第四十話「凍てる大地」
1237年、十二月。ルーシの大地が凍った。
河が凍った。沼が凍った。森の地面が凍った。夏には馬が腹まで沈む泥濘が、冬には鉄のように硬くなった。
スブタイが言った通りだった。凍った大地の上なら、モンゴル騎兵はどこでも走れる。
「今です。行きましょう」
スブタイの一言で、十七万が動き出した。
最初の標的はリャザン公国だった。
ルーシの東端にある公国。城壁はあるが、金朝やホラズムのものとは違っていた。
木と土の壁。丸太を組み上げて土を詰めた城壁。高さは三丈ほど。金朝の版築や石積みに比べれば、はるかに脆い。
だが一つ、厄介なものがあった。
教会だ。
石で作られた教会が、城市の中心にそびえていた。壁が厚く、窓が小さく、塔が高い。祈りの場所であると同時に、最後の砦として設計されている。城壁が破られても、住民は教会に逃げ込んで籠城できる。
「あれは何だ」
俺は初めて見るその建物を指さした。
「ルーシの民の祈りの場です」
スブタイが答えた。
「祈りの場が、あんなに頑丈なのか」
「この地の民は、神に祈りながら戦う民です。祈りの場が砦を兼ねている。壊すには——投石機が要ります」
リャザンの攻囲は五日で終わった。
投石機六基で木と土の城壁を叩き、三日目に壁が崩れた。モンゴル騎兵が突入し、市街を制圧した。
だが教会には手こずった。石の壁は投石機の石を弾き返す。震天雷を壁の根元に仕掛けたが、石が厚すぎて崩れなかった。
結局、出入り口を封鎖して兵糧攻めにした。三日後、中から降伏の声が上がった。
「石の教会は厄介だ。全ての都市にあるのか」
「あります。ルーシの主要な都市には必ず」
「一つずつ兵糧攻めにしていたら、時間がかかりすぎる。別の方法を考えろ」
スブタイはうなずいた。
次の都市に向かう途中で、スブタイが新しい方法を提案した。
「教会の石壁を壊すのではなく、燃やしましょう」
「石は燃えないだろう」
「石は燃えません。だが屋根は木です。窓から火矢を射り込めば、中が燃える。中が燃えれば、石の壁が竈になる。熱で中の人間が耐えられなくなって出てくる」
残酷だった。だが効率的だった。
次の都市で試した。教会の窓に火箭を撃ち込んだ。狭い窓から入った火箭が、中の木の床と木の天井に火をつけた。石の壁が熱を閉じ込めて、中は炉のようになった。
悲鳴が聞こえた。人が燃える匂いがした。
教会の扉が開いて、煙にまかれた人々が転がり出てきた。
俺は馬上からそれを見ていた。
祈りの場を焼いた。人が祈っている場所を焼いた。祖父がブハラのモスクに入って「天の罰だ」と言った時と、何が違うのか。
何も違わない。
俺はジョチの息子で、チンギスの孫だ。壊すのは血に刻まれている。
モスクワを焼いた。
まだ小さな都市だった。木の城壁に囲まれた、森の中の街。投石機すら要らなかった。火矢を射り込んだだけで、木造の街が丸ごと燃えた。
住民は森に逃げた。追わなかった。追う価値もない小さな街だった。灰の中に黒い柱だけが残って、雪が降り始めた。
ウラジーミル大公国の首都ウラジーミルに迫った。
ここは違った。石の城壁。石の教会が五つ。守備兵も多い。ウラジーミル大公ユーリー二世が防衛を指揮している。
だが大公は城を出て野戦を挑む決断をした。城の中に閉じこもるのではなく、城の外でモンゴル軍と戦おうとした。
愚かな判断だった。
野戦でモンゴル騎兵に勝てるルーシの軍隊は存在しない。城壁の中にいれば時間を稼げたのに、外に出てきた。
シチ河の戦い。凍った河の上での会戦だった。
兵力を記す。モンゴル軍、投入兵力五万。ウラジーミル軍、約三万。
凍った河面は平坦で、障害物がない。騎馬戦には理想的な地形だ。だがルーシの兵は歩兵が主力で、氷の上では滑って陣形が保てない。
モンゴル騎兵が三方向から突入した。氷の上を滑るように走る馬。蹄に特殊な覆いをつけて、氷上でも滑らないようにしていた。スブタイの工夫だ。
戦闘は半日で終わった。ウラジーミル軍は壊滅。大公ユーリーは戦死。
ウラジーミルの城壁は、大公を失った守備兵が二日で開けた。
戦果。ウラジーミル軍三万のうち、戦死一万五千。捕虜一万。モンゴル側の戦死は約千二百。凍った河の上の戦いで、足を滑らせた兵の負傷が多かった。
春が来て、大地が溶け始めた。
凍っていた河が割れて流れ出し、沼地が泥に戻り、森の地面がぬかるんだ。
馬が動けなくなった。
「撤退します。春の泥濘では行軍できません。秋まで待って、また冬に攻めます」
スブタイの判断で、一旦草原に引いた。
ルーシの民は、嵐が去ったと思っただろう。モンゴル軍が消えて、束の間の平和が戻った。
だが嵐は去っていない。冬を待っているだけだ。
翌冬、再びルーシに入った。北部の残った公国を一つずつ潰していく。その翌年も。冬に攻め、春に退き、夏に馬を休ませ、また冬に攻める。三度の冬を繰り返して、ルーシの北部と中部をほぼ制圧した。
三年の間に、焼いた都市は十を超えた。壊した城壁は数え切れない。慣れていった。壁を壊すことにも、街が燃えることにも。
夏の間、草原で馬を休ませながら、スブタイと話をした。
