第四十一話「ワールシュタットの戦い」
1241年、春。
キエフの灰がまだ冷めきらないうちに、俺たちはさらに西へ向かった。
ルーシの先。ヨーロッパ。
スブタイの地図の端。その向こうに何があるのか、もう地図には描かれていない。
「軍を二つに分けます」
スブタイが最後の作戦を告げた。
「北路軍三万。バイダル殿とカダン殿が率いて、ポーランドに侵入。ポーランド諸侯とドイツ騎士団の連合軍を引きつけて、南のハンガリーに援軍が行くのを阻止する」
「南路は」
「バトゥ殿と俺で、本隊七万。ハンガリーに侵入して、国王ベーラ四世の軍を叩く。ハンガリーは平原が多い。モンゴル騎兵には理想的な地形です」
二つの軍が、数百キロ離れた場所で同時に敵を叩く。祖父がホラズムでやった四軍分割の縮小版だ。だが今回の敵はホラズムではない。ヨーロッパだ。
「ポーランドとハンガリーは連携するのか」
「連携しようとするでしょう。だがポーランドの軍がドイツ騎士団と合流する前に、北路軍が叩く。合流を阻止して各個撃破する。南北の作戦が同時に成功しなければ、意味がありません」
「同時に、か。数百キロ離れた二つの軍を、同じ日に動かすのか」
「ヤムがあります。北路軍との間に伝令の中継点を設置しました。互いの動きを知りながら、日を合わせて攻撃できます」
ヤム。祖父が草原で始めた伝令網が、ヨーロッパの戦場で二つの軍を同期させようとしている。
北路軍が先に出発した。バイダルとカダンの三万がカルパチア山脈を越えて北に向かう。
俺は南路軍七万を率いて、ハンガリーに向かった。
カルパチア山脈の峠を越える。雪の残る山道を、七万の騎兵が馬を引いて登った。峠を越えた先に、ハンガリーの平原が広がっていた。
広い。モンゴルの草原ほどではないが、見渡す限りの平地だ。河が何本か流れていて、その間に畑と牧草地と小さな村が点在している。
「ここなら走れる」
スブタイがうなずいた。
「走れます。だがハンガリー国王ベーラは、兵を集めています。推定八万。こちらの七万と、ほぼ互角です」
「互角なら十分だ。質で勝る」
「質だけではありません。ベーラ軍の中にキプチャク族がいます」
「キプチャク?」
「我々がルーシで追い散らしたキプチャク族の残党が、ハンガリーに逃げ込んで、ベーラに保護されています。コテン・ハンという男が率いている。あの男は俺たちの戦い方を知っている」
厄介だった。敵の中に、モンゴルの戦術を知っている人間がいる。
だがスブタイは笑った。
「知っているだけでは防げません。知っていても——体が動かなければ」
ヤムの伝令が走った。北路軍からの報告。
「バイダル殿。ポーランドのレグニツァ近郊で、ポーランド・ドイツ騎士団連合軍と遭遇。兵力は敵約三万」
三万対三万。互角の兵力。
「交戦を開始しました。マングダイを使用」
その後、半日おきに続報が入った。
「ポーランド重装騎兵が突撃してきた。北路軍、偽装退却を開始」
「敵騎兵が追撃。隊列が伸びている」
「反転。一斉射撃開始」
そして——
「レグニツァの戦い、勝利。敵軍壊滅。ポーランド大公ヘンリク二世、戦死。敵の戦死は推定二万。北路軍の損害は約三千」
レグニツァ。後にヨーロッパの人々はこの戦場を「ワールシュタット」と呼ぶことになる。「屍の野」という意味だ。
報告の中に、戦闘の詳細があった。
ヨーロッパの重装騎兵は、ケレイトの重騎兵よりさらに重かった。全身を鉄で覆い、馬にも鉄の装甲をつけている。動く鉄の塊だ。正面からぶつかれば、モンゴルの軽騎兵は弾き飛ばされる。
