第十話「離別」
きっかけは、馬だった。
ジャムカの甥のタイチャルという若い男が、俺の配下の者が放牧していた馬を勝手に連れていった。
「あの馬は、俺たちの群れから逸れた馬だ。返してもらっただけだ」
タイチャルはそう言った。嘘だ。馬の耳に、俺の配下がつけた印がある。どう見てもこっちの馬だ。
だが、タイチャルはジャムカの身内だ。文句を言えば、ジャムカとの関係に波風が立つ。俺の配下の男は歯を食いしばって引き下がった。
その三日後、また同じことが起きた。
今度はタイチャルが、俺の配下の若い牧人の馬を堂々と奪った。しかも、抵抗した牧人を鞭で殴った。
知らせを聞いた時、俺は拳を握りしめていた。
でも、動いたのは俺じゃなかった。
ジェルメが先に動いた。
ジェルメは鍛冶屋の家の出で、寡黙な男だった。体は大きくないが、動きが速い。刀を打つ腕は一流で、弓の腕も確かだった。父イェスゲイが生前世話をした家の息子で、俺がハンを名乗る前から黙ってそばにいた男だ。
ジェルメはタイチャルの天幕に乗り込んで、馬を取り返した。
取り返しただけならよかった。だがタイチャルが刀を抜いた。ジェルメも抜いた。短い斬り合いの後、タイチャルは肩を斬られて倒れた。命に別条はないが、血が出た。
ジャムカの甥が、テムジンの配下に斬られた。
陣営中に噂が走るのに、半日もかからなかった。
ジャムカは怒らなかった。
少なくとも、表面上は。
「テムジン、ちょっと話がある」
ジャムカが俺のゲルに来た時、声は穏やかだった。いつもの軽い口調。でも目が違う。温度がない目だった。
「タイチャルのことは聞いた。あいつが悪い。先に手を出したのはあいつだ」
「そうだな」
「ただ——おまえの配下が、俺の身内を斬ったのは事実だ。これを放っておくと、俺の面子が立たない。わかるだろう?」
わかる。ジャムカの立場では、身内を斬られて黙っていたら舐められる。族長としての威厳にかかわる。
「ジェルメを差し出せとは言わない。でも、何らかの落とし前は必要だ」
「落とし前?」
「馬を十頭。それで手打ちにする」
馬十頭。俺の持ち馬の三分の一だ。もともと多くない馬をさらに削れば、移動にも狩りにも支障が出る。
だが問題はそこじゃなかった。
タイチャルが先に馬を盗み、人を殴った。それなのに、こっちが馬を差し出す。筋が通らない。これを受け入れたら、俺の配下の全員が見ている。「テムジンはジャムカに逆らえない」と思われる。
「考えさせてくれ」
俺はそう言った。ジャムカはうなずいて帰った。
その夜、ゲルにボオルチュとジェルメを呼んだ。ボルテもいた。
「ジャムカは馬十頭を要求してきた」
ジェルメが唇を噛んだ。
「俺が斬ったのが悪かったですか」
「おまえは悪くない。タイチャルが先に盗んで、先に刀を抜いた。おまえは正しいことをした」
ジェルメの目が少し揺れた。認められることに慣れていない目だった。ジャムカの陣営では、鍛冶屋の息子は認められない。
ボオルチュが腕を組んで言った。
「馬を出すべきじゃない。出したら終わりだ。テムジンがジャムカの下だって、全員に知られる」
「でも断れば、対立が表面化する」
「もう表面化してるだろ。タイチャルの件で、みんなわかってる。ジャムカの陣とうちの陣は、もう一つの集団じゃない」
ボオルチュの言う通りだった。メルキト戦の後に一緒になった時は、同じ集団として暮らしていた。でも一年半が過ぎて、二つの集団ははっきり分かれていた。ジャムカの人間と俺の人間。飯を食う場所も、馬を繋ぐ場所も、いつの間にか別々になっていた。
ボルテが口を開いた。
「出ましょう」
三人が振り返った。
「喧嘩する必要はない。馬も出さなくていい。ただ、出ればいい。今夜のうちに。黙って」
「黙って?」
「宣戦布告なんかしたら、ジャムカに準備する時間を与えるだけ。何も言わず、荷物をまとめて、今夜のうちに移動する。朝になってジャムカが気づいた時には、もういない。それが一番きれいだよ」
ボオルチュが笑った。
「おまえの嫁、怖いな」
「知ってる」
俺はうなずいた。
「今夜、出る。全員に伝えろ。ただし、俺についてくるかどうかは各自の判断だ。強制はしない。残りたい奴は残ればいい」
夜が来た。
月のない夜だった。闇の中で、静かに動いた。
ゲルを畳む音を最小にした。牛車に荷を積む時も、声を出さずに手振りで合図した。馬の蹄に布を巻いた。音を殺すためだ。
俺の家族、ボオルチュ、ジェルメ。それから、俺について来ると言った者たち。
思ったより多かった。
俺の配下だけじゃなかった。ジャムカの陣営にいた人間が、何人も一緒に動き出した。暗い中を、家族を連れ、馬を引いて、黙って歩いてくる。
最初に来たのは、ムカリという男だった。
ジャルチウト族の出で、ジャムカの陣営にいた。体が大きくて無口で、目に静かな炎がある男。俺とは一度も話したことがなかった。
「テムジン」
ムカリが暗闇の中で声をかけてきた。
「ついていく。いいか」
「なぜだ。俺たちは話したこともないだろう」
「話さなくてもわかる。ジャムカの下では、俺の力は使ってもらえない。おまえの下なら、使ってもらえる。それだけだ」
短い男だった。言葉が少ない。でも、目が本気だった。
「来い」
俺はそう言った。
