第三十一話「サマルカンド」
サマルカンドの城壁は、これまで見たどの壁よりも美しかった。
青い釉薬の装飾が施された門。白い石を精密に積み上げた壁面。角ごとに立つ円筒形の見張り塔。壁の上には弩砲と投石機が並び、城壁の内側からは、モスクの尖塔が何本も空に突き出している。
商人のハサンが「世界で最も美しい都市」と呼んだ場所だ。
俺はその壁を、三キロ離れた丘の上から見つめていた。
「壊さなきゃならないのか」
隣にいたのはトルイだった。末の息子は父の独り言を聞き逃さなかった。
「壊さないと、入れない」
「壊さずに入る方法はないのか」
トルイが俺を見た。二十三歳の息子の目に、少し驚いた色があった。ブハラを燃やした男が、次の城を壊すことを躊躇っている。
「……ある。壁を壊す前に、中を壊す方法が」
サマルカンドの兵力を記す。
守備兵は推定十万。ホラズム帝国最大の守備軍だ。城壁の上に弩砲百門以上。城壁の外には幅十五丈の堀。城壁は二重構造で、外壁と内壁の間に「殺しの間」と呼ばれる空間がある。外壁を突破しても、内壁との間で弩と矢を浴びせられる仕組みだ。
さらに守備側も投石機を持っている。マンジャニーク——イスラム世界で発展した対重式投石機で、金朝のものより洗練されている。砲台が回転して射角を変えられるため、こちらの投石機を狙い撃ちにできる。
正面から攻めたら、中都以上の苦戦になる。ブハラのようには片づかない。
だが俺は、壁を壊す前にやることがあった。
チラウンの斥候と、商人ネットワークから集めた情報を突き合わせた。
「ムハンマド・シャーは今どこにいる」
「サマルカンドにいます。だが——動揺しています。ブハラの陥落を聞いて、逃亡の準備をしているという情報があります」
「逃げるのか。十万の守備兵を残して?」
「ムハンマドは自分の軍を信用していません。守備兵の中にトルコ系の兵がいますが、ムハンマドとトルコ系将軍の間には溝がある。裏切られることを恐れている」
「敵の王が自分の軍を信用していない」
これは使える。
ブハラでは壁を壊して入った。力ずくだ。だがサマルカンドでは、壁を壊す前に中身を腐らせる。
「サマルカンドの中に、間者を入れろ」
チラウンに命じた。
「商人に化けて入れる者はいるか」
「います。ブハラで捕らえたペルシア人商人の中に、サマルカンドに知り合いがいる者が何人かいます」
「使え。城内に二つの噂を流せ」
「二つ?」
「一つ目。『モンゴル軍は百万いる。ブハラは三日で落ちた。サマルカンドも持たない』。これは恐怖を煽る噂だ。守備兵と市民の士気を削る」
「二つ目は?」
「『ムハンマド・シャーはサマルカンドを捨てて逃げる準備をしている』。これは王への不信を植えつける噂だ。王が逃げるなら、守備兵が命がけで戦う理由がなくなる」
チラウンがうなずいた。
「二つ目の噂は——事実に近いですね」
「事実に近いから効くんだ。嘘は見破られるが、事実に近い噂は信じられる」
トグリルの部下たちに書状を送った時と同じ手法だ。敵の内部に亀裂を入れて、戦う前に崩す。
間者が城内に入った。噂が広まるのに、五日もかからなかった。
六日目の夜、ムハンマド・シャーがサマルカンドを脱出した。
少数の護衛と共に、西門から出て、南西に逃げた。
十万の守備兵を残して。
チラウンの斥候がそれを確認した時、俺は笑えなかった。
「王が逃げたぞ」
ボオルチュに伝えた。
「また逃げたのか。金朝の皇帝もそうだった。城を残して逃げる」
「城壁で守られてる人間は、城壁がなくなったら何もできないんだ。壁の中にいる限り強いが、壁の外に出たらただの人間だ」
「草原の男は違う」
「ああ。俺たちは壁がない場所で育った。だからどこにいても同じだ。壁がないから、壁に頼らない。壁に頼らないから、壁がなくなっても崩れない」
これが、草原の男と定住の民の根本的な違いなのかもしれない。
ムハンマドの追撃は、ジェベとスブタイに任せた。すでに命令は出してある。「ムハンマドを追え。どこまででも」。
今はサマルカンドに集中する。
ムハンマドの脱出が城内に知れ渡った。
効果は劇的だった。
翌日、トルコ系の将軍たちが使者を送ってきた。
「我々はムハンマドに見捨てられた。あの男のために死ぬ義理はない。条件次第で、降伏する」
条件交渉が始まった。
「降伏する者の命は保証する。兵は武装を解いて投降しろ。将軍たちはモンゴル軍に仕官できる。能力があれば、相応の地位を与える」
ブハラの教訓を生かした。壊してから入るのではなく、開かせてから入る。
だが、全員が降伏したわけではなかった。
ペルシア人の守備隊——約三万が降伏を拒否した。彼らはムハンマドの直属ではなく、サマルカンドの市民から徴兵された兵だった。自分たちの街を守るために戦う意志があった。
「三万か。七万は降伏して、三万が残った」
ムカリがいればこの判断を任せられるが、ムカリは金朝にいる。トルイと俺で判断するしかない。
「三万に対して十万でぶつかる必要はない。降伏した七万のトルコ兵を前に立てろ」
「味方になったばかりの降伏兵を?」
トルイが驚いた。
「前に立てるだけだ。戦わせる必要はない。三万の守備兵から見れば、自分たちの同胞が敵側にいるように見える。同胞に矢を射かけることはできない。戦意が削がれる」
心理戦だ。実際に降伏兵を戦わせるわけじゃない。見せるだけでいい。
攻撃を開始した。
だが、ブハラとは違うやり方にした。
投石機は使った。だが城壁全体を壊すのではなく、城門の両脇だけを集中的に叩いた。門を支える壁が崩