第三十二話「二万キロの追撃」
ジェベとスブタイの消息が途絶えたのは、サマルカンド陥落から二ヶ月後のことだった。
最後のヤムの伝令は、ペルシアの都市レイを通過したという報告だった。二万の騎兵がムハンマドを追って西へ走っている。それきり、音沙汰がなくなった。
ヤムの中継点は、モンゴル本国からサマルカンドまでは繋がっている。だがそこから先の西方には、まだ設置されていない。ジェベとスブタイは、ヤムの届かない世界に入ったのだ。
「報告が来ません」
チラウンが顔を曇らせた。
「ヤムの外だ。仕方ない」
「二万の兵が——どこにいるかわからないのですが」
「ジェベとスブタイを信じろ。あの二人を選んだのは、ヤムがなくても自分で判断できる人間だからだ」
そう言ったが、内心では不安がないわけじゃなかった。
二万の兵を、通信も補給線もない未知の土地に放り込んだ。帰ってこない可能性もある。砂漠で干上がるか、敵に囲まれて全滅するか。
でも——ジェベとスブタイなら、やれる。
ジェベは古参の将で、単独行動に慣れている。スブタイは若いが、あの鷹の目を持っている。全体を見て、自分で判断できる男だ。
二人に言った言葉を思い出す。「自由に動け。ただしムハンマドを追え。どこまでも」。
あの二人は今、その言葉通りに動いているはずだ。世界の果てまで。
断片的な情報は、商人を通じて入ってきた。
サマルカンドに出入りするムスリム商人たちが、西方の噂を持ってくる。不正確で遅れた情報だが、何もないよりはましだった。
最初の噂。「モンゴルの騎兵がペルシアの都市を次々と通過している。恐ろしい速さで西に向かっている」。
次の噂。「ムハンマド・シャーがカスピ海の方角に逃げた。モンゴルの騎兵がそれを追っている」。
三ヶ月後の噂。「ムハンマド・シャーが死んだ。カスピ海の島で。病死だという」。
病死。
モンゴル軍の刃が届く前に、恐怖と逃亡の果てに体が壊れて死んだ。
四十万の兵を持ち、世界最大の帝国の一つを支配していた男が、名もない島で病に倒れて死んだ。トグリルと同じだ。名前を信じてもらえずに死んだケレイトのハンと、島で独り病死したホラズムのシャー。
権力を失った王の末路は、どこでも同じだ。
「ムハンマドは死んだ。ジェベとスブタイは、その後どうしてる」
「わかりません。最後に聞いた話では、カスピ海の南岸をさらに西に向かったという噂がありますが——」
さらに西。ペルシアの向こう。コーカサスの山脈。その先にあるのは——俺の知らない世界だ。
地図を広げた。ウイグルの書記官とサマルカンドの地理学者が共同で作った地図。東にモンゴル、中央に中央アジア、西にペルシア。ペルシアの西はコーカサスの山脈で、その向こうにはロシアという大きな草原があるらしい。
二万の騎兵が、その地図の端に向かって走っている。
俺の手から離れた矢だ。放った矢は、もう手元には戻せない。着弾するまで、待つしかない。
ジェベとスブタイの消息が途絶えたまま、一年が過ぎた。
その間、俺はホラズム帝国の残存勢力を掃討していた。都市を一つずつ攻略し、支配を固めていく。
二年目にも、まだ戻ってこなかった。
さすがに将たちの間に動揺が広がり始めた。
「二万の兵は全滅したのではないか」
「ジェベもスブタイも死んだのではないか」
ボオルチュが俺のところに来て、率直に聞いた。
「テムジン。あの二人、本当に帰ってくるのか」
「帰ってくる」
「根拠は」
「ない。だが——スブタイの目を覚えているか」
「目?」
「あの男の目は、ジャムカに似ていた。全体を見て、自分の位置を正確に知る目だ。自分がどこにいるか知っている人間は、帰り道も知っている」
ボオルチュは半信半疑の顔だったが、それ以上は聞かなかった。
三年目の春、一騎の伝令が東から駆け込んできた。
モンゴル本国を経由して来た伝令だ。ヤムの中継点を乗り継いで、本国から二週間で到着した。
