第四十四話「バグダードの落日」
俺が最初に覚えているのは、祖父の手の大きさだ。
九つの時、狩りに連れていかれた。兎を射って、巣穴の子兎を心配した。祖父は俺の目を見て「いい目をしている」と言った。
あの手はもうない。あの目ももうない。
祖父は死に、父トルイも死に、従兄のバトゥも先日死んだと聞いた。
残されたのは、俺と兄モンケと弟フレグとアリクブケ。トルイの四人の息子。帝国を背負う最後の世代だ。
俺の名はクビライ。トルイの次男。チンギス・ハンの孫。
だが祖父とは何もかもが違う。
祖父は草原で生まれ、草原で育ち、草原で死んだ。馬の上で弓を引き、城壁を壊し、帝国を築いた。
俺は書物の中で育った。
母ソルコクタニが与えてくれた教育は、弓と馬だけではなかった。漢人の学者から漢文を学び、ウイグル人の教師からペルシア語を学び、チベットの僧から仏教を学んだ。
書物は世界の窓だった。窓から覗くと、祖父が壊した世界が見えた。金朝の法律。宋の詩文。ペルシアの天文学。祖父が城壁ごと砕いた文明の中に、砕いてはならなかったものがいくつもあった。
「壊した後に何を作るかの方が、大事だと思います」
九つの時に言った言葉を、四十三歳の今でも信じている。
1258年。俺は中国の北方にいた。
兄モンケの命令で、中国北方の統治を任されている。金朝が滅んだ後の荒廃した大地を、もう一度人が住める場所に変える仕事だ。
戦場ではなく、政庁にいる。
税制を整え、農地を復興し、水路を修復し、流民に土地を与える。祖父が壊し、叔父オゴデイが放置した問題を、一つずつ片づけている。
地味な仕事だ。軍記に載るような華やかさはない。だが、これをやらなければ、征服した土地はただの荒れ地のままだ。
そんな日々の中に、西方からの報告が届いた。
「フレグ殿がバグダードを包囲しました」
弟のフレグ。俺より七つ下。軍人だ。兄モンケに命じられて、十万の軍を率いて西アジアに向かっていた。
バグダード。アッバース朝カリフの首都。イスラム世界の中心。人口は百万を超えるという。サマルカンドより大きく、中都より古い。
「攻囲の状況は」
「回回砲を集中配置して、城壁を砲撃中です。バグダードの城壁は古く、修繕が追いついていません。回回砲の威力に耐えられないだろうと」
回回砲。祖父が金朝から学んだ投石機と、ホラズムで鹵獲したマンジャニークを合わせた攻城兵器。ペルシア人の技術者アラウッディーンとイスマイールが設計した最新型は、三百キロの石を五百歩以上飛ばせるという。
祖父がウーラハイの城壁の前で立ち尽くした日から、四十年以上。壁を壊す技術は、もはや壁を作る技術を完全に上回っていた。
続報が数日おきに届いた。
「バグダード東面の城壁が崩壊。回回砲の集中砲撃により」
「カリフの守備軍が出撃するも、フレグ殿の騎兵に壊滅させられました」
「バグダードの堤防を決壊させ、カリフ軍の退路を水没させました」
水攻め。祖父が西夏で初めて試みた方法だ。壁は水に弱い。祖父の発見が、孫の世代でバグダードに使われている。
そして——
「バグダード陥落。カリフ・ムスタアスィムが降伏しました」
1258年2月。五百年続いたアッバース朝が、滅んだ。
カリフの処刑の方法を聞いた時、俺は筆を止めた。
「フレグ殿が、カリフを毛氈に包んで馬で踏み殺したと」
毛氈に包んで踏み殺す。
血を地に流さない処刑法。草原の貴人への礼だ。祖父がジャムカに与えた最期と同じ。
弟フレグは、イスラム世界最高の権威を、草原の作法で殺した。敬意なのか、侮辱なのか。たぶん両方だ。
「バグダードの被害は」
報告官が口ごもった。
「甚大です。市街の大部分が破壊されました。図書館が焼失し——チグリス河が黒く染まったそうです」
「黒く?」
「図書館の蔵書が河に投げ込まれて。インクで河が——」
俺は目を閉じた。
図書館。書物。何百年もかけて蓄積された知の記録が、河に捨てられた。
祖父がブハラを焼いた時と同じだ。学院が燃え、書物が灰になった。弟フレグは祖父の轍を踏んでいる。
「馬鹿が」
口に出していた。
報告官が驚いた顔をした。
「書物を捨てるな。図書館を燃やすな。何百年分の知識が——あの中にどれだけの価値があったか、フレグにはわからないのか」
