第三十四話「帰還」
草原の匂いがした。
七年ぶりだった。
馬の背から見渡す景色が変わった。砂漠の黄色が消え、ペルシアの岩山が遠ざかり、中央アジアの乾いた草地を越えて——モンゴルの草原が広がった。
緑だ。どこまでも続く緑。風がなびかせる草の波。その向こうに、青い空。
俺が生まれた場所の匂い。馬の糞と草と土と風が混じった、あの匂い。
サマルカンドの石畳にも、ブハラのモスクにも、インダス河の泥にも、この匂いはなかった。
帰ってきた。
本営に着くと、ゲルの前にボルテが立っていた。
七年ぶりのボルテ。
老いていた。髪に白いものが増えて、顔の皺が深くなっている。背は少し縮んだように見えた。でも立ち方は変わらない。背筋がまっすぐで、足元が揺るがない。九つの俺に「思ったより小さいね」と言った、あの日と同じ立ち方だ。
俺も老いたのだろう。六十一歳。ボルテの目に映る俺は、どう見えているのか。
ボルテが俺の顔を見て、少し笑った。
「老けたね」
「おまえもな」
「ひどいこと言うね」
「おまえが先に言ったんだろ」
二人で笑った。
それだけでよかった。七年分の言葉があるはずだったが、今はこれだけでよかった。笑い合えること。同じ空気を吸っていること。それだけで。
ボルテが俺の手を取った。指が細くなっていた。あの頃はもっとしっかりした手だった。
「怪我は?」
「ない。今回は矢も受けなかった」
「嘘でしょ。痩せたし、顔色も悪い」
「歳だ。怪我じゃない」
ボルテはため息をついた。
「歳のせいにするのが一番怖いよ。怪我は治るけど、歳は治らないから」
母のゲルを訪ねた。
ホエルンは寝ていた。
起こさないでくれ、とテムルンが言った。妹ももう五十を過ぎて、長年母の世話をしている。
「母さん、体は?」
「悪いよ。もう歩けない日が多い。でも頭はしっかりしてる。兄さんが帰ってきたら喜ぶよ」
俺は母の寝顔を見た。
小さかった。あの追放の日に、七人の子供を背負って草原を歩き回っていた女が、毛皮の下でこんなに小さくなっている。
「母さん。帰ったよ」
小さな声で言った。
母の目が薄く開いた。俺を見た。
「……テムジン」
「ああ。帰った」
「おかえり」
母の手が伸びた。俺の手を握った。骨と皮だけの手だった。でも握る力は、まだあった。
「西の国は……どうだった」
「壊した。全部壊してきた」
「そう。……おまえの父さんが聞いたら、目を丸くするだろうね」
母は少し笑って、また目を閉じた。
俺はしばらく、母の手を握ったまま座っていた。
数日後、トルイの家族を訪ねた。
末の息子トルイは西征で最も活躍した将だ。ブハラの突入、サマルカンドの市街戦、インダス河畔の正面戦闘。俺の四人の息子の中で、軍事的才能はトルイが一番だ。
トルイの妻ソルコクタニは聡明な女で、子供たちの教育に力を入れていた。息子が四人いる。モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケ。
その中に、一人だけ目が違う子がいた。
クビライ。十歳。
他の孫たちが走り回って遊んでいる中で、クビライだけが座って何かを見つめていた。地面に棒で線を引いている。
「何を描いてる」
俺が声をかけると、クビライは顔を上げた。丸い顔に大きな目。まだ子供の顔だが、目の奥に何かがある。
「地図です」
「地図?」
「スブタイ将軍が帰ってきた時に話を聞きました。西の国の話。グルジアとか、ルーシとか。どこにあるのか知りたくて、自分で描いてみました」
地面に描かれた線を見た。東にモンゴル。西にペルシア。その向こうにコーカサスとルーシ。スブタイの報告を聞いて、十歳の子供が自分なりの世界地図を描いている。
不正確だ。距離も方角もでたらめだ。だが——十歳の子供が、世界の全体像を把握しようとしている。
「狩りに行くか」
唐突に誘った。
クビライは少し驚いた顔をしたが、すぐにうなずいた。
二人で馬に乗って草原に出た。
クビライの馬術は悪くなかった。十歳にしては安定している。だが、俺や父が乗っていた頃の野性的な乗り方とは違う。ソルコクタニの教育だろう。行儀がいい。
兎を追った。
草の中から兎が飛び出した。俺は弓を引かなかった。クビライに譲った。
クビライが弓を引いて、射った。
矢は兎の手前に落ちた。外れだ。兎は逃げた。
「惜しかったな」
「すみません」
「謝るな。もう一回来る。待て」
