第三十八話「金朝滅亡」
西方遠征の準備を進めている最中に、東から知らせが届いた。
ヤムの伝令が、キプチャク草原の俺の本営に駆け込んできた。モンゴル本国からの報告だ。
「金朝への総攻撃が始まりました。大ハン・オゴデイが自ら軍を率いて南下。トルイ殿が別動隊三万を率いて、南宋の領内を通過し、金朝の背後に回り込む作戦です」
地図を広げた。スブタイの地図ではなく、金朝方面の地図だ。
金朝はもう死にかけの国だった。祖父が野狐嶺で三十万を壊滅させ、中都を落として北方を奪い取った。ムカリが何年もかけて残りを削った。今の金朝に残っているのは、河南の一帯と首都の開封だけだ。
だが、追い詰められた獣は牙を剥く。金朝は最後の兵力を開封に集めて、死に物狂いの防衛態勢を敷いている。正面から攻めれば、城壁の前で消耗する。
だからトルイが裏に回った。
南宋——金朝の南にある漢人の王朝——の領内を通過して、金朝の背後に出る。祖父がキジル砂漠を越えてブハラの背後に出たのと同じ発想だ。通れないはずの場所を通って、敵の裏に出現する。
「祖父の戦い方だな」
呟いた。スブタイが横で聞いていた。
「チンギス・ハンの戦い方は、形を変えて受け継がれています。砂漠が山になっただけで、原理は同じです」
続報は断片的に届いた。ヤムの伝令がモンゴル本国を経由して、数週間遅れで俺のもとに着く。
トルイの別動隊三万が、秦嶺山脈を越えた。冬の山脈だ。雪と氷の中を三万の騎兵が馬を引いて越えた。祖父がキジル砂漠を越えた時と同じ——通れないはずの場所を通った。
金朝はトルイの出現に気づいた。慌てて主力を南に向けた。完顔合達率いる金朝軍十五万が、トルイの三万を迎え撃つために南下した。
十五万対三万。五倍の差。
三峯山。この名前の山が戦場になった。
三峯山の戦いの詳細は、後に合流した将校から直接聞いた。
トルイは正面からぶつかる気はなかった。三万で十五万に突入すれば全滅する。代わりに、金朝軍を山の中に誘い込んだ。
退却を装って、三峯山の山間部に入った。金朝軍が追ってきた。山道は狭い。十五万の大軍は一列に伸びて、先頭と後尾の間が何十キロも開いた。
そこに、嵐が来た。
雪嵐だった。一月の秦嶺山脈。気温は指が千切れるほど低く、風は刃物のように肌を切る。モンゴル兵は草原の冬に慣れている。だが金朝の兵の多くは漢人の徴兵で、北方の寒さには慣れていなかった。
トルイは嵐の中で反転した。
凍えて動けなくなった金朝軍の先頭部隊に、三万が一斉に襲いかかった。雪嵐の中での戦闘。視界はほとんどない。だがモンゴル兵は馬の上で戦うことに慣れている。視界がなくても、角笛の音で動ける。十進法の指揮系統が、嵐の中でも機能した。
金朝軍は崩壊した。凍った体で刀を振るえず、馬は雪に足を取られ、指揮系統は嵐で寸断された。
報告によれば、金朝軍十五万のうち、戦死と凍死を合わせて十万以上。残りは散り散りに逃げた。モンゴル側の損害は約三千。
三万で十五万を壊滅させた。
「……化け物だな、トルイは」
俺は報告を聞きながら呟いた。祖父チンギスの息子たちの中で、軍事の才はトルイが断然だったという。この戦果を聞けば、それも納得だ。
スブタイが静かに言った。
「嵐を味方につけた。天候を読んで、敵が凍えるのを待ってから仕掛けた。チンギス・ハンがカラハルジトで砂地を選んだのと同じです。地形と天候を武器にする。あの方の教えが、トルイ殿の中に生きている」
三峯山の後、金朝は急速に崩壊した。
1233年、首都開封が陥落。翌1234年、金朝最後の皇帝が蔡州で自害した。
金朝は滅んだ。
祖父が南に向かって唾を吐いた日から、二十年以上。壁の前で立ち尽くし、投石機を学び、火薬を手に入れ、中都を落とし——そしてついに、あの巨大な帝国が消えた。
俺はその報告を、数千キロ離れたキプチャクの草原で聞いた。
感慨は——あまりなかった。正直に言えば。
金朝は祖父の仇敵であって、俺の仇敵ではない。俺にとっての「壊すべき壁」は、西にある。
金朝滅亡の報告から間もなく、もう一つの知らせが届いた。
こちらの方が、俺にとっては遥かに重かった。
「トルイ殿が——亡くなりました」
トルイ。叔父。祖父の四男。三峯山で十五万を壊滅させた男。
「死因は」
「病、と発表されています」
「病か」
伝令は少し口ごもった。
「……別の話も、あります」
「聞かせろ」