「ジェベ・スブタイ軍、モンゴル本国東方に帰還。兵力約一万八千」
俺は目を閉じた。
帰ってきた。
二万のうち一万八千が。二千を失ったが——一万八千が帰ってきた。
「スブタイは?」
「無事です。ジェベ将軍は——帰路で病死されました」
ジェベが死んだ。
古参の将だ。メルキト戦から共に戦ってきた男。足が速くて判断が的確で、どんな状況でも生き延びる男だと思っていた。
だが、人間には寿命がある。二万キロの遠征は、鉄の男でも削り取る。
「ジェベを丁重に葬れ。英雄としての葬儀をしろ」
「了解しました。それから——スブタイ将軍が詳細な報告を持って、こちらに向かっています。合流まで約一ヶ月かかるそうです」
一ヶ月。待てる。三年待った。あと一ヶ月くらい、どうということはない。
スブタイが来た。
三年ぶりに見るスブタイは、出発時とは別人のようだった。日に灼けた肌がさらに黒くなり、頬がこけ、体が一回り小さくなっていた。だが目は変わっていなかった。あの鷹の目。全体を見る目。
スブタイは俺の前に跪いて、報告を始めた。
「ハン。ジェベ・スブタイ軍二万、出発から三年間の行程を報告いたします」
「座って話せ。長くなるだろう」
スブタイは座った。火のそばに。将たちが輪になって聞いた。
スブタイの報告は、信じがたい物語だった。
「ムハンマドを追って、ペルシアを西に横断しました。ムハンマドは逃げ足が速く、我々が到着する前に次の都市に逃げていました。都市から都市へ追いかけて、最終的にカスピ海の沿岸まで追い詰めました」
「そこで死んだのか」
「はい。カスピ海の島に逃げ込みましたが、船がなく追えませんでした。数週間後、島でムハンマドが病死したとの情報が入りました」
「追撃の目的は果たした。なぜそのまま帰らなかった」
スブタイの目が光った。
「ハンの命令は、『自由に動け』でした。ムハンマドは死にましたが、我々はまだ動けました。馬があり、兵がいて、目の前に見たことのない世界が広がっていました。ジェベと相談して、決めました——このまま西に進もう、と」
俺は少し笑った。「自由に動け」と言った結果がこれだ。二万の兵が、命令の範囲を自分で拡大解釈して、誰も知らない世界の果てまで走り抜けた。
「ペルシアの西にコーカサスの山脈があります。高い山が連なっていて、通常は軍隊が越えられません。だが峠を探して越えました。馬を引いて、雪の中を歩いて」
「コーカサスの向こうには何があった」
「草原です。広い草原。モンゴルの草原に似ていましたが、草の種類が違いました。そこにグルジアという国がありました」
「戦ったのか」
「戦いました。グルジアの騎兵一万が迎撃してきました。精強でしたが、我々の機動力にはかないませんでした。マングダイで誘い出して、包囲殲滅しました」
ボオルチュが口を挟んだ。
「二万キロ先でもマングダイが効くのか」
「効きます。草原の戦術は、草原がある限りどこでも効きます。地形が違っても、馬が走れる場所なら同じです」
スブタイが続けた。
「グルジアを抜けた先に、キプチャク草原がありました。ここにキプチャク族という遊牧民がいて、さらにその先にルーシの諸侯——ロシアの王たちがいました」
「ロシア?」
「北の大国です。一つにまとまってはおらず、いくつもの公国に分かれています。キプチャク族がルーシの諸侯に助けを求めて、連合軍が編成されました。兵力は推定八万」
「八万。おまえたちの四倍か」
「はい。カルカ河のほとりで会戦しました」
スブタイの目が静かに燃えた。
「カルカ河の戦い。我が軍二万。敵連合軍八万。兵力差は四倍」
スブタイの報告が、軍記の語りに変わった。
「ルーシ諸侯の連合軍は数こそ多いが、指揮系統がばらばらでした。各公国の軍が独自に動いていて、統一された命令がありません。ある公国の軍が突撃すれば、隣の公国は待機している。足並みが揃わない」
ナイマン連合と同じだ、と俺は思った。寄せ集めの弱点は、世界のどこでも同じだった。
