第六話「首枷の日々」
奴らが来たのは、秋の始まりだった。
朝もやの中に、馬蹄の音が響いた。一頭や二頭じゃない。十頭以上の馬が、地面を揺らしながら近づいてくる。
母が最初に気づいた。ゲルの外に出て、東の方角を見て、一瞬で顔色を変えた。
「タイチウトだ」
その名前を聞いた瞬間、体が動いた。考えるより先に手が弓を掴んでいた。
母が振り返って、俺の目を見た。
「テムジン、逃げなさい」
「逃げる?」
「あいつらはおまえを殺しに来た。イェスゲイの息子が大きくなる前に潰すつもりだ。弟たちは幼いから手は出さない。狙いはおまえだ」
母の判断は早かった。そして正しかった。
タルグタイにとって、俺は脅威だ。今はただの子供でも、いずれ父の仇を討ちに来るかもしれない。芽のうちに潰す。草原では当たり前の考え方だ。
「ブルカン・カルドゥンの森に逃げろ。馬じゃ入れない。徒歩で追えば、おまえの方が速い」
「母さんたちは——」
「私たちは大丈夫だ。女と子供は殺さない。さっさと行け!」
母に背中を叩かれた。俺は走った。弓と矢筒だけを持って、オノン河を渡り、ブルカン・カルドゥン山の麓に広がる森に向かって全力で走った。
後ろを振り返ると、タイチウトの騎馬が十数騎、もやの中から姿を現すところだった。先頭にタルグタイの太った体が見えた。
森に入った。
ブルカン・カルドゥンの森は、草原の中にぽつんとある山の森だ。白樺と松が密生していて、馬では入れない。木の根が地面を覆い、岩が転がり、暗くて湿っている。
俺はこの森を知っていた。子供の頃から遊び場にしていた。どの木が登れて、どの岩陰に隠れられて、どこに水が湧いているか、全部わかっている。
追っ手は森の入口で馬を降りた。何人かが徒歩で入ってきた。声が聞こえる。
「出てこい、テムジン! 隠れても無駄だ!」
無視した。岩と木の根の間を縫うように奥へ進む。子供の体は小さい。大人が通れない隙間を抜けられる。
追っ手の声が遠くなった。
俺は大きな倒木の下に体を押し込んで、じっとした。呼吸を殺す。心臓がうるさいくらい鳴っている。でも体は動かさない。獣が敵をやり過ごす時と同じだ。動くな。音を出すな。匂いを消せ。
一日目が過ぎた。
二日目が過ぎた。
追っ手はまだ森の周りにいた。たまに中に入ってきて探すが、見つからない。見つかるわけがない。この森は俺の庭だ。
でも、問題は別のところにあった。
食べ物がない。
水は湧き水で何とかなる。でも食べ物は持ってこなかった。母に背中を叩かれた時、弓と矢だけ掴んで飛び出した。干し肉も木の実も何もない。
三日目の朝、腹の減り方が限界に近づいていた。頭がぼんやりする。手足に力が入らない。冬の飢えを思い出した。あの時は母がいた。でも今は一人だ。
森の中で兎を探した。鳥でもいい。弓はある。でも森の中は暗くて、獲物が見えない。草原なら遠くの兎も射抜けるのに、木が邪魔で射線が通らない。
四日目。
五日目。
体が動かなくなってきた。座り込んだまま立てない時間が増えた。
六日目の朝、俺は森を出た。
出るしかなかった。このまま森にいたら、追っ手に殺される前に餓死する。外に出て捕まるのと、中で飢えて死ぬのと、どっちがましか。
——捕まった方が、まだ生き延びる可能性がある。
それだけの計算だった。
森を出た瞬間、待ち構えていた男たちに囲まれた。
首枷をはめられた。
木の板を二枚合わせて、首と両手首を通す穴を開けたもの。それを首にかぶせて、革紐で縛る。両手は顔の横で固定されて、自由に動かせない。飯を食うのも、水を飲むのも、自分ではできない。
こんなものを人間にはめるのか。
いや、これは人間扱いじゃない。家畜だ。牛に鼻輪をつけるのと同じだ。逃がさないための道具。そして見せしめ。
タルグタイは俺を自分のゲルの前に引き出した。タイチウト氏の全員が見ている中で、俺の首枷を指して言った。
「これがイェスゲイの息子だ。見ろ。ボルジギンの長の子が、この有様だ」
笑い声が上がった。
俺は黙っていた。何も言わなかった。歯を食いしばって、地面を見ていた。顔を上げたら、目の中にあるものを見られる。怒りを。殺意を。まだ見せる時じゃない。
首枷をつけたまま、俺はタイチウトの家々をたらい回しにされた。一日ごとに別の家に預けられる。どの家でも、俺は地面に座らされて、残飯をもらうだけだった。犬と同じ扱いだ。
