第四十二話「引き潮」
伝令の顔を見た瞬間、わかった。
良い知らせを持ってきた人間の顔ではない。馬を三頭乗り潰して、顔が土色になっている。ヤムの中継点を何十箇所も経由して、モンゴル本国からドナウ河のほとりまで。
「大ハン・オゴデイ——崩御されました」
ゲルの中が凍った。
「いつだ」
「昨年の十二月です。酒宴の後に倒れて、そのまま——」
酒か。オゴデイは朝から酒を飲む男だった。祖父の影が重すぎて、酒でしか背負えなかった男。あの杯が、ついに割れた。
「後継者は」
「まだ決まっていません。トレゲネ皇后が摂政を務めていますが——クリルタイの開催を求める声が上がっています」
クリルタイ。全モンゴルの長を決める大集会。そこに出席しなければ、後継者争いから完全に外される。
俺は立ち上がって、ゲルの外に出た。
ドナウ河が目の前を流れていた。春の雪解け水で水量が増している。この河の向こうに、ウィーンがある。その先に、まだ見ぬ世界がある。
あと数日だった。
あと数日で、世界の先に踏み出せるはずだった。
スブタイを呼んだ。
老将は報告を聞いて、しばらく黙っていた。
やがて口を開いた。
「退くべきではありません」
「何だと」
「オゴデイ大ハンが死んだことは、ヨーロッパは知りません。今退けば、ヨーロッパは態勢を立て直す。二度とこの好機は来ない。ウィーンまであと数日。そこを落とせば——」
「スブタイ。クリルタイに出なければ、後継者争いに参加できない」
「後継者争いより、目の前の征服が——」
「征服した土地を、誰が治めるんだ」
スブタイが言葉を切った。
「帝国の中枢が空洞になれば、征服した土地は維持できない。ここでヨーロッパを獲っても、モンゴルが割れたら全部失う。征服より維持が難しい——それは祖父が一番よく知っていたことだ」
スブタイの目に、何かが走った。怒りか。失望か。
「チンギス・ハンなら——退かなかった」
「祖父は帝国の中枢そのものだった。祖父が生きている限り、帝国は割れない。だがオゴデイは祖父ではなかった。そしてオゴデイは死んだ。今、帝国の中心に誰もいない。その状態で辺境を広げても、中心から崩壊する」
「……バトゥ殿」
「何だ」
「あなたのお父上も——同じことを考えたのでしょうか。西の果てにいて、帝国の中心を見つめて。行くべきか帰るべきか」
父のことを持ち出された。
ジョチ。西方の領地にいたまま、帰らなかった男。帰らなかった結果、中枢から切り離されて——死んだ。
「父は帰らなかった。だから消された。俺は帰る。帰って、中枢に顔を出して、それから西に戻る。この土地は逃げない。だがクリルタイの席は、一度逃したら取り戻せない」
スブタイは黙った。
長い沈黙の後、老将はうなずいた。
「了解しました。撤退命令を出します」
だが目は——納得していなかった。三十年間追い続けてきた夢が、手の届くところで消えていく。その苦さが、老将の目の奥に沈んでいた。
撤退命令を出した。
十七万の軍が、東に向かって動き始めた。
来た道を戻る。ハンガリーの平原を、ルーシの森を、キプチャクの草原を。
兵たちは黙っていた。不満を口にする者はいない。軍規がそれを許さない。だが空気でわかる。みんな思っている。なぜ退くのか。勝っているのに。敵は壊滅したのに。
グユクが馬を寄せてきた。
「バトゥ殿。撤退には反対だ。せっかくここまで来たのに——」
「反対は聞いた。却下した。大ハンが崩御した。クリルタイが開かれる。出席しなければ、おまえの父上の後継者争いに参加できないぞ」
グユクの顔が変わった。そうだ。後継者はグユク自身かもしれないのだ。大ハンの長男。帝国の後継候補。クリルタイに出なければ、その座を逃す。
「……撤退に賛成する」
手のひらを返した。さっきまで反対していたのに。
この男の忠誠心は、自分の利益で動く。利益を見せれば簡単に転ぶ。だがそれは、利益の向きが変われば刃を向けてくるということでもある。今は使える。だがいつか——気をつけなければならない相手だ。
撤退の行軍は、進軍よりも重かった。
勝ちながら退く。これほど兵の士気を削ることはない。
モヒで倒した敵の領地を、素通りして帰る。占領した城を手放す。築いた前哨基地を捨てる。勝利の果実を、指の間からこぼしていく感覚。