「我々はまずマングダイで前衛を誘い出しました。偽装退却を三日間続けて、敵の隊列を引き延ばしました。三日目に、最も前に出ていたキプチャク騎兵が我々に追いついた。そこで反転して一斉射撃を浴びせました。キプチャク騎兵は壊滅」
「三日間の偽装退却。よく我慢したな」
「ジェベの判断です。あの人は、待てる人間でした。敵が完全に伸びきるまで、三日間、後ろだけを見せて走り続けた」
待てる人間。母の言葉と同じだ。弓は、待てる人間にしか作れない。
「キプチャクが崩壊した後、ルーシ諸侯の連合は統制を失いました。各公国が独自に退却を始めて、我々はそれを一つずつ追い詰めました。河を背にして逃げ場を失った公国の軍を包囲して、降伏か殲滅か選ばせました」
「戦果は」
「ルーシ・キプチャク連合軍八万のうち、戦死推定三万以上。捕虜多数。ルーシの主要な公の何人かを捕らえました。こちらの損害は戦死約二千」
二万で八万を破った。四倍の敵を、二千の損害で壊滅させた。
ゲルの中が静まり返った。将たちが呆然としている。
「そこからどうした」
「帰路につきました。カスピ海の北岸を回って、中央アジアを横断して、モンゴルに帰還しました。全行程、推定二万キロ以上。所要期間、三年」
スブタイはそこで言葉を切った。
「以上が、ジェベ・スブタイ軍の行動報告です」
しばらく誰も喋らなかった。
二万キロ。三年。モンゴルの草原からペルシアを越え、山脈を越え、見たこともない国々を打ち破り、一万八千の兵を連れて帰ってきた。
馬を乗り継いで走り続ければ、半年以上かかる距離だ。商人でも一生に一度行けるかどうかわからない場所まで、二万の軍勢が武器を持って往復した。
補給線なし。通信なし。援軍なし。全て自分たちの判断で、全て現地調達で。
「スブタイ」
俺は声をかけた。
「よくやった」
短い言葉だ。だがスブタイには、これで十分だった。
スブタイは頭を下げた。
「ハン。一つ、報告があります」
「何だ」
「西の世界は——広いです。我々が走った二万キロは、まだ世界の半分にも届いていません。ルーシの向こうにも国がある。草原がある。海がある。世界は——ハンが思っているより、ずっと大きい」
俺はスブタイの目を見た。
この男は三年間で、俺が一生かけても見られないものを見てきた。コーカサスの雪山を。ルーシの黒い森を。カルカ河の草原を。
世界は大きい。
俺が知っている世界は、まだほんの一部にすぎない。
「スブタイ。おまえに西方の地図を作らせる。見てきたものを全部、地図にしろ。道の状態。水源の位置。各国の兵力。城壁の有無。全部だ」
「了解しました」
「この地図は——いつか使う日が来る」
スブタイはうなずいた。
この地図が、後にバトゥの欧州遠征の基礎資料になることを、この時点では俺もスブタイも知らなかった。
スブタイが去った後、俺は一人で座っていた。
ジェベが死んだ。帰路で病に倒れて。
古い仲間が、また一人いなくなった。ジャムカ。トグリル。タヤン。ジェベ。死んでいく。敵も味方も、みんな死んでいく。
俺の周りには、まだボオルチュがいる。ジェルメがいる。カサルがいる。チラウンがいる。ムカリは金朝にいる——元気だろうか。
いつまで一緒にいられるのだろう。
五十九歳。もう若くない。馬に乗れば一日で腰が痛くなる。弓を引けば肩が軋む。首のカラハルジトの傷跡が、寒い日に疼く。
だが止まれない。まだ止まれない。
ホラズムの残存勢力を掃討しなければならない。ムハンマドの息子ジャラールッディーンが、南で兵を集めている。あの男は父と違って逃げない。戦う男だ。
「テムジン」
ボルテの声が聞こえた気がした。ここにはいないはずなのに。
——どこまで行くの。
——テンゲリが止めろと言うまで。
——テンゲリは何も言わないんでしょ。
ああ。何も言わない。だから止まらない。
でも——体が止まれと言い始めている。
それを、まだ認めたくなかった。