父の忠告を思い出した。犬に気をつけろ。よそ者は犬のように扱われる——
あれは比喩じゃなかった。文字通りだった。
何日目だったか、もう数えていなかった。
その日、俺はある家に預けられた。家の主はソルカン・シラという男だった。
タイチウト氏の中でも下の身分の男で、家畜の世話を任されている。体は痩せていて、目が穏やかだった。タルグタイの部下だが、偉そうな態度はなかった。
ソルカン・シラは、俺に水をくれた。
それだけなら普通だ。でも、水をくれる時の目が違った。他の家の人間は、俺を見る時、軽蔑か恐怖か面白がっている目をしていた。でもソルカン・シラの目には、それがなかった。
「腹は減ってないか」
ソルカン・シラが聞いた。
「……別に」
嘘だった。腹はいつも減っている。でも情けをかけられるのは嫌だった。
ソルカン・シラは何も言わず、干し肉の切れ端を俺の口元に持ってきた。首枷のせいで自分の手が使えない。誰かに食べさせてもらうしかない。屈辱だった。でも腹が減りすぎていて、拒否できなかった。
肉を噛んだ。涙が出そうになった。肉が美味かったからじゃない。この男の目が——あまりにもまともだったからだ。
ここに来てから初めて、人間として扱われた気がした。
その夜、タイチウト氏の宴があった。
何の宴かは知らない。季節の祭りか、何かの祝いか。どうでもいい。重要なのは、大人たちが酒を飲んで騒いでいるということだ。
俺の見張りは、若い男だった。まだ十代半ばくらいで、体は細い。酒は飲んでいないが、宴の方を気にしてそわそわしていた。自分も行きたいんだろう。
好機だ。
俺は首枷の重さを計算した。木の板二枚分。重いが、振り回せないほどじゃない。両手は固定されているが、肘から先は動く。首枷ごと体を回転させれば——
見張りの若い男が、宴の方を振り返った。一瞬、俺から目を離した。
その一瞬で動いた。
体をひねって、首枷の端を見張りの側頭部にぶつけた。木の角が、こめかみに当たった。鈍い音がした。男はよろめいて、地面に倒れた。
気を失ったか。殺したか。確認している暇はない。
俺は走った。
首枷をつけたまま走った。手が使えない。バランスが取れない。何度もつまずいた。でも走った。
宴の音が遠くなる。ゲルの群れを抜けて、草原に出た。月明かりの下、オノン河が光っていた。
後ろから声が上がった。
「逃げたぞ! イェスゲイの子が逃げた!」
蹄音が追ってくる。馬だ。草原で馬に追われたら、走って逃げるのは不可能だ。
河だ。河に入るしかない。
俺はオノン河に飛び込んだ。
水が冷たかった。
秋のオノン河は、骨まで凍る冷たさだ。体が一気にこわばった。でも止まるわけにはいかない。
流れに逆らわず、水の中を下流に向かって移動した。首枷が浮力で少し浮く。皮肉なことに、首枷のおかげで顔を水面に出したまま体を沈められた。
葦の茂みを見つけた。河辺に密生している背の高い草だ。その中に体を滑り込ませた。
顔だけを水面に出して、あとは全部水の中に沈める。首枷の木が水面に浮かんでいるが、暗い中では葦と区別がつかないはずだ。
息を殺した。
岸の上を、松明の光が走った。馬蹄の音。男たちの怒鳴り声。
「河に入ったか?」
「探せ! 岸沿いを全部見ろ!」
松明の光が水面を照らした。揺れる光が、俺のすぐ近くを通った。
動くな。
呼吸を最小にしろ。
水の冷たさで体が震えている。震えが水面に波紋を立てる。必死で震えを止めようとした。でも止まらない。体が勝手に震える。
松明が近づいてくる。
足音。岸辺を歩く音。すぐそこだ。
「このあたりか?」
男の声。松明の光が葦の茂みを照らした。
——見つかる。
覚悟した瞬間、別の声がした。
「こっちにはいないぞ。もっと下流じゃないか」
ソルカン・シラの声だった。
松明の光が止まった。
「ここは葦が深い。子供の体なら隠れられるだろう」
「だからこそ、もっと下流を探した方がいい。流されていったんだろう。ここで時間を使うより、下流の浅瀬を押さえた方が確実だ」
ソルカン・シラの声は落ち着いていた。理屈が通っている。追っ手の男は少し迷ったが、やがてうなずいた。
「……そうだな。下流に回るか」
松明の光が遠ざかっていった。足音が消えた。
俺は水の中で、ソルカン・シラの背中を見ていた。
去り際に、ソルカン・シラが一瞬だけ振り返った。暗くてよく見えなかったが、俺の方を見た気がした。目が合った気がした。