その後も、ぽつぽつと人が集まってきた。家族連れもいた。老人もいた。若い戦士もいた。みんな、暗い中を声も出さずに歩いてきて、俺の列に加わった。
夜明け前に出発した。
オノン河を渡り、北の高地に向かって移動した。後ろは振り返らなかった。
朝になって人数を数えた。
俺の元からの配下が約三十。それに加えて、ジャムカの陣営から離れてきた者が——
百人を超えていた。
ボオルチュが目を丸くした。
「こんなに来るのか」
俺も驚いていた。こんなに多くの人間が、ジャムカを離れて俺についてくるとは思っていなかった。
来た者の顔を一人ずつ見た。名前を聞いた。出自を聞いた。何ができるかを聞いた。
その中に、チラウンがいた。
ソルカン・シラの息子。首枷の夜に俺を助けてくれた少年が、逞しい若者になっていた。
「チラウン——おまえ、いつジャムカの陣にいた」
「半年前からです。親父がタイチウトの所を離れて、ジャムカのところに身を寄せていた。でも今朝、おまえが出たと聞いて——」
チラウンは頭を下げた。
「親父が言ってました。テムジンが動く時が来たら、迷わずそっちに行け、と」
ソルカン・シラ。あの男は、まだ俺のことを見ていてくれたのか。
胸の奥が熱くなった。
「チンバイは? カダアンは?」
「弟は親父と一緒にいます。姉貴は嫁に行きました。でも親父は——体が弱くなっていて。来られなかった」
「わかった。落ち着いたら、迎えを出す。ソルカン・シラには、必ず恩を返す」
チラウンの目が光った。
数日後、さらに人が増えた。
ジャムカの陣営からの離脱は、一夜で終わらなかった。俺たちが去ったという噂が広まるにつれて、ぽつりぽつりと人が離れてきた。三日で二百人を超えた。
来る者の多くは、ジャムカの陣営で下に置かれていた人間だった。腕は立つが血筋が低い者。実力があるのに認められなかった者。そういう人間が、俺のところに集まってきた。
ボルテが言った。
「あなたは何もしてないのにね。ジャムカが自分で追い出したようなものだよ」
「何もしてないってことはないだろ」
「してないよ。あなたはただ、そこにいただけ。血筋で人を分けない人間が、そこにいた。それだけで、居場所のなかった人たちが動いたの」
ボルテの分析は正確だった。俺は演説もしていない。勧誘もしていない。ただ、ジェルメを認め、ボオルチュを信じ、チラウンを迎えた。それだけのことが、声のない旗になっていた。
七日目の朝、伝令が来た。
ジャムカからだった。
伝令の男は、革の筒を俺に渡した。中に、細い木の板が入っていた。文字は使わない。草原の伝言は口頭か、印を刻んだ木の板で送る。
板には何も刻まれていなかった。
ただ、ジャムカの腰帯の金具が一つ、紐で括りつけてあった。
俺が渡した帯の金具だ。父の形見の帯から外したもの。
意味はわかった。
——アンダの誓いは、終わりだ。
俺は金具を手のひらに載せて、しばらく見つめていた。
小さな金の板。日に当たると鈍く光る。この金具がジャムカの腰にあった一年半の間、俺たちは義兄弟だった。同じ毛皮にくるまって眠り、同じ火で暖を取り、同じ敵と戦った。
それが終わった。
怒りはなかった。悲しみは——少しだけあった。でも驚きはなかった。ボルテが言った通りだ。いつか来ると、わかっていた。
俺は金具を革袋に入れて、荷物の奥にしまった。捨てはしなかった。
「伝令に何か返すか?」
ボオルチュが聞いた。
「いや。何も返さない」
「それでいいのか」
「ああ。言葉で返せることは、もう何もない」
次に会う時は、戦場だ。
それはわかっていた。でも今は、考えない。今やるべきことは、集まってきた人間を一つにまとめることだ。
その日の夕方、全員を集めた。
二百人余り。男も女も、老人も子供もいる。俺を見上げる目。不安と期待が入り混じった目。この人たちは、ジャムカという大きな集団を離れて、俺という不確かな男についてきた。
何を言うべきか、考えた。
大層な演説はいらない。この人たちが聞きたいのは、美しい言葉じゃない。
「俺のところでは、一つだけ約束する」
声を張った。二百の目が俺を見た。
「血筋じゃなく、行動で評価する。おまえが何をしたか。それだけだ。族長の息子だろうと鍛冶屋の息子だろうと、力のある者が上に立つ。力のない者は、力をつければ上に行ける。それだけの話だ」
シンプルだった。約束はこれだけ。
でも、この一言のために集まってきた人間たちだ。他の何を言っても響かない。これだけが響く。
ジェルメが、静かにうなずいた。ムカリが腕を組んだまま、目を閉じてうなずいた。チラウンが拳を握りしめていた。
ボオルチュが隣で、ぼそっと言った。
「覚えてるか、テムジン。あの時おまえ言ったよな。ゼロと一の差は、一と百の差より大きいって」
「……ああ」
「もうゼロじゃないぞ。二百だ」
俺は笑った。
二百人。ジャムカの数千、トグリルの数万に比べれば吹けば飛ぶような数だ。でもこの二百人は、自分の意志で俺を選んだ人間たちだ。命じられたから来たんじゃない。選んで来た。
選ばれた絆は、血の絆より強い。
俺はそう信じることにした。
夕陽が草原を赤く染めていた。二百人の影が、長く長く伸びていた。
小さな群れだ。でも、俺の群れだ。
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