、よくそこまで読めるな」
「女はね、力で戦えない分、目で見て頭で考えるの。それしかないから」
ボルテは微笑んだ。でも目は笑っていなかった。
翌日から、俺は自分の目で観察し始めた。
ジャムカの陣営で何が起きているか。誰が上に立ち、誰が下に置かれているか。命令がどう流れて、褒賞がどう配られているか。
見えてきたのは、明確な構造だった。
ジャムカの陣営は、血筋で動いている。族長の家の人間が指揮を取り、下の身分の人間が実務をやる。実力があっても、血筋が低ければ上には行けない。逆に無能でも、良い家の出なら上に座れる。
機能していないわけじゃない。草原では何百年もこのやり方でやってきた。ジャムカの頭の良さで、このシステムはそれなりにうまく回っている。
でも、限界がある。
有能な人間が下に押さえつけられている。不満が溜まっている。表には出さないが、目を見ればわかる。ジェルメの目。ムカリの目。力があるのに認められない人間の目は、燻った火みたいに暗く光っている。
あの目を、俺は知っている。
首枷をはめられていた時の、俺自身の目だ。
ある夜、ジャムカと二人で酒を飲んだ。
焚き火のそばに座って、馬乳酒を飲みながら星を見ていた。他の男たちはもう寝ている。虫の声と、遠くの馬の嘶きだけが聞こえていた。
「テムジン」
ジャムカが酒の器を傾けながら言った。
「おまえは、俺とは違う種類の人間だな」
「どういう意味だ」
「おまえの周りには、変な奴が集まる。鍛冶屋の息子、牧畜民の息子、身分のない奴ばっかりだ。普通、族長の周りにはそういう人間は来ない」
「来るだろ。俺のところには来る」
「だからそれが変だって言ってるんだ」
ジャムカは笑った。でも、目は笑っていなかった。
「おまえ、わかってるのか。そういう人間を引き上げるってことは、今ある秩序を壊すってことだぞ。族長の家の連中が黙ってない。反発が来る」
「反発が来たら、実力で黙らせる」
「実力でか」
ジャムカは杯を置いた。
「おまえの言う実力ってのは、何だ。弓の腕か。馬の速さか。それとも——人を集める力か」
俺はジャムカを見た。ジャムカも俺を見ていた。
焚き火の光が、ジャムカの顔の半分を照らし、半分を影にしていた。その目には、友情と警戒が同時にあった。
「俺はな、テムジン。おまえが好きだ。本気で好きだ。アンダの誓いは嘘じゃない」
「俺もだ」
「でもな——」
ジャムカは少し間を置いた。
「おまえのやり方を見ていると、時々怖くなる。おまえは壊すんだ。知ってか知らずか、今まであったものを壊していく。それが良いことなのか悪いことなのか、俺にはまだわからない」
俺は答えなかった。
ジャムカの言うことは正しい。俺は確かに壊している。血筋で人を分ける仕組みを、無意識のうちに壊している。それが正しいのかどうか、俺にもわからなかった。
ただ一つ、わかっていることがある。
俺が這い上がれたのは、血筋のおかげじゃない。ソルカン・シラが助けてくれたのは、俺の血筋が良かったからじゃない。ボオルチュが一緒に走ってくれたのも、血筋は関係なかった。
人と人を結ぶのは、血じゃない。
信頼だ。
「ジャムカ」
俺は言った。
「俺たちは、たぶん同じ場所には行けない」
ジャムカは黙った。長い沈黙だった。
やがて、ジャムカは杯を取り上げて、一気に飲み干した。
「……だろうな」
それだけ言って、立ち上がった。
「今夜は寝る。明日も早い」
ジャムカは背を向けて歩いていった。
俺はその背中を見ていた。
広い背中ではなかった。父のような分厚い背中じゃない。でも、鋭くて、どこか孤独な背中だった。
この男とは、いつか戦うことになる。
そう思った。思いたくなかったが、思った。
焚き火が小さくなっていく。星だけが、無数に光っていた。
蒼い天は、もう何も語らなかった。