それだけだった。ソルカン・シラは何も言わずに去っていった。
どれくらい水の中にいたかわからない。
体の感覚がなくなっていた。冷たいという感覚すら消えて、ただ体全体が重い石みたいになっていた。このまま水の中にいたら死ぬ。凍死する。
追っ手の気配が完全に消えたのを確認して、俺は水から上がった。
体が動かない。手足がこわばって、まともに歩けない。首枷の重さが肩にのしかかる。
草原を這うようにして進んだ。
どこに向かえばいい。家に帰ればタイチウトが待っている。森に隠れればまた飢える。行く場所がない。
ソルカン・シラの家だ。
あの男の目を信じるしかなかった。あの穏やかな目。俺を人間として見た目。あの男だけが、俺を助けてくれるかもしれない。
月明かりを頼りに、ソルカン・シラの家を探した。タイチウトの宿営地の外れ、家畜の囲いの近くにある小さなゲル。
たどり着いた時、もう体力の限界だった。ゲルの入口に倒れ込んだ。
中から足音がして、入口が開いた。
ソルカン・シラが立っていた。
俺の姿を見て、一瞬だけ目を閉じた。それから、中に引き入れた。
「やっぱり来たか」
「……助けてくれ」
それだけ言うのが精一杯だった。
ソルカン・シラの息子が二人いた。チラウンとチンバイ。俺より少し年上の少年たちだ。それから娘のカダアン。
チラウンが最初に動いた。
「首枷を外そう」
革紐を切って、木の板を外した。首と手首に、深い擦り傷が残っていた。皮膚が剥けて、血が滲んでいた。
カダアンが傷口に脂を塗ってくれた。何も言わず、黙って、丁寧に塗ってくれた。
ソルカン・シラが言った。
「ここにいるのはバレたら終わりだ。俺も、家族も、全員殺される」
「わかってる」
「だから明日の夜明け前に出ろ。馬を一頭やる。弓もだ。南に走れ。コンギラト族のところか、それ以外でもいい。とにかくここから離れろ」
「……なんで助けてくれるんだ」
ソルカン・シラは少し黙った。
「おまえの父親に、昔、世話になった」
それだけだった。それだけの理由で、この男は自分と家族の命を賭けている。
チラウンが干し肉と馬乳酒を持ってきた。
「食え。痩せすぎだ」
チンバイが毛皮を持ってきた。
「これ着ろ。そのままじゃ凍え死ぬ」
カダアンが出口の方を見張りながら、小さな声で言った。
「追っ手が戻ってきたら、羊毛の荷車に隠れて。あそこなら見つからない」
全員が、当たり前のように動いていた。誰かに言われたわけじゃない。自分で考えて、自分の判断で、俺を助けている。
胸の奥が熱くなった。
涙じゃない。涙はもう、ベクテルを殺した日に枯れた。でも、何かが胸の奥で燃えるように熱かった。
——この恩は、絶対に忘れない。
俺は心の中でそう誓った。
いつか力を持ったら、この一家に必ず報いる。チラウンとチンバイとカダアンとソルカン・シラ。この四人の名前を、俺は骨に刻む。
夜明け前に、俺はソルカン・シラの家を出た。
馬は小さいが足の速い栗毛だった。弓は古いが、まだ使える。矢は五本。干し肉が革袋に詰めてあった。
ソルカン・シラが見送りに出た。
「南に行け。振り返るな」
「……ありがとう」
俺の口から出た言葉は、それだけだった。感謝を伝えるには全然足りない。でも、今の俺にはそれしか言えなかった。
ソルカン・シラはうなずいた。
「生き延びろ、テムジン。おまえの父親は、いい男だった」
馬に乗った。蹴った。走った。
振り返らなかった。振り返れば、きっとまた戻りたくなる。あの温かいゲルに。あの四人のそばに。
でも戻れば、あの人たちが死ぬ。
だから前だけを見た。
夜明けの光が、草原の東端を染め始めていた。空がゆっくりと青くなっていく。あの蒼い天。父が死んだ日も、追放された日も、ベクテルを殺した日も、首枷をはめられた日も——いつも同じ色をしていた空。
俺は馬を走らせながら、思った。
この世界には、タルグタイみたいな奴がいる。宴で毒を盛るタタルのような奴がいる。掟も恩も関係なく、力のない者を踏みつける奴がいる。
でも同時に、ソルカン・シラみたいな人間もいる。命を懸けて、ただ正しいことをする人間が。
俺がいつか力を持ったら。
タルグタイのような人間には報いを。ソルカン・シラのような人間には恩を。
それが俺のやり方だ。
馬は南へ走った。朝陽が草原を金色に染めていく。その中を、十歳の少年は一人で駆けていた。
首に残る首枷の痕が、まだ熱く痛んでいた。