ハンガリーの農民が、モンゴル軍が去っていくのを遠くから見ていた。恐る恐る家から出てきて、破壊された街を眺めている。嵐が去った後の顔だ。
嵐は去った。だが嵐が残した跡は消えない。
キプチャク草原に戻った。
ここが父の領地であり、俺の領地だ。ヨーロッパには戻れなかったが、キプチャクは俺のものだ。ここに腰を据える。
スブタイとの別れが近づいていた。
老将はモンゴル本国に帰る。クリルタイへの出席と、軍の再編のために。俺はキプチャクに残る。
出発の前夜、二人で焚き火を囲んだ。スブタイが酒を飲んでいた。二杯目。この男が二杯飲むのは、あの夏の夜にジェベの話をした時以来だ。
「スブタイ将軍」
「何でしょう」
「俺は——いい総大将だったか」
スブタイは杯を傾けながら、少し黙った。
「……合格です」
「合格?」
「百点ではありません。だが落第でもない。モヒでの橋頭堡の守り方は見事でした。撤退の判断も正しかった。ただ——」
「ただ?」
「ウィーンまで行きたかった」
俺は笑った。
「俺もだ」
「でしょうな」
スブタイも笑った。初めて見る、はっきりとした笑い方だった。皺だらけの顔がくしゃっと崩れて、歯が見えた。
「スブタイ将軍。一つ聞いていいか」
「何でも」
「あんたは俺に『友ではない、将だ』と言った。今でもそう思うか」
スブタイは杯を置いた。火を見ていた。
「……将です。それは変わりません。だが——」
「だが?」
「あんたの祖父に仕えた時とは、違うものを感じています。チンギス・ハンは太陽でした。近くにいると焼かれる。遠くにいると凍える。従うしかない存在だった。あんたは——太陽ではない」
「褒めてるのか」
「月です。太陽ほど熱くはないが、暗い夜に道を照らしてくれる。俺のような老いた将には、月のほうが——ありがたかった」
俺は黙った。
月。太陽ではなく、月。
祖父のようにはなれなかった。祖父のカリスマも、祖父の怒りも、祖父の圧倒的な意志も、俺にはない。
だが月には月の光がある。それでいい——そう思えたのは、スブタイがそう言ってくれたからだ。
「将軍。ありがとう」
スブタイの目がわずかに揺れた。
「礼を言われるようなことは——」
「ある。あんたがいなかったら、レグニツァもモヒも勝てなかった。キプチャクの平定も、ルーシの征服も。全部、あんたの戦略だ。俺は旗を持っていただけだ」
「旗を持つのが、総大将の仕事です」
「だから礼を言ってるんだ。旗を持つだけでいいようにしてくれた将に」
スブタイは杯を取り上げて、一気に飲み干した。三杯目だった。
「……バトゥ殿」
「何だ」
「お父上に似ています。目が。最初に会った時から思っていました。ジョチ殿に——よく、似ている」
父に似ている。祖父にそう言われ、スブタイにそう言われた。
もう、それは棘ではなかった。
「ありがとう。将軍」
「礼はもう十分です。では——」
スブタイが立ち上がった。背中が丸くなっている。六十代後半の体だ。二万キロを走り、ヨーロッパを席巻し、十七万を指揮した体が、少しずつ縮んでいる。
「元気で。モンゴルに帰ったら、ゆっくり休んでくれ」
「休む?」
スブタイが振り返った。
「俺は——馬の上で死にたいですな。ゲルの中で寝たまま死ぬのは性に合わない」
「じゃあ死ぬな。馬に乗り続けろ」
「そうします」
スブタイが馬に乗った。背中は丸かったが、馬に乗った瞬間に背筋が伸びた。鐙に足をかけ、手綱を握り、一度だけ振り返って俺を見た。
何も言わなかった。うなずいただけだった。
そして東に向かって走っていった。朝日の中に、老将の背中が小さくなっていく。
あの背中を見るのは、これが最後になった。
スブタイが死んだという知らせは、六年後に届いた。
モンゴル本国で、七十三歳。病だった。馬の上ではなかった。
報告を聞いた時、俺は一人でゲルの中にいた。
泣かなかった。泣く代わりに、あの地図を広げた。スブタイがジェベと走った二万キロの記録。俺とスブタイがヨーロッパを席巻した時の書き込みが、新しい筆跡で追加されている。
二枚の地図が重なっている。三十年前の地図と、今の地図。ジェベとスブタイの道と、バトゥとスブタイの道。
俺はその地図を丁寧に巻いて、革袋にしまった。父の空の革袋の隣に。
二つの袋。答えのない問いと、終わった旅の記録。
俺の宝物は、この二つだけだ。