しばらく馬を進めると、また兎が出た。今度はクビライに時間があった。慎重に狙って、射った。
矢が兎に当たった。兎が転がった。
クビライは馬を降りて、仕留めた兎を拾い上げた。
だが、すぐには持ち上げなかった。兎を見つめていた。
「どうした」
「……この兎、巣穴から出てきたところでした。あっちに巣穴があります。中に子供がいるかもしれない」
俺は少し驚いた。
獲物を仕留めた後に、その獲物の巣を心配する子供。九歳の俺なら、もう次の獲物を探していただろう。カサルなら矢の軌道を反省していただろう。
だがこの子は、獲物の「向こう側」を見ている。
「巣穴を見てこい」
クビライが走っていった。しばらくして戻ってきた。
「子兎が三匹いました。まだ小さくて、自分では食べ物を取れない」
「どうする。連れて帰るか」
クビライは少し考えた。
「いえ。このまま置いておきます。母兎がいなくなっても、巣穴に匂いが残っていれば、他の兎が面倒を見ることがあると、ソルコクタニ母上から聞きました」
「ほう」
「でも——次からは、巣穴の近くにいる親兎は撃たないようにします。子供がいるかもしれないから」
俺はこの子を見つめた。
十歳だ。たった十歳で、獲物を仕留める喜びよりも、残される者のことを考えている。
俺が十歳の時は何をしていた。ベクテルを殺した年だ。生き延びるために兄を射殺した。獲物の向こう側なんて考える余裕はなかった。
だが、この子は違う。この子は飢えていない。追放されていない。母親が教育し、父親が守り、祖父が帝国を築いた。安全な場所で育って、だから——獲物の向こう側を見る余裕がある。
それは弱さじゃない。
俺にはなかったものだ。
「クビライ」
「はい」
「おまえは、いい目をしているな」
デイ・セチェンが俺に言った言葉と同じだった。ボルテが俺に言った言葉と同じだった。
だが、この子の目は俺の目とは違う。俺の目には火があると言われた。この子の目にあるのは、火ではない。
水だ。静かで深い水。全てを映して、全てを受け入れる目。
「おまえは、大きくなったら何がしたい」
「国を治めたいです」
迷いなく答えた。
「戦ではなく?」
「戦も必要なら。でも——壊した後に何を作るかの方が、大事だと思います」
十歳の子供が言う言葉じゃなかった。ソルコクタニの教えか。だが教えだけでは、こうはならない。この子自身の中に、何かがある。
俺が壊してきたものを、この子は作り直すのかもしれない。
「クビライ。今日の兎のことを覚えておけ。獲物の向こうを見る目は——国を治める者に必要な目だ」
クビライは深くうなずいた。
帰り道、俺は隣を走るこの小さな孫を、何度か横目で見た。
不思議な気分だった。俺の人生は、壊して壊して壊し続けた人生だ。城壁を壊し、国を壊し、人を壊してきた。
でもこの子は——何かを作る人間になるかもしれない。
その可能性が、少しだけ救いに感じた。
穏やかな日々は長くは続かなかった。
ジョチの問題が、ついに破裂した。
西征からの帰還後、ジョチはモンゴルに戻ってこなかった。西方の自分の領地——キプチャク草原に留まったまま、父の召集に応じない。
使者を送った。「帰ってこい。話がある」。
ジョチからの返事は曖昧だった。「体調が優れない。もう少し待ってほしい」。
チラウンの斥候が別の情報を持ってきた。
「ジョチ殿は——独立した勢力を築いています。キプチャク草原の遊牧民を配下に収め、独自の千人隊を編成しています。モンゴル本国とは距離を置いているように見えます」
「独立か」
「そこまでは——まだ。だが、チャガタイ殿がハンに進言しています。『ジョチは裏切る気だ。先に手を打つべきだ』と」
チャガタイ。あの男は弟の頃からジョチを攻撃し続けている。出自を嘲り、手柄を認めず、排除しようとしてきた。
「チャガタイの進言は却下する。ジョチに対して軍を送る理由はない」
「しかし、召集に応じないのは——」
「体調が悪いと言っている。それを信じる」
信じていたわけじゃない。ジョチが距離を置いている理由は、体調だけではないだろう。チャガタイとの対立、出自の噂、そして——俺に対する複雑な感情。
ジョチは俺の子だ。俺はそう宣言し、そう扱ってきた。だがジョチ自身が、それを信じているかどうかはわからない。
自分が父の子であることを疑いながら生きるのは、どんな苦しみなのか。俺にはわからない。俺は父の子であることを疑ったことがない。
「ジョチにもう一度使者を送れ。今度は贈り物をつけろ。馬と毛皮を。父として、息子の健康を案じていると伝えろ」
