第三十五話「最後の遠征」
西夏が裏切った。
西征の間、俺はホラズムに兵力を集中するため、西夏に援軍を求めた。西夏はモンゴルの属国だ。求められれば兵を出す義務がある。
西夏は拒んだ。
それだけではない。俺がホラズムで七年間留守にしている間に、西夏は金朝と密かに同盟を結んでいた。モンゴルが西征で消耗している隙に、背後から刺そうとしていた。
「裏切ったか」
ヤムの伝令が持ってきた報告を読んで、俺は静かに言った。
怒りはあった。だが、ブハラの時のような激しい怒りではなかった。もう、裏切りに驚く歳ではない。
「西夏を潰す。今度は属国にするのではなく、潰す」
ボオルチュが横で聞いていた。
「おまえが自分で行くのか」
「行く」
「体は大丈夫なのか」
「大丈夫だ」
嘘だった。大丈夫ではなかった。
その朝も、鎧を着るのにジェルメの手を借りた。以前は一人で着られた鎧が、今は腕が上がりきらずに肩甲の留め具に手が届かない。馬に乗る時も、ボオルチュが踏み台を用意してくれた。鐙に足をかけて跨がるだけの動作が、息が切れるほど重くなっていた。
でも行く。ハンが自ら行かなければ、示しがつかない。裏切った者への報いは、俺自身が届ける。それが俺のやり方だ。最初からそうだった。ソルカン・シラに恩を返した時も、イナルチュクを裁いた時も。恩も罰も、自分の手で。
一二二六年、秋。十万の軍を率いて西夏に向かった。
ボオルチュが右にいた。ジェルメが左にいた。カサルは後方の守備を任せて、モンゴルに残した。チラウンが斥候を走らせている。
最初からいた男たちが、最後もそばにいる。
トルイが本隊を指揮した。実質的な軍の運営はトルイに任せている。俺は全体の方針を決めるだけだ。体がそれ以上を許さなくなっていた。
行軍中、ボオルチュが馬を寄せてきた。
「テムジン」
「何だ」
「覚えてるか。馬泥棒を追いかけた時のこと」
「急にどうした」
「あの時、おまえは三日間飯も食わずに走ってきて、死にそうな顔してた。でも目だけは生きてた。それを見て、俺はついていこうと思った」
「……ああ。覚えてる」
「あの時のおまえと、今のおまえ。どっちが本物だ?」
「どっちも俺だ」
「そうか。なら——まだ大丈夫だな」
ボオルチュは笑った。あの屈託のない笑い方。何十年経っても変わらない。
「ボオルチュ」
「何だ」
「おまえがいてくれて——よかった」
ボオルチュは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「急に何だ。遺言みたいなこと言うな」
「遺言じゃない。ただ——言っておきたかっただけだ」
ボオルチュは黙って前を向いた。
しばらくして、ぼそっと言った。
「俺もだよ」
西夏の国境を越えた。
最初の攻撃はかつてと同じウーラハイ方面から。だが今回は、二十年前とは違う。投石機がある。火薬がある。攻城戦の経験が何十回分もある。
城壁は三日で崩した。
二十年前、初めて壁を見て立ち尽くしたあの日が嘘のようだった。今の俺たちにとって、西夏の日干し煉瓦の壁は紙と同じだ。
都市を一つずつ落としながら南下していった。
西夏の王李晛は降伏を申し出たが、俺は受け入れなかった。前回は降伏を受けて属国にした。その結果が裏切りだ。同じ過ちは繰り返さない。
「降伏は受けない。西夏を滅ぼす」
トルイがうなずいた。
冬が来た。
西夏の首都に向かう途中、狩りに出た。
冬の狩りは体に堪える。だが俺は狩りをやめなかった。馬に乗って弓を引くことは、俺が俺であることの証だ。草原の男は馬と弓で生きる。それを手放したら、俺はただの老人だ。
丘の上から獲物を追った。鹿の群れが谷を駆けていくのが見えた。
馬を蹴った。斜面を駆け下りる。
その瞬間——馬が躓いた。
前脚が穴に嵌った。馬が前のめりに崩れた。
俺は投げ出された。
空が回った。地面が迫った。受け身を取る暇もなく、右の肩と腰を地面に叩きつけられた。
激痛。
息ができなかった。肺から空気が全部抜けて、吸えない。地面に横たわったまま、口を開いて空気を求めた。
「テムジン!」
ジェルメの声が聞こえた。遠くから駆けてくる蹄音。
ジェルメが馬から飛び降りて、俺の横に膝をついた。
「動くな。動くな——」
「息が——」
「肋骨だ。折れてるかもしれない。動くな」
ジェルメの手が俺の胸を探った。右の肋骨のあたりを押すと、鋭い痛みが走った。
