第三十三話「ジャラールッディーン」
初めて負けたという報告が届いたのは、サマルカンドの南方を掃討している最中だった。
チラウンの伝令が、蒼白な顔で駆け込んできた。
「パルワーンで、我が軍の先遣隊が敗れました」
「先遣隊? 誰の部隊だ」
「シギ・クトクの三万です。ジャラールッディーンの軍に——正面から打ち破られました」
シギ・クトクは有能な将だ。テムジンの義兄弟の一人で、戦場での判断力に定評がある。その男が率いる三万が、正面から負けた。
「ジャラールッディーンの兵力は」
「推定六万。アフガニスタンの山岳地帯で兵を集めたようです。ホラズムの残党と、現地の部族兵が合流しています」
「六万対三万か。数で負けてたのか」
「数だけではありません。シギ・クトクの報告では——ジャラールッディーン自身が先頭で突撃してきたと。あの男は、父親とは違います」
父親とは違う。
ムハンマド・シャーは逃げた。ブハラから逃げ、サマルカンドから逃げ、カスピ海の島で病死した。
だが息子のジャラールッディーンは逃げなかった。父が捨てた帝国の残骸を拾い上げ、山岳地帯で兵を集め、モンゴルの先遣隊を正面から叩き潰した。
「パルワーンでの損害は」
「戦死約八千。残りは撤退しましたが、隊列は乱れています」
八千。西征で最大の単独戦闘損害だ。
俺は自ら軍を率いて南へ向かった。
本隊五万と、周辺から集めた兵を合わせて七万。ジャラールッディーンの六万を確実に叩ける兵力を用意した。
南下する間、チラウンの斥候がジャラールッディーンの情報を送ってきた。
「二十八歳。ムハンマドの長男。幼い頃から武芸に秀で、父の将軍たちより強いと言われていました。父に何度も進言したが聞き入れられず、モンゴル軍に対する集中防御を主張していたが、ムハンマドが分散配置に固執したため実現しなかった」
「つまり——あの男の策が採用されていたら、我々はもっと苦戦していたということか」
「その可能性はあります。ジャラールッディーンの主張は、シルダリヤ河での分散防御をやめて、全軍をサマルカンドに集めて決戦するというものでした。四十万が一箇所に集まっていたら——」
「野狐嶺の逆だな。敵が分散していたから勝てた。集中されていたら——厳しかったかもしれない」
初めてだった。ホラズム側に、まともな戦略的思考を持つ人間がいた。ムハンマドは臆病で判断を誤り続けた。だがジャラールッディーンは違う。正しいことを見抜いていた。ただ、父に聞き入れてもらえなかっただけだ。
「面白い男だな」
ボオルチュが横で言った。
「面白がってる場合じゃない。パルワーンで三万を破った男だぞ」
「だから面白いんだろう。おまえに正面から挑んで勝てる奴がいるってことだ。久しぶりじゃないか、そういう敵は」
確かに——久しぶりだった。ジャムカ以来かもしれない。対等だと感じる敵は。
インダス河に追い詰めた。
ジャラールッディーンはパルワーンの勝利の後、さらに兵を集めようとしたが、部族間の対立で連合が瓦解し始めていた。勝利を得ても、寄せ集めの軍は長くはもたない。
俺の七万が迫ると、ジャラールッディーンは南に退いた。追い詰められてインダス河の河岸に布陣した。背後は大河。退路はない。
兵力を記す。
テムジン軍、七万。ムカリを除く全戦力を集中した。中央にトルイの精鋭二万。左翼にカサルの弓隊一万五千。右翼にボオルチュの快速騎兵一万五千。予備にジェルメの護衛隊と直属一万。
ジャラールッディーン軍、推定三万。パルワーンの六万から減っている。部族兵の離脱が相次いだためだ。だが残った三万は精鋭だ。逃げ場がないことを知っている。背水の陣。覚悟を決めた男たちだ。
戦闘は朝から始まった。
ジャラールッディーンは守りに入らなかった。
三万で七万に向かって、正面から突撃してきた。
先頭にジャラールッディーン自身がいた。
金の兜を被り、白い馬に乗り、刀を振り上げて突進してくる。その後ろを三万の騎兵が雪崩のように追う。
「あの男——先頭にいるぞ」
トルイが驚いた声を出した。
総大将が先頭で突撃する。俺がカラハルジトでやって、首に矢を受けた愚行だ。だがジャラールッディーンは愚行ではなく、意図してやっている。
背水の陣で三万。逃げ場はない。唯一の勝機は、全軍の士気を極限まで高めて、敵陣を突破すること。そのためには、王自身が先頭に立つしかない。
兵は王を見ている。王が先頭にいれば、逃げる者はいない。王が死ぬまで、全員が戦い続ける。
「迎え撃て!」
トルイの精鋭二万が、ジャラールッディーンの突撃を正面で受けた。
衝突。重い音が戦場に響いた。
ジャラールッディーンの騎兵は猛烈だった。死を覚悟した人間の突撃には、通常の二倍の力がある。押された。トルイの精鋭二万が、三万の突撃に押し戻された。
「左翼、射撃開始!」
カサルの弓隊が矢を浴びせた。だがジャラールッディーンの騎兵はモンゴル式の鎧を研究していた。盾を上げて矢を防ぎながら突進してくる。矢の効果が薄い。
右翼のボオルチュが側面から突入した。ジャラールッディーンの左翼を抉る。だが、ジャラールッディーンの兵は崩れなかった。側面を攻められながらも、正面への突撃を止めない。
「しつこい——」
ボオルチュが呻いた。
この男たちは、死ぬつもりで突っ込んでくる。怯えがない。退却がない。マングダイも心理戦も、死を恐れない相手には効かない。
