第七話「最初の友」
家に帰った時、母は何も言わなかった。
俺の首の傷を見て、痩せた体を見て、ただ黙って抱きしめた。長い間、離さなかった。母の体は冬の間にさらに痩せていたが、腕の力は強かった。
カサルが走ってきた。
「兄貴! 生きてたのか!」
「死ぬわけないだろ」
「首、ひどいな。痛くないのか」
「もう治った」
嘘だった。まだ痛い。でもカサルの前で弱いところは見せたくなかった。
ソルカン・シラにもらった馬が一頭。これで俺たちの持ち馬は、合わせて三頭になった。以前タイチウトに全部持っていかれたが、その後、野生の馬を二頭捕まえて慣らしていたのだ。三頭あれば、何とか移動はできる。
しばらく平穏な日が続いた。
母と弟たちと、オノン河のほとりで暮らした。魚を獲り、野草を掘り、たまに兎を射る。あいかわらずぎりぎりの生活だったが、首枷をはめられていた日々に比べれば天国みたいなものだった。
俺は十二歳になっていた。
馬を盗まれたのは、夏の盛りだった。
朝起きて外に出たら、繋いでいたはずの馬がいなかった。三頭とも。杭に結んでいた革紐が切られている。刃物で切った跡だ。
夜のうちに誰かが忍び込んで、全部持っていった。
母がため息をついた。
「馬泥棒か」
草原では珍しいことじゃない。家畜を盗むのは日常茶飯事だ。特に俺たちみたいな、守る力のない小さな家族は格好の標的だった。
でも、馬を全部失うのは致命的だ。馬がなければ移動できない。移動できなければ、季節に合わせて草場を変えることができない。草が尽きたら家畜もいないから——結局、飢え死にだ。
「取り返す」
俺は弓を手に取った。
「一人で行くのか」
母が聞いた。
「カサルは残ってくれ。母さんたちを守れるのはカサルだけだ」
カサルは不満そうだったが、うなずいた。九歳の弟はもう立派な射手だ。弓の腕だけなら俺に近い。
蹄の跡を追った。三頭分の蹄跡が、草原を西に向かって伸びている。朝露で草が濡れているから、跡がはっきり残っていた。夜のうちに盗んだなら、まだそこまで遠くには行っていないはずだ。
俺は走った。馬がないから、走るしかない。弓と矢筒を背負って、蹄跡を追って、草原をひたすら西へ。
三日、走った。
蹄跡を見失わないように、地面を見ながら走った。草原の追跡は、目の勝負だ。草の倒れ方、土の乱れ方、糞の新しさ。そこから馬の数と速度と方角を読む。これも父に教わった技術だ。
三日目の夕方、広い谷間に出た。
草が豊かな場所で、馬の群れが草を食んでいた。百頭近い。誰かの牧場だ。
群れの中に、少年が一人いた。
俺と同い年くらい。がっしりした体つきで、日に灼けた顔。馬の横に立って、桶に馬乳を搾っていた。
俺が近づくと、少年は顔を上げた。
「……誰だ?」
警戒した目だったが、敵意はなかった。俺の格好を見ている。汗まみれで、泥だらけで、弓を背負って、息を切らしている。どう見ても、まともな状態じゃない。
「テムジン。ボルジギン氏の。馬を盗まれて、追いかけてきた」
自分でも驚くほど率直に言った。普段なら素性をそう簡単には明かさない。でもこの少年の目を見た時、嘘をつく気になれなかった。なぜかはわからない。
少年は俺をじっと見た。
「三日走ったのか?」
「蹄跡を追ってきた。たぶんもう近い」
「何頭盗まれた?」
「三頭。全部だ。あれがないと、家族が飢える」
少年は桶を置いた。まっすぐ立って、俺を見た。
「俺はボオルチュ。ナク・バヤンの息子だ」
それから、少し笑った。
「三日走ったって、飯は食ったのか」
「……あんまり」
「だろうな。死にそうな顔してる。まず食え。話はそれからだ」
ボオルチュは俺をゲルに連れていって、馬乳酒と干し肉を出してくれた。遠慮なく食った。三日間、草の根と水だけで走ってきた体に、肉の脂が染み込んでいく。
「で、蹄跡はまだ追えるのか」
ボオルチュが聞いた。
「追える。明日の朝出れば、たぶん追いつく」
「よし。俺も行く」
あまりにも自然に言ったので、一瞬、聞き間違いかと思った。
「……は?」
「馬泥棒を追うんだろ? 一人より二人の方がいい。俺の馬を出す」
「待てよ。おまえに関係ないだろ。俺の馬が盗まれただけで——」
「関係ないけど、行きたいから行く」
ボオルチュはそう言って、もう馬の支度を始めていた。
「おまえ、親父さんに言わなくていいのか」
「親父は留守だ。帰ってきたら怒るだろうな。でもまあ、怒られるのは帰ってからでいい」
この男は何なんだ。
会って半刻も経っていない。名前と事情を聞いただけだ。それなのに、自分の馬を出して、一緒に馬泥棒を追うと言っている。見返りの話は一切出ていない。
わけがわからなかった。でも——
嬉しかった。
理屈抜きに、嬉しかった。
翌朝、二人で出発した。
ボオルチュの馬は二頭。足が速い、良い馬だった。俺は一頭を借りて、蹄跡を追った。
並んで走りながら、いろんな話をした。
ボオルチュの父は、このあたりでは裕福な牧畜民だ。馬を百頭以上持っている。ボオルチュは一人息子で、毎日馬の世話と乳搾りをしている。
「退屈なんだよ」
ボオルチュが走りながら言った。
