第三十九話「西への道」
十五万が動き出した。
草原が黒く染まった。馬の群れが地平線を埋め尽くし、砂塵が空を覆い、大地そのものが西へ移動しているように見えた。
俺は先頭にいた。
隣にスブタイ。後ろにモンケ。右翼にバイダル。左翼にグユク。
十五万の軍を率いるのは初めてだった。これまで俺が動かしたのは、せいぜい数千。父ジョチが遺した領地の守備兵だ。それが一気に十五万。
正直に言えば、恐ろしかった。
十五万の人間の命が、俺の判断にかかっている。間違えれば、万の単位で死ぬ。
祖父は二十万を率いてホラズムを滅ぼした。叔父トルイは三万で金朝の十五万を壊滅させた。俺に同じことができるのか。
できるかどうかはわからない。でも、やるしかない。
最初の目標はボルガ河流域だった。
ボルガ・ブルガール。ボルガ河の中流域に住むイスラム教徒の民だ。交易で栄えた国で、城壁を持つ都市がいくつかある。
だがその前に、片づけなければならない相手がいた。
キプチャク族。
父ジョチの領地だったはずの草原に住む遊牧民だ。父が生きている間はモンゴルに服従していたが、父の死後に離反していた。モンゴルの支配を認めず、独自の勢力を保っている。
「父の民が、父の死後に離れた」
俺にとっては、ただの軍事目標ではなかった。父の遺産を取り戻す戦いだ。
スブタイが言った。
「キプチャク族は騎馬民族です。草原の戦いになる。城壁はない。攻城兵器は要らない。弓と馬の勝負です」
「祖父がモンゴル高原でやったのと同じか」
「同じです。ただし——キプチャク草原はモンゴルの草原より広い。そして敵は逃げ足が速い。追い詰めるには工夫が要る」
「どうする」
「河を使います」
スブタイの作戦は、草原の戦術と地形の利用を組み合わせたものだった。
キプチャク草原には大きな河がいくつも流れている。ドン河、ドニエプル河、ヴォルガ河。これらの河は南北に流れていて、東から西に移動する遊牧民にとっては天然の障壁になる。
「キプチャク族を西に追い込みます。東から押して、河の手前に追い詰める。河を背にした敵は逃げ場がない」
「祖父がインダス河でジャラールッディーンを追い詰めたのと同じだな」
「原理は同じです。だがチンギス・ハンの時は一つの河で一つの敵を追い詰めた。今回は複数の河で複数の部族を同時に追い込む。規模が違います」
スブタイは地図を広げた。三十年前の地図に、新しい情報を書き加えたものだ。
「全軍を三つに分けます。中央のバトゥ殿が正面から押す。北翼のモンケ殿がボルガ・ブルガールを攻略した後、南下して挟み込む。南翼は——」
「グユクか」
「グユク殿とバイダル殿に南を任せます。グユク殿は前線に出したほうが黙ります」
スブタイの口元がわずかに動いた。あの、笑いかどうかわからない表情。
キプチャク族との戦いは、想像より手強かった。
草原の民同士の戦いだ。弓と馬の勝負。キプチャク族の騎兵はモンゴル騎兵と同等の機動力を持っている。同じ草原で育ち、同じ弓を引き、同じ馬術を身につけた相手だ。
最初の会戦で、俺は正面からキプチャクの主力にぶつかった。
五万対三万。数ではこちらが上。だがキプチャク騎兵は正面を避けて左右に散り、俺の軍を引き延ばそうとした。追えば罠にかかる。追わなければ逃げられる。
草原の戦いの厄介さを、初めて肌で感じた。
「祖父はこういう敵と戦って、モンゴル高原を統一したのか」
独り言のつもりだったが、スブタイが聞いていた。
「チンギス・ハンが最も手を焼いたのは、城壁の敵ではなく、草原の敵でした。ジャムカ、タイチウト、ナイマン。全員が騎馬民族です。草原の敵は城壁の中に閉じ込められない。どこまでも逃げる。追い詰めるには——」
「時間がかかる」
「時間と、仕掛けが要ります」
スブタイが指示を出した。
「追わないでください。正面から押すだけでいい。押して、押して、河の方に追いやる。河の手前で北翼と南翼が待ち構えている。三方向から圧迫して、河を背にさせる」
「俺は囮か」
「囮ではありません。主力です。だが主力の仕事は、敵を倒すことではなく、敵を動かすことです」
敵を倒すのではなく、動かす。
祖父の戦術とは違う発想だった。祖父は一点突破で敵を砕いた。野狐嶺もナクー崖もそうだ。だがスブタイは砕かない。押して、追い込んで、逃げ場をなくしてから、選択を迫る。降伏か死か。
「祖父の戦い方とは違うな」
「チンギス・ハンの戦い方は、チンギス・ハンのものです。俺の戦い方は、俺のものです。同じである必要はない」
初めてスブタイが自分の意見を、はっきりと口にした。
キプチャク族の追い込みは、一年以上かかった。