戦闘は午前中いっぱい続いた。
俺は後方の丘から指揮を執っていた。鷹の目で戦場全体を見ている。
ジャラールッディーンの三万は消耗していた。朝から全力で突撃し続けて、馬も人も疲れている。だが士気は折れていない。王が先頭にいる限り、折れない。
こちらも損害が増えていた。トルイの精鋭は千以上が倒れている。カサルの弓隊も、接近戦に引き込まれて被害が出ている。
「予備を投入する」
ジェルメの一万を前線に送った。新鮮な兵力が戦線を押し戻す。
同時に、ボオルチュに命じた。
「河岸を回り込め。ジャラールッディーンの背後を完全に塞げ。逃がすな」
ボオルチュの快速騎兵がインダス河の上流側に回り込み、ジャラールッディーンの退路を断った。
包囲完成。三万が七万に囲まれた。前は刀と槍。後ろは大河。左右はモンゴル騎兵。
これで終わりだ——そう思った。
ジャラールッディーンが、信じがたいことをした。
包囲が完成した瞬間、ジャラールッディーンは馬首を返して河に向かった。
ボオルチュの騎兵が塞いでいる方向ではない。河そのものに向かった。
インダス河。幅百歩以上。流れが速い。鎧を着たまま渡れる河ではない。
ジャラールッディーンは鎧を脱ぎ捨てた。走りながら兜を投げ、胸甲を外し、腕の防具を引きちぎった。身軽になった体で馬を河に向けて蹴った。
馬がインダス河に飛び込んだ。
水しぶきが上がった。濁った激流の中に、白い馬と一人の男が消えた。
「——追え!」
叫んだ。だが、叫んだ直後に手を上げた。
「待て。追うな」
ボオルチュが振り返った。
「追わないのか?」
俺はインダス河を見ていた。
激流の中を、ジャラールッディーンの白い馬が泳いでいた。流されながらも、必死に対岸に向かっている。ジャラールッディーンは馬のたてがみにしがみついて、水の中でもがいていた。
対岸にたどり着くかどうかはわからない。溺れるかもしれない。
だが——あの男は跳んだ。包囲されて絶体絶命の状況で、鎧を捨てて河に飛び込んだ。逃げたのではない。生き延びるために、唯一残った道を選んだのだ。
「追うな。あの男を殺すな」
「なぜだ」
俺はインダス河の向こうを見つめたまま、言った。
「息子というものは、ああであるべきだ」
ジャラールッディーンは対岸にたどり着いた。
白い馬が泥の岸辺に這い上がり、ジャラールッディーンが馬から落ちて大の字に倒れた。そのまましばらく動かなかった。やがて立ち上がり、こちらを振り返った。
距離があって顔は見えない。だが、こちらを見ていることはわかった。
俺もあの男を見ていた。
対岸に立つ、裸に近い姿の男。帝国を失い、軍を失い、鎧すら捨てて、それでも立っている。
父ムハンマドは島で病死した。だがこの息子は——こいつだけは、最後まで折れなかった。
「あの男を殺すな」と俺は繰り返した。
だが理由は、「息子というものは、ああであるべきだ」だけではなかった。
ジョチのことを考えていた。
俺の長男。出自を疑われ、弟に嘲られ、それでも黙々と戦場で手柄を立て続けている男。
ジャラールッディーンは、滅びゆく帝国の息子だ。父が逃げた後の廃墟で、それでも戦い続けた。
ジョチもまた、何かと戦い続けている。出自という、自分では変えられないものと。
息子というものは——父の名を背負って、自分の道を走るしかない。たとえその道が、どれほど険しくても。
インダス河畔の戦果を記す。
テムジン軍。出撃七万。戦死三千二百。負傷五千。主な損害はトルイの精鋭とカサルの弓隊に集中。
ジャラールッディーン軍。出撃三万。戦死一万二千。捕虜一万五千。残りは河に飛び込んで逃亡。ジャラールッディーン本人は対岸に渡って脱出。
ジャラールッディーンはその後、インドに逃れた。数年後に再びペルシアに戻って抵抗を続けたが、最終的には追い詰められて死んだ。俺が直接手を下すことはなかった。
この男のことは、忘れなかった。
モンゴルが踏み潰した全ての敵の中で、唯一、俺が敬意を持った男だ。
インダス河を最後に、西征の主要な戦闘は終わった。
ホラズム帝国は滅んだ。ムハンマドは病死し、ジャラールッディーンは逃亡し、残存勢力は掃討された。中央アジアからペルシアまで、モンゴルの支配下に入った。
西征の総戦果を記す。
モンゴル軍の総兵力二十万(西征開始時)。総損害は戦死約二万、負傷数万。残存兵力約十八万。
ホラズム帝国。兵力四十万が完全に壊滅。主要都市——オトラル、ブハラ、サマルカンド、ウルゲンチ——全て陥落。皇帝ムハンマド病死。後継者ジャラールッディーン逃亡。
鹵獲。膨大な財宝、技術者数千人、マンジャニーク投石機の技術、天文学と数学と医学の知識、シルクロード全域の支配権。
七年間の遠征だった。
帰る時が来た。
草原に帰る。
七年ぶりの草原。ボルテが待っている。母が待っている。
そして——俺の体が、限界を告げ始めていた。
六十一歳。馬の上で一日を過ごすと、翌朝起き上がるのに時間がかかるようになった。首のカラハルジトの傷跡が、冬になると痺れる。目も少し霞む。
帰ろう。
まだやることはある。金朝はまだ完全に滅んでいない。西夏が裏切りの動きを見せている。だが今は——帰る。
家に帰って、ボルテの顔を見て、母の声を聞いて、孫たちと火を囲む。
それだけのことが、今は一番遠い場所にある気がした。