「二本、折れてます。肺には刺さっていない。だが——」
「だが?」
ジェルメの顔が暗かった。
「内臓を打っている可能性があります。腹の中で出血していたら——」
「死ぬのか」
「わかりません。でも——動いちゃだめだ。しばらく安静にしないと」
ボオルチュが駆けつけてきた。俺の姿を見て、顔色が変わった。
「おい——テムジン——」
「大丈夫だ。肋骨が折れただけだ」
「だけって——六十四の爺が肋骨を折ったら、だけじゃ済まないだろ」
「うるさい。黙って馬を持ってこい。乗れる」
「乗れるわけないだろ!」
ボオルチュが怒鳴った。珍しいことだった。この男が俺に怒鳴ったのは、初めてかもしれない。
「担架を作れ。馬には乗せるな。揺れたら骨が肺に刺さる」
ボオルチュが兵に指示して、槍と毛皮で簡易の担架を作らせた。俺はその上に横たえられた。
空が見えた。冬の空。蒼い天。
こんなところで死ぬのか、と思った。
草原で落馬して。城壁を壊し、帝国を砕き、世界を揺るがした男が、馬から落ちて。
笑えた。
ゲルに運ばれて、寝かされた。
ジェルメが一晩中そばにいた。カラハルジトの夜と同じだ。あの時は首の矢傷の血を吸い出してくれた。今度は——
「ジェルメ。今回は血を吸い出せるようなものじゃないぞ」
「知ってます。でも、そばにはいられる」
「おまえは——いつもそうだな。首枷の夜からずっと」
「首枷の夜は、ソルカン・シラですよ。俺じゃない」
「その後だ。おまえがそばにいてくれたのは、その後からだ」
ジェルメは黙った。
火が爆ぜる音がした。ゲルの中は温かかった。外の冬の寒さが嘘のように。
「ジェルメ」
「何だ」
「おまえに聞きたいことがある」
「何でも」
「俺は——良いハンだったか」
ジェルメは少し黙った。
「良いかどうかは、俺にはわかりません」
「わからない?」
「俺はあんたしか知らない。他のハンに仕えたことがないから、比較できない。ただ——」
「ただ?」
「あんたについていって、後悔したことは一度もない。それだけは言えます」
俺は天窓を見上げた。星が見えた。
「……ありがとう」
六回目だ。この言葉を口にするのは。ソルカン・シラに一回。ボオルチュに一回。ジュルチェデイに一回。そしてジェルメに、これで三回。
少なすぎる。もっと多くの人間に言うべきだった。
翌日から熱が出た。
肋骨の痛みに加えて、体全体が重くなっていった。咳が出る。咳のたびに肋骨が軋んで、激痛が走る。
だが俺は、遠征を止めなかった。
「続行する。西夏を滅ぼすまで止まらない」
トルイが諫めた。
「父上。お体が——」
「体のことは俺が一番わかっている。まだ動ける。指揮はできる。担架の上からでも命令は出せる」
「しかし——」
「トルイ。俺が倒れたことを、西夏に知られるな。知られたら、敵の士気が上がる。俺が健在だと思わせろ。俺の旗を常に前線に立てろ。俺の鎧を着た替え玉を馬に乗せろ」
トルイはうなずいた。
「了解しました。父上の旗は、常に最前線に」
俺は担架の上で戦を指揮した。
チラウンの伝令が戦況を運んでくる。トルイが前線で采配を振るう。ジェルメが投石機と火薬兵器の運用を管理する。俺は全体の方針を決めて、命令を出す。
それだけだ。それだけが、まだ俺にできることだった。
弓は引けない。馬にも乗れない。でも——頭はまだ動く。
春が来ても、体は回復しなかった。
むしろ悪くなっていた。熱が引かない。食べ物を受け付けない。馬乳を少し飲むのがやっとだ。
体重が落ちた。鎧はもう着られない。服が体に合わなくなっている。
ボオルチュが毎日来た。何も言わずにそばに座って、火の番をしてくれた。時々、昔の話をした。
「覚えてるか。ゼロと一の話」
「ゼロと一の差は、一と百の差より大きい——か」
「あの時、おまえは一人だった。俺が二人目で。それが今、何万になった。すごい話だよな」
「おまえが最初にいてくれたからだ」
「馬泥棒を追いかけただけだけどな」
二人で笑った。笑うと肋骨が痛んだ。でも笑った。
ある夜、俺は遺言を口述した。
ウイグル文字の書記官を呼んで、口で言ったことを書き取らせた。
「俺の死後、オゴデイが全モンゴルのハンとなる。これは変更しない」
「チャガタイには中央アジアの領地を。トルイにはモンゴル本国と軍の大部分を。ジョチの子孫には西方のキプチャク草原を」
