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第三十六話「蒼天に還る」


八月。

ゲルの中に横たわっている。動けない。もう何日も馬に乗っていない。馬乳を少し飲むだけ。体が受け付けない。

咳をするたびに血が混じる。肋骨の痛みはもう感じない。痛みすら感じないほど、体が弱っている。

でも頭は動く。

頭だけが、まだ動いている。

ボオルチュが馬乳を持ってきた。

俺の口元に杯を運ぶ。少しだけ飲んだ。喉を通る感覚が薄い。

「テムジン。もっと飲め」

「……もう入らない」

ボオルチュの手が震えていた。

「おまえ、覚えてるか。バルジュナの泥水」

「覚えてるよ」

「この馬乳は、あれよりましだ」

「ばか言うな。馬乳と泥水を比べる奴がいるか」

ボオルチュが笑った。かすれた笑い方だったが、あの笑い方の名残があった。

ジェルメが鎧の手入れをしていた。

俺の鎧。もう着ることはないだろう。それでもジェルメは磨いている。革を拭き、鉄のさびを落とし、留め具を調べている。

「ジェルメ。もうその鎧、いらないぞ」

「わかってます。でも——やることがないと、落ち着かないんで」

「誰に渡す」

「トルイだ」

「了解」

ジェルメは黙って磨き続けた。この男は最初から最後まで、手を動かしている男だった。

トルイが報告に来た。

「西夏の掃討はほぼ完了しました」

「あとはおまえに任せる。俺の死は——全軍がモンゴルに帰り着くまで秘密にしろ」

「まだ——」

「準備の話だ」

トルイが唇を噛んだ。目が揺れていた。

「泣きたければ泣け。俺が見ていないところで」

トルイは何も言わず、頭を下げて出ていった。

夜になった。

ボオルチュが右に、ジェルメが左にいる。何十年もこの配置だった。

天窓から星が見えた。北の動かない星。

「……父さん」

声に出したのか、心の中で言ったのか、わからなかった。

おまえが教えてくれた弓を、ここまで大きくしたよ。

母のことを考えた。

生きているだろうか。あの人のことだから、まだ死んでいないかもしれない。

使者に託した言葉が、届いているといい。

ボルテのことを考えた。

最後に会いたかった。

でも、会えなくても——おまえが隣にいた時間は、全部覚えている。全部。

目が重くなってきた。

「ボオルチュ」

「ここにいる」

「ジェルメ」

「ここにいます」

二人の声が、少しずつ遠くなっている。水の底に沈んでいくように。

「俺は——楽しかった」

「何が」

「全部」

沈黙。

「ジェルメは——楽しかったか」

「楽しかったかどうかは、わかりません。でも——一度も退屈はしなかった」

ジェルメらしかった。最後まで。

意識が薄れていく。

暗くなっている。ボオルチュとジェルメの気配はまだ感じる。温かい。

暗闇の中に、光が見えた。

丸い光。ゲルの天窓から差し込む光。

この光を、俺は知っている。

生まれた日に、父に高くかかげられた時の光だ。

テンゲリよ。

俺は——やりきったか。

返事はなかった。

でも——風が吹いた。

天窓から、風が入ってきた。温かい風だった。草と土と馬の匂い。

オノン河の匂いがする。

全ての始まりだった場所の匂い。

俺は笑った。最後に笑えた。

右手が開いた。

生まれた時から、ずっと何かを握り続けてきた手が、静かに開いた。

もう何も握る必要がない。

全てを手放して——

蒼天に、還る。

一二二七年八月十八日。

チンギス・ハン、崩御ほうぎょ享年きょうねん六十五。

遺体はオノン河のほとり、ブルカン・カルドゥン山のふもとほうむられたと伝えられている。

生まれた場所に、還った。

そしていつか——彼の孫のクビライが、壊された世界を作り直すことになる。

だがそれは、この先の物語だ。

風が吹いている。

草原が広がっている。

テンゲリの下で生まれ、テンゲリの下で死んだ、一人の男がいた。

その名を、テムジンといった。


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