使者が帰ってきたのは、一ヶ月後だった。
使者の顔を見て、悪い知らせだとわかった。
「ジョチ殿が——亡くなりました」
ゲルの中が静まり返った。
「いつ」
「我々が到着する十日前だと。病で——急に倒れて、そのまま」
病。
嘘かもしれない。暗殺かもしれない。チャガタイの手の者が——いや、証拠はない。証拠はないが、疑いは消えない。
だが今は、それを追及する気力がなかった。
ジョチが死んだ。
俺の長男が。
ボルテの最初の子が。
メルキトに奪われたボルテの腹にいた、あの子が。
ボルテに伝えた。
ボルテは黙って聞いていた。顔から表情が消えた。あの日と同じだ。セングムに「身の程を知れ」と言われた時と同じ、表情のない顔。
「……そう」
一言だけ言った。
そしてゲルの奥に入っていった。
しばらくして、声が聞こえた。押し殺した泣き声だった。ボルテが声を殺して泣いている。この女が声を出して泣いたのは、メルキトから戻ってきた夜に一度だけだった。今は声を殺している。だが泣いている。
俺はゲルの入口に立ったまま、動けなかった。
何を言えばいい。「俺の子だ」と言い続けてきた。でもジョチは死んだ。出自の疑いを晴らせないまま、遠い草原で一人で死んだ。
ボルテの泣き声が止んだ。
しばらくして、ボルテが出てきた。目が赤かったが、もう泣いてはいなかった。
「あの子は——おまえの名を背負って、最後まで生きたよ」
ボルテが言った。
「ああ」
「出自のことで、一度もおまえに文句を言わなかったでしょう」
「言わなかった」
「あの子なりの誇りだったんだよ。父の子であることを、自分で証明しようとして——戦場で手柄を立てて、西方を治めて。全部、おまえの息子だって証明するためにやってたの」
「……わかってた。わかってて——何もしてやれなかった」
「何もしないのが、おまえにできる一番のことだったよ。疑わなかった。一度も。それがジョチには一番の支えだったはず」
ボルテの声は静かだった。
「でもね、テムジン」
「何だ」
「次はもう——誰も失いたくない。チャガタイも、オゴデイも、トルイも。残った息子たちを、殺し合わせないで」
俺はうなずいた。
後継者を決めなければならない。ジョチが死に、チャガタイは激しすぎ、トルイは軍人だ。
オゴデイ。三男。温厚で、人望があり、兄弟の間を取り持てる男。
「オゴデイを後継者にする」
ボルテはうなずいた。
「良い選択だと思う。あの子は——壊さない子だから」
壊さない子。
俺が壊し続けた世界を、オゴデイが維持する。クビライがいつか作り直す。
そういう流れが、見え始めていた。
夜、一人でゲルの外に出た。
空を見上げた。
蒼い天はもう暗くなっていて、星が見えた。北の動かない星。父が教えてくれた星。
ジョチ。
おまえは今、どこにいる。テンゲリの向こうか。父の隣か。
おまえは俺の子だ。それだけは——死んでも変わらない。
風が吹いた。西から吹く風。ジョチが死んだ草原の方角から吹いてくる風。
冷たかった。
後継者の決定を全軍に布告した。
「俺の後を継ぐのは、三男オゴデイとする。オゴデイの言葉は、俺の言葉と同じと思え」
チャガタイは黙って受け入れた。ジョチがいなくなった今、長男の地位は自分のものだと思っていただろう。だがその自分が指名されなかった。不満はあるはずだが、口には出さなかった。
トルイも受け入れた。末の息子は最初から後継者争いに興味がなかった。戦場で戦うことだけがこの男の望みだ。
オゴデイ自身は、困惑した顔をしていた。
「なぜ俺なんですか。兄上たちの方が——」
「おまえは壊さない」
「壊さない?」
「チャガタイは激しすぎる。敵を作る。トルイは強すぎる。戦しか見えない。おまえは——人の話を聞ける。怒りを飲み込める。帝国を維持するには、壊す力より保つ力がいる」
オゴデイは黙った。
「それから、兄弟を殺し合わせるな。チャガタイにはチャガタイの領地を。トルイにはトルイの役割を。全員が生きていけるようにしろ。それが俺の——最後の命令だ」
最後の命令という言葉が、口をついて出た。
自分で驚いた。まだ死ぬつもりはない。やることはまだある。西夏が裏切りの動きを見せている。金朝もまだ完全には滅んでいない。
だが——「最後の」という言葉が、自然に出た。
体が知っている。頭がまだ認めなくても、体が知っている。
終わりが、近づいていることを。