焚き火のそばで、二人で馬乳酒を飲んだ。スブタイが酒を飲むのを見るのは初めてだった。普段は水しか飲まない男だ。
「将軍。聞いていいか」
「何でしょう」
「三十年前にジェベ将軍とこの辺りを走った時の話を聞きたい」
スブタイの手が止まった。杯を口元に持っていく動作が、一瞬だけ止まった。
「……何が聞きたいのですか」
「全部。何でも」
スブタイは杯を空けた。もう一杯注いだ。珍しく、二杯目を飲んでいる。
「二万で走りました。補給線なし。通信なし。チンギス・ハンの命令は『自由に動け。ムハンマドを追え』。それだけでした」
「それだけで二万キロ走ったのか」
「命令が短いほど、自由が大きい。自由が大きいほど、責任も大きい。ジェベと俺は毎日判断を迫られました。右に行くか左に行くか。戦うか避けるか。進むか退くか。全部、自分たちで決めた」
「ジェベ将軍は、どんな人間だった」
スブタイの目が少し遠くなった。
「足の速い男でした。馬に乗れば誰よりも速い。判断も速い。俺が地図を広げている間に、ジェベはもう走り始めている。そういう男でした」
「仲が良かったのか」
「わかりません。仲が良いとか悪いとか、考える暇がなかった。走って、戦って、また走って。二年間ずっとそうだった。でも——」
スブタイが火を見た。
「ジェベが死んだ時、俺は初めて一人になった。二万キロを二人で走ってきて、帰り道で一人になった。あの時——」
言葉が止まった。
しばらくして、スブタイは杯を置いた。
「あの時のことは、話せません。すみません」
「いい。聞いた俺が悪かった」
「いえ。聞いてくれて——ありがたかった」
スブタイが「ありがたい」と言ったのは、初めてだった。
この男は俺の友ではないと言った。将だと言った。だが今夜だけは、少しだけ——線が滲んだ気がした。
1240年、冬。再び凍った大地に戻った。
今度の標的はキエフだった。
ルーシ最古の都市。ドニエプル河のほとりに立つ、丘の上の城市。金色の屋根を持つ大聖堂がいくつもそびえ、「ルーシの母」と呼ばれる聖なる都市。
俺は使者を送った。降伏勧告だ。
「城門を開けて降伏すれば、市民の命は保証する。抵抗すれば——リャザンとウラジーミルの二の舞になる」
キエフの守将ドミトルは、使者を殺した。
また使者を殺された。祖父がホラズムに使者を殺されたのと同じだ。
怒りは——あった。だが祖父のような激しい怒りではなかった。慣れてきている。使者を殺す人間がいることに。城壁の向こうで、愚かな判断をする人間がいることに。
慣れたくなかったが、慣れた。
「攻める」
投石機を全て配置した。火箭の架台も。震天雷も。
三日間の砲撃でキエフの城壁が崩れた。モンゴル兵が突入した。
キエフは燃えた。
金色の屋根が炎に包まれて、黒い煙が冬の空に立ち上った。大聖堂の壁が崩れ、鐘が落ちて、鈍い音を立てて地面に沈んだ。
ルーシの母が、焼け落ちた。
守将ドミトルは最後まで戦って捕らえられた。使者を殺した男だ。殺すべきだったかもしれない。だが——
「殺すな。あの男は勇敢だった。勇敢な敵は使える」
祖父の言い方だった。コクセウ・サブラクを生かしたのと同じ理屈だ。俺の中にも祖父の血が流れている。疑う者には疑わせておけばいい。俺のやることが、答えだ。
キエフ攻囲戦の戦果を記す。
モンゴル軍。投入兵力八万(全軍から選抜)。戦死千八百。負傷三千。
キエフ守備軍。守備兵約二万。戦死一万二千。捕虜六千。守将ドミトルは捕虜として助命。
キエフの被害。城壁の大部分が崩壊。大聖堂を含む主要建築物の多くが焼失。市民の被害は数千から一万。
また都市を焼いた。
ブハラの話を聞いた時、俺は祖父を遠い存在だと思っていた。文化の都を焼くような男は、俺とは違う存在だと。
今、俺は同じことをしている。ルーシの聖都を焼いた。金色の屋根を黒い灰に変えた。
違うのは——俺には祖父ほどの苦悩がないことだ。
祖父はブハラの後、「楽しくない」とボオルチュに言われ、「ジャムカの釜と同じだ」とジェルメに突きつけられたという。
俺にはそういう友がいない。スブタイは「将」であって「友」ではない。俺を止める者がいない。止められないから、止まらない。
それが怖いのか怖くないのか——もうわからなくなっていた。
キエフの先に、ヨーロッパが広がっていた。
スブタイが地図を広げた。何度目かわからない、あの地図。
「ポーランドとハンガリー。ここを同時に叩けば、ヨーロッパの東半分が手に入ります」
「同時に?」
「軍を二つに分けます。北路がポーランド。南路がハンガリー。別々のルートから侵入して、敵が兵力を集中できないようにする」
「祖父がホラズムでやった四軍分割と同じか」
「同じです。ただし——今回は二つで十分です。ヨーロッパの軍は統一指揮がない。ポーランドとハンガリーが連携することは、まずありません」
スブタイの目が燃えていた。六十を超えた老人の目が、若者のように光っていた。
あの目を見た時、俺は思った。
この男は三十年間、この日を待っていたのだ。ジェベと走り抜けた道を、今度は征服するために戻る日を。カルカ河で破ったルーシの先にある世界を、踏み潰す日を。
「行こう、スブタイ」
俺は言った。
「ヨーロッパの果てまで」