城壁の敵は城の中にいるから、包囲すれば逃げられない。だが草原の遊牧民は違う。追えば散り、追うのをやめれば集まる。一つの集団を叩いても、別の集団が百キロ先で旗を上げる。草原は広すぎて、蓋ができない。
祖父がジャムカやナイマンを追い詰めるのに何年もかけた理由が、ようやくわかった。草原の敵を滅ぼすのは、城壁を壊すより難しい。
だがスブタイの計画は着実に機能した。三方向から圧迫して、キプチャク族の主力をドン河の手前に追い詰めた。河を背にしたキプチャク族は、降伏か渡河逃亡かの二択を迫られた。
大半が降伏した。
降伏した兵はモンゴル軍に組み込んだ。祖父のやり方だ。敵を殺さず吸収する。キプチャクの騎兵は精強で、数に加えれば戦力になる。
一部は河を渡って西に逃げた。ルーシの諸公国に助けを求めるために。
「逃がしたキプチャクが、ルーシに俺たちの情報を持っていく」
俺が言うと、スブタイはうなずいた。
「持っていかせます。恐怖という情報を。モンゴルが来る、逃げられない——そういう情報が先に届けば、戦う前から敵の士気が削れる」
祖父がサマルカンドの前に間者を送り込んで噂を流したのと、同じだ。ただしスブタイは間者を使わない。逃げた敵そのものを情報の運び手にする。
「将軍。あなたは祖父と一緒に戦ったんだろう。祖父の戦い方を受け継いでいるのか。それとも——」
「受け継いでいる部分もある。変えた部分もある。チンギス・ハンは天才でした。だが天才の戦い方をそのまま真似ても、天才にはなれない。天才から原理を学んで、自分の形にするしかない」
「原理?」
「敵の強さを使わせない場所で戦う。それがチンギス・ハンの原理です。カラハルジトでは砂地で重騎兵の脚を殺した。キジル砂漠を越えてホラズムの防衛線を無意味にした。原理は同じです。俺はそれを河で——」
スブタイは言葉を切った。地図を見ていた。
「ルーシの地形は河が多い。河を使えば、この原理がもっと大きな規模で使えます」
ボルガ・ブルガールを攻略した。
モンケが北翼で都市を一つずつ落としていった。攻城兵器はモンゴル本国から運んできた投石機六基と震天雷二百個。規模は祖父のホラズム遠征より小さいが、ボルガ・ブルガールの城壁はホラズムやサマルカンドほど堅固ではなかった。
モンケは有能だった。トルイの長男は、父の軍事的才能を受け継いでいた。冷静で、計算が正確で、無駄な犠牲を出さない。
モンケの弟クビライは、この遠征には参加していなかった。中国方面を任されていると聞いた。あの男は戦場より政庁に向いている——モンケがそう言っていた。
「弟は頭が良すぎて、戦場には向かないんだ。考えすぎる。戦場では考えるより動く方が大事だ」
モンケの評価は辛辣だったが、悪意はなかった。弟の才能を認めた上で、適所に置いている。トルイの子供たちは、チンギスの孫の中で最も優秀な一群だった。
キプチャク平定とボルガ・ブルガール攻略を終えた時、俺の兵力は十七万に膨れていた。降伏したキプチャク騎兵とブルガールの兵を吸収した結果だ。
次はルーシだ。
スブタイが地図を広げた。
「三十年前にジェベと俺が走った道です。あの時は二万で駆け抜けた。今度は十七万で踏み潰す」
「ルーシの兵力は」
「諸公国を合わせれば数十万。だがまとまっていない。公国ごとにばらばらです。ウラジーミル大公国、リャザン公国、キエフ大公国——それぞれが独自に動いていて、統一された指揮がない」
「寄せ集めか」
「ナイマン連合と同じです。個々には強くても、全体としては脆い。一箇所を砕けば連鎖的に崩れる」
祖父がナクー崖でやったことだ。
「ただし——」
スブタイが指を地図の上で動かした。
「冬に攻めます」
「冬?」
「ルーシの道は、夏は泥濘で通れません。森と沼地が多い。馬が進めない。だが冬になれば——」
「凍る」
「そうです。河が凍り、沼地が凍り、森の地面が固まる。凍った大地の上なら、モンゴル騎兵はどこでも走れる。ルーシの兵は冬に戦う習慣がない。冬は籠るものだと思っている。その常識の裏をかく」
通れないはずの場所を通る。祖父がキジル砂漠でやったことを、スブタイは凍った大地でやろうとしている。
「将軍。あなたは——祖父の戦い方を進化させているな」
「進化ではありません。応用です。原理は変わらない。使う場所が変わっただけです」
俺は地図を見つめた。ルーシの諸公国。その先にポーランド。ハンガリー。ヨーロッパ。
まだ誰も見たことのない世界が、この地図の向こうに広がっている。
「行こう」
俺は言った。
「冬を待って——凍った大地を走る」