わからないのだろう。フレグは軍人だ。父トルイに似て、壊す才能がある。だが壊した後に何が失われたか、計算する目を持っていない。
祖父はブハラで「天の罰だ」と言った。だが祖父の傍にいたジェルメは「ジャムカの釜と同じになる」と警告したという。あの警告を、フレグの傍で言ってくれる人間はいたのか。
いなかったのだろう。
バグダード陥落の報を受けて、俺は自分の仕事に戻った。
中国北方の統治。壊れたものを直す仕事。
税制の整備を急いでいた。祖父のヤサは草原の法だ。遊牧民には合うが、農耕民には合わない部分がある。農民から何をどれだけ取るか。どうすれば民が逃げずに土地に留まるか。
漢人の学者、劉秉忠と議論を重ねていた。
「ハン。農民からの税は、収穫の三割を超えてはなりません。三割を超えると、農民は土地を捨てて逃げます。逃げた農民の土地は荒れ、荒れた土地からは税が取れなくなる」
「三割か。今の徴税はどうなっている」
「地方によってばらばらです。五割を超えている地域もあります。軍の徴発で、農民が根こそぎ奪われている場所も」
「それでは——民が残るはずがない」
「その通りです。征服は力でできますが、統治は力だけではできません。民が自ら留まりたいと思う仕組みを作らなければ」
民が留まりたいと思う仕組み。
祖父は「血筋ではなく行動で評価する」と言った。それは草原の中での話だった。俺はそれを、農耕の世界にも広げたい。モンゴル人だろうと漢人だろうと、能力のある者が上に立つ。税は公平に取り、法は平等に適用する。
だが現実は——簡単ではない。モンゴルの将軍たちは、征服した土地は自分のものだと思っている。農民は家畜と同じで、好きなだけ搾り取っていいと。
「それを変えるには、ハン自身が——」
「わかっている。だが今は兄上の治世だ。俺には中国北方しか任されていない。帝国全体を変える権限はない」
「いずれ——その時が来るかもしれません」
劉秉忠の目が、静かに俺を見ていた。
その時は、思ったより早く来た。
1259年。兄モンケが死んだ。
南宋遠征の最中、合州の釣魚城を攻めている最中に倒れた。病だという。赤痢とも言われている。
兄モンケ。帝国を立て直し、反対派を粛清し、フレグを西に送り、俺を中国に置いた男。冷徹で有能で、酒に溺れなかった大ハン。
その兄が死んだ。
大ハンの座が、空いた。
弟アリクブケが動いた。
モンゴル本国にいたアリクブケが、モンケの死を聞いてすぐにクリルタイを開き、自分が大ハンだと宣言した。
俺は中国にいた。モンゴル本国から遠い。クリルタイに出席する時間がない。
だが——
「俺もクリルタイを開く。ここで」
中国の開平で、俺を支持する諸将を集めてクリルタイを開いた。
二人の大ハンが同時に立った。クビライとアリクブケ。兄弟が帝国を割って争う。
祖父の遺言。「兄弟を殺し合わせるな」。
守れなかった。モンケも守れなかったが、俺も守れない。
アリクブケと戦わなければならない。帝国を一つに保つために。帝国を割った相手と戦って、一つに戻す。
矛盾だ。だが——矛盾の中を歩くしかない。
戦いの前夜、書斎で一人座っていた。
机の上に地図がある。モンゴル本国から中国、中央アジア、ペルシア、ルーシ、そして——バトゥが走ったヨーロッパの端まで。
祖父が作った帝国。こんなに大きくなった。こんなに広がった。
だが大きくなりすぎた。一人の大ハンが全てを見渡せる大きさではもうない。ヤムの伝令が走っても、東の端から西の端まで何ヶ月もかかる。
この帝国を——一つのまま保てるのか。
たぶん、保てない。
バトゥはキプチャクに自分の国を作った。フレグは西アジアに自分の領域を持っている。チャガタイの子孫は中央アジアにいる。それぞれが独自の道を歩き始めている。
一つの帝国が、いくつかの国に分かれていく。それは——避けられないことなのかもしれない。
だが俺にできることがある。
俺の手の届く範囲——中国を、作り直すことだ。祖父が壊した世界を。父が守ろうとした世界を。
壊した後に何を作るか。
九つの俺が言った言葉。四十四歳の俺が、今からやろうとしていること。
まず——弟を倒す。それから、作り始める。