だがバイダルはぶつからなかった。
マングダイ——偽装退却。モンゴル軍が退却するふりをして、重装騎兵に追わせた。鉄の鎧をつけた騎兵は追撃すると馬が疲れる。装甲が重すぎて、長距離を全速では走れない。
追撃で隊列が伸びきったところに、伏兵が弓を浴びせた。馬を狙った。祖父がカラハルジトで発見した「馬殺し」の戦術だ。鎧を貫けなくても、馬を射れば重装騎兵はただの歩兵になる。鉄の鎧を着た歩兵は、地面の上では亀と同じだ。
さらに——報告によれば、北路軍は煙を使ったという。
湿った草を燃やして大量の煙幕を作り、重装騎兵の視界を奪った。煙の中では隊列が保てない。ばらばらになった騎兵を一騎ずつ仕留めた。
祖父の原理。敵の強さを使わせない場所で戦う。重装騎兵の強さは集団突撃だ。集団を維持できない状況——煙幕、偽装退却、馬殺し——を重ねて、強さを封じた。
「見事だ」
素直にそう思った。バイダルはチャガタイの孫で、俺とは仲が良くない。だがこの戦果は認めるしかない。
北路軍の勝利を確認した翌日。俺たちもハンガリーの敵と対峙した。
シャイオ河。ハンガリーの東部を流れる河だ。河の西岸にベーラ四世の軍八万が布陣している。東岸に俺たちの七万。
河を挟んでの対峙。
兵力を記す。
モンゴル軍、七万。バトゥの中央軍四万。スブタイの別働隊三万。投石機八基。震天雷三百個。火箭の架台十基。
ハンガリー軍、推定八万。中核はハンガリー重装騎兵二万。西方から参戦した聖堂騎士団の騎士が数千。キプチャク族のコテン・ハンが率いる軽騎兵一万。その他の歩兵と地方兵が四万以上。
「河を渡らないと戦えない。だが河を渡る時が一番危ない。渡河中に攻撃されれば壊滅する」
俺が言うと、スブタイはうなずいた。
「だから——俺が夜のうちに渡ります」
「夜?」
「シャイオ河の上流に、渡れる場所を見つけてあります。浅瀬ではなく、仮設の橋を架けられる場所です。工兵に橋を架けさせて、夜のうちに三万を渡します。夜明け前に敵の南側に回り込む」
「俺は?」
「バトゥ殿は正面の橋から渡河してください。だが無理に渡る必要はない。投石機と火箭で橋の対岸を制圧して、敵の注意を正面に釘づけにする。敵が正面を見ている間に、俺が背後に出ます」
テムジンがケレイト本営を奇襲した時と同じ構造だ。正面で引きつけて、別働隊が裏に出る。
「行けるか、スブタイ。夜間の渡河は——」
「三十年前にもやりました。カルカ河で」
スブタイの目が静かに燃えていた。三十年分の経験が、あの目の奥に積み重なっている。
モヒの戦い。
夜明け前。
俺は正面のシャイオ河の橋に投石機を並べた。夜のうちに組み立てを終えている。
橋の対岸にハンガリー軍の前衛がいる。橋を守っている。
角笛が鳴った。
投石機が一斉に石を放った。夜明け前の暗闇に、石が空を渡る音だけが響く。対岸の前衛陣地に石が落ちて、悲鳴が上がった。
同時に火箭を撃った。百本の火箭が夜空を赤く染めて、対岸に降り注いだ。火が上がった。ハンガリー軍の天幕が燃え始めた。
「渡河開始!」
中央軍の先鋒が橋を駆け渡った。対岸の前衛は投石機と火箭で混乱している。橋を守る力が残っていなかった。
橋を越えた先鋒が橋頭堡を確保した。後続が続々と渡る。
ベーラ四世が本営から飛び出してきた。正面の橋が突破されたことに気づいて、全軍に迎撃を命じた。
ハンガリー重装騎兵二万が、モンゴルの橋頭堡に向かって突撃してきた。
重い。鉄の塊が地面を揺らしながら迫ってくる。ケレイト重騎兵より、レグニツァのドイツ騎士より、さらに重い。ヨーロッパ最強の突撃力。