「オゴデイ大ハンが病に倒れた時、シャーマンが『身代わりの命を捧げれば、ハンは回復する』と告げたと。トルイ殿が自ら名乗り出て、毒の入った酒を飲んだ——という話が流れています」
「身代わり?」
「シャーマンの儀式だそうです。だが——別の噂もあります」
「言え」
「オゴデイ大ハンが、トルイ殿の軍事的才能を恐れて——毒を盛った、と」
ゲルの中が静まった。
スブタイが目を閉じていた。この男は表情を変えないが、目を閉じる時は何かを堪えている。
「スブタイ将軍。あなたはトルイ殿を知っていたはずだ。どう思う」
「……俺の意見を聞いてどうなさるのですか」
「聞きたいから聞いている」
スブタイは目を開けた。静かな目だった。
「トルイ殿は、チンギス・ハンの息子の中で最も優れた将でした。三峯山の戦果は、チンギス・ハンの野狐嶺に匹敵する。そういう男は——生かされないことがある」
「優秀だから、殺されたと」
「俺が言ったのではありません。バトゥ殿が判断なさることです」
スブタイは口を閉じた。
俺は黙って天井を見上げた。
父ジョチは「病死」した。今度はトルイが「病死」した。どちらも帝国の中枢に近すぎた男だ。どちらも、誰かにとって邪魔だった男だ。
祖父の遺言。「兄弟を殺し合わせるな」。
守られていない。
祖父が死んで十年も経たないうちに、息子たちの世代で殺し合いが始まっている。
俺はスブタイに聞いた。
「スブタイ将軍。祖父の帝国は——壊れ始めていると思うか」
スブタイは少し黙った。
「帝国は壊れません。壊れるのは人です」
「人?」
「チンギス・ハンが作ったのは、仕組みです。十進法の軍制、ヤムの駅伝制、ヤサの法典。仕組みは人が変わっても動く。だが仕組みを動かす意志——それは人にしかない。意志のある人間が消えれば、仕組みは空回りする」
「トルイは意志のある人間だった」
「はい。そしてあなたの父上も」
父の名前が出た。俺は奥歯を噛んだ。
「だからこそ——バトゥ殿。あなたは西に行くべきです」
「なぜだ」
「帝国の中枢に近ければ近いほど、消される。お父上は西方の領地にいたが、まだ近すぎた。呼び戻せる距離にいた。トルイ殿に至っては、オゴデイ大ハンのすぐ隣にいた。毒を盛るには、手の届く距離にいればいい」
スブタイは淡々と続けた。
「西の果てまで行きなさい。誰の手も届かない場所まで。そこに自分の国を作りなさい。帝国の一部でありながら、帝国の毒が届かない場所を」
スブタイの言葉は冷たかった。だが冷たいからこそ、正確だった。
俺は決意を固めた。
西に行く。手柄を立てるためだけじゃない。生き延びるためだ。帝国の中枢から離れて、誰の毒杯も届かない場所に、自分の足場を作る。父は遠くに行ったが、まだ足りなかった。俺はもっと遠くに行く。
遠征の準備は順調だった。
十五万の兵が集結しつつある。各家の将たちが合流してきた。チャガタイの孫バイダル、トルイの長男モンケ、オゴデイ家のグユク。
グユクが厄介だった。オゴデイの長男で、大ハンの息子だ。態度が尊大で、俺を見下している。父の権威を笠に着ているくせに、自分では何もしていない男。
「バトゥ殿。父上がこの遠征の総大将をあなたに任せたのは、ジョチ家の領地への遠征だからにすぎない。実際の指揮は——」
「実際の指揮は俺が執る。不満があるなら、父上に訴えろ。俺はオゴデイ大ハンの命令でここにいる」
グユクの顔が歪んだ。
面倒な男がいる。だが排除はできない。大ハンの息子だ。下手に扱えば、オゴデイとの関係が壊れる。
「スブタイ将軍。グユクの扱いを——」
「任せてください。戦場に出れば、嫌でも黙ります。黙らなければ——戦場が黙らせます」
スブタイが珍しく口元を歪めた。笑いかどうかはわからない。だが、少しだけ人間味が見えた。
出発の前夜。
ゲルの中で一人、父の遺品を見ていた。
父が残したものは多くない。刀が一振り。弓が一張り。そして——祖母ボルテが父に渡したという、小さな革袋。中には何も入っていない。
母から聞いた話では、この革袋は祖母がメルキトに囚われていた時に持っていたものだという。父ジョチが生まれた時、へその緒を入れた袋。
父の出自。メルキトの子か、チンギスの子か。その答えが入っているはずの袋に、何も入っていない。
へその緒は、もうどこかに消えた。答えも消えた。
残ったのは空の袋だけだ。
俺はその袋を懐に入れた。
答えのない問いを抱えたまま、西に向かう。答えを探しに行くんじゃない。答えがなくても走れることを、証明しに行く。
明日、十五万が動き出す。