「毎日毎日、馬の乳搾って、草食わせて、また搾って。おまえが来た時、正直ちょっとわくわくした」
「馬泥棒を追いかけるのが、わくわく?」
「だって面白いだろ。知らない奴がいきなり現れて、三日走ってきたって言って、目が本気で。こんなこと一生に何回あるよ」
ボオルチュは笑った。屈託のない笑い方だった。
俺はこの数年、こんなふうに笑う人間を見ていなかった。母は笑わない。カサルは笑わない。俺も笑わない。笑ってる余裕なんてなかった。
でもボオルチュは笑う。馬泥棒を追いかけながら、風を受けて、笑っている。
「おまえ、変な奴だな」
「よく言われる」
二日目の夕方、蹄跡が新しくなった。糞がまだ温かい。近い。
丘を越えた先に、小さな谷があった。そこに馬が数頭、繋がれていた。
俺の馬だ。三頭とも無事だった。
谷の奥にゲルが一つ。煙が上がっている。中に誰かいる。盗んだ連中だ。
「何人いると思う?」
ボオルチュが小声で聞いた。
「ゲルの大きさからして、二人か三人」
「弓は?」
「持ってるだろうな」
「正面から行くか?」
俺は考えた。正面からゲルに乗り込めば、戦いになる。二対三。弓の腕なら負けない自信はある。でも相手も弓を持っている。矢を受ける可能性がある。
「馬だけ取り返す。戦わなくていい」
「どうやって?」
「俺が馬の繋ぎ縄を切る。おまえは見張りだ。奴らが出てきたら、矢を射て足止めしてくれ。当てなくていい。頭の上を飛ばせば、しばらく出てこられない」
ボオルチュがにやりと笑った。
「いい計画だ」
日が沈むのを待った。
薄闇の中、俺は谷の斜面を腹ばいで降りた。草と土の匂いが顔に押しつけられる。首枷の傷がまだ少しずきずきした。
馬に近づいた。俺の馬たちは、俺の匂いを覚えていた。鼻を鳴らしたが、騒がなかった。
革紐に手をかけた。腰の刀——ソルカン・シラにもらった小刀で、一本ずつ切っていく。
一頭目。切れた。
二頭目。切れた。
三頭目に手をかけた瞬間、ゲルの入口が開いた。
男が一人出てきた。たぶん小便に出てきたのだろう。俺と目が合った。
「——誰だ!」
男が叫んだ。
三本目の紐を切った。切れた瞬間、馬の尻を叩いた。三頭が一斉に駆け出した。
「ボオルチュ!」
叫んだ。丘の上から、矢が飛んだ。ボオルチュの矢だ。男の頭の上、半歩分のところを風を切って飛んでいった。男は反射的に地面に伏せた。
ゲルの中からもう一人出てきた。弓を持っている。
ボオルチュが二本目を射った。今度はゲルの入口の横に突き刺さった。木の枠に矢が刺さる乾いた音。二人の男が中に引っ込んだ。
その間に、俺は馬に飛び乗った。三頭の手綱を束ねて掴み、丘に向かって走った。
ボオルチュが丘の上で待っていた。自分の馬に跨って、弓をまだ構えている。
「乗れ! 走るぞ!」
二人で馬を蹴った。五頭の馬が一斉に駆け出した。後ろからゲルの男たちが出てきて何か叫んでいたが、もう追いつけない距離だった。
風の中で、ボオルチュが笑っていた。
「最高だな!」
こいつ、本気で楽しんでいる。
俺も——少しだけ、笑っていた。たぶん、ベクテルを殺してから初めて笑った。
馬を取り返して、二人でボオルチュの家に戻った。
「分ける」
俺は三頭のうち一頭をボオルチュに差し出した。
「おまえがいなかったら取り返せなかった。一頭はおまえのものだ」
ボオルチュは首を横に振った。
「いらない」
「なんでだよ。おまえだって危ない目に遭っただろ」
「だから何だ? 俺は手伝いたくて手伝ったんだ。馬が欲しかったわけじゃない」
「でも——」
「テムジン」
ボオルチュが俺を真っ直ぐ見た。
「俺が出てきたのは、おまえの目を見たからだ。三日走ってきて、死にそうな顔してるのに、目だけが生きてた。ああ、こいつは本気なんだなって思った。本気の奴と一緒に走るのは楽しい。それだけだ。金とか馬とか、そういう話じゃない」
俺は黙った。
こういう人間がいるのか。
損得じゃなく、計算じゃなく、ただ「面白いから」「目が気に入ったから」で命を張る人間が。
ソルカン・シラは恩義で俺を助けてくれた。父への義理があったからだ。でもボオルチュは違う。何の義理もない。何の恩もない。ただ出会って、一緒に走って、それだけでもう友だった。
「……ありがとう」
二回目だ。ソルカン・シラに言った時と同じ言葉。でも今回は、少しだけ違う響きがした。
ボオルチュは手を差し出した。
「また何かあったら呼べよ。退屈してるんだ」
俺はその手を握った。
硬い手だった。馬の世話で鍛えられた、厚い掌だった。
これが、俺の最初の友だった。
血の繋がりじゃない。義理でもない。損得でもない。ただ互いの目を見て、一緒に走って、それだけで結ばれた友だった。
母の言葉を思い出した。「影の他に友もなく」。
でも今、影じゃない友が一人できた。
たった一人。でも、ゼロと一の差は、一と百の差より大きい。
俺は馬を走らせて、家に帰った。
背中にボオルチュの声が聞こえた気がした。
——また何かあったら呼べよ。
ああ。呼ぶよ。
いつか、もっと大きなことをする時に。