「橋頭堡を守れ! 退くな!」
俺の先鋒が、重装騎兵の突撃を正面で受けた。盾と槍で受け止める。押される。鉄の質量で押し込まれる。
損害が出始めた。先鋒の前列が次々と倒れていく。
「耐えろ——もう少しだ」
スブタイの別働隊が背後に回り込むまで、持ちこたえなければならない。時間を稼ぐ。それだけが俺の仕事だ。
一刻。二刻。
重装騎兵の突撃が三度来た。三度とも跳ね返した——というより、かろうじて崩壊しなかった。先鋒の三分の一が倒れた。
四度目が来ようとした時——
南から、角笛が鳴った。
スブタイ。
スブタイの三万が、ハンガリー軍の背後に出現した。
夜間に仮設橋を架けて渡河し、夜明け前に南に回り込み、ハンガリー軍の後方に展開していた。三万の騎兵が弓を構えて、ハンガリー軍の背中を見ていた。
「全軍、突撃」
スブタイの号令で、三万が一斉に動いた。
背後からの突撃。ハンガリー軍は正面の橋頭堡に意識を集中していて、背後に気づいていなかった。
挟撃。前からバトゥ、後ろからスブタイ。八万のハンガリー軍が、前後から押し潰される。
だがスブタイは完全な包囲をしなかった。
西側——ブダペストへの退路だけを、わざと開けた。
「なぜ逃げ道を残す」
俺は伝令に問わせた。
スブタイからの返答。
「完全に包囲すると、敵は死に物狂いで戦います。逃げ道を一つ残せば、敵は戦うより逃げることを選ぶ。逃げる敵は、戦う敵より簡単に殺せます」
追撃殲滅。逃げる敵を背後から弓で射る。草原の狩りと同じだ。
ハンガリー軍は崩壊した。重装騎兵は背後からの攻撃に対応できず、歩兵は逃げ始め、キプチャク族のコテン・ハンは——
コテンは開戦前にハンガリー貴族に暗殺されていた。キプチャク族がモンゴルの間者ではないかと疑った貴族たちが、コテンを殺したのだ。自分たちの味方を自分たちで殺した。
敵が勝手に内部から崩れる。スブタイが何かしたわけではない。ヨーロッパの猜疑心が、自分自身を殺した。
モヒの戦果を記す。
モンゴル軍。出撃七万。戦死四千。負傷七千。主な損害は橋頭堡での防御戦に集中。先鋒部隊の損耗が激しかった。
ハンガリー軍。出撃八万。戦死推定四万以上。捕虜一万。逃亡三万(うち追撃で相当数が討ち取られた)。国王ベーラ四世はアドリア海の島に逃亡。
北のレグニツァと南のモヒ。二日の間に、二つの大会戦で、ヨーロッパの軍事力を壊滅させた。
ポーランドとハンガリーが同時に崩壊した。
モンゴル帝国の版図は、東のモンゴル高原から西のヨーロッパの入口まで広がった。
モヒの戦場を離れた後、俺はドナウ河のほとりに馬を止めた。
西を見た。
ドナウの向こうに、まだ人が住んでいる。まだ城壁がある。まだ倒していない王がいる。スブタイの地図には描かれていない世界。
「スブタイ。この先に何がある」
「ウィーンという都市があります。その先にローマという古い都がある。さらに先に海がある。海の向こうは——知りません」
「行けるか」
「行けます。兵も馬もまだ足りている。ウィーンまでなら数日です」
数日。あと数日で、俺は世界の果てに——いや、世界の果てがどこなのかもわからない。ただ、まだ先がある。
父ジョチが行けなかった場所。祖父チンギスが見なかった世界。
俺はここまで来た。
ジョチの息子として。チンギスの孫として。疑われた血を引く男として。
ここまで走ってきた。十分か。まだ足りないか。
「行こう」
俺は言おうとした。
だがその時、東からヤムの伝令が駆け込んできた。