「ヤサは維持しろ。血筋ではなく行動で評価する原理を、捨てるな。ヤムの駅伝制を壊すな。通商路を守れ。使節を殺すな」
「恩ある者への報いを忘れるな。ソルカン・シラの一族を永代の自由民とする。バダイとキシリクの子孫を守れ。バルジュナ湖で泥水を飲んだ者の子孫を、特別に扱え」
書記官が筆を走らせている。
「最後に——」
俺は目を閉じた。
「母上に伝えろ。『俺は最後まで、折れなかった』と」
書記官が筆を止めた。
「それだけですか」
「それだけだ。母にはそれで通じる」
ホエルンはまだ生きているだろうか。
出征する前に会ったのが最後だ。あの時すでに歩けなくなっていた。
母のことを考えると、不思議な気持ちになる。
追放された日。七人の子供を抱えて、草原で泥と草を食って生き延びた女。「私が死なせない」と言い切った女。弓の原理で俺を諭し、膠が乾くまで待てと繰り返した女。
俺の全ては、この女から始まっている。
父が弓と馬を教えてくれた。でも「折れない」ということを教えてくれたのは、母だ。
折れなかった。最後まで。
父が毒で殺された時も。追放された時も。首枷をはめられた時も。ベクテルを殺した時も。ボルテを奪われた時も。十三翼で負けた時も。バルジュナの泥水を飲んだ時も。
一度も折れなかった。
それは母がくれたものだ。
西夏の首都が陥落する報告を聞いたのは、六月だった。
トルイが前線で指揮を執り、投石機と震天雷で城壁を崩し、騎兵が突入して制圧した。西夏の王は降伏を申し出た。
「今度は受けるか」
トルイが聞いた。
「受けろ。ただし王は処刑する。裏切りの代償だ」
それが西夏への最後の命令になった。
西夏は滅んだ。二十年前に初めて壁の前で立ち尽くした国が、二十年かけて滅んだ。
報告を聞いた後、俺は少しだけ笑った。
壁を壊す方法を知らなかった男が、壁を壊す技術を学び、壁を壊す人間を集め、最後には壁そのものを不要にした。
もう壁は要らない。モンゴルの支配する世界に、壁は要らない。全てが繋がっている。ヤムが走り、商人が行き交い、技術が流れる。壁で区切られた世界ではなく、草原のように開かれた世界。
それが俺の——
咳が出た。血が混じっていた。
ジェルメが飛んできた。
「テムジン——」
「大丈夫だ」
嘘だった。大丈夫ではなかった。もう、嘘をつく体力すら残っていなかった。
「大丈夫じゃ……ないかもしれない」
初めて、認めた。
ジェルメの目が揺れた。この男の目が揺れるのを見るのは、カラハルジトの夜以来だ。
「ボオルチュを呼べ」
ジェルメが外に出た。すぐにボオルチュが入ってきた。
二人が俺の両側に座った。
右にボオルチュ。左にジェルメ。
最初から最後まで、この二人だった。
「おまえたちに——」
「喋るな。体力を使うな」
ボオルチュが遮った。
「いや。聞け。最後だから」
「最後じゃない。おまえは——」
「ボオルチュ。頼む。聞いてくれ」
ボオルチュが黙った。目が赤かった。
「おまえたちに——ありがとう。一番最初に、言うべきだった。もっと早く、もっと何度も」
ボオルチュが唇を噛んだ。
ジェルメが黙って俺の手を握った。
「トルイに伝えろ。西夏が片づいたら、全軍をモンゴルに帰せ。俺の死は——帰るまで秘密にしろ。敵に知られたら、隙を突かれる」
「死ぬ前提で喋るな」
ボオルチュが震える声で言った。
「事実を言ってるだけだ。おまえは昔から——事実を言う男が好きだったろう」
ボオルチュは答えなかった。涙がこぼれていた。この男が泣くのを、初めて見た。
夜になった。
ゲルの中は静かだった。火が小さく燃えている。ボオルチュとジェルメが、まだ両側にいた。
天窓から星が見えた。北の動かない星。父が教えてくれた星。
「……ボオルチュ」
「何だ」
「おまえ、覚えてるか。最初に会った日。おまえが馬乳を搾ってた」
「覚えてるよ。死にそうな顔した奴が来たなって思った」
「俺の目を見て、ついてきたって言ったな」
「ああ。本気の目だったから」
「あの目は——まだあるか。俺に」
ボオルチュが俺の目を覗き込んだ。長い間、見ていた。
「……ある。まだある。変わってない」
「そうか。なら——まだ大丈夫だ」
俺は目を閉じた。
まだ死なない。今夜は死なない。
でも——もうすぐだ。体が知っている。
蒼い天の下で生まれた。蒼い天の下で死ぬ。
それでいい。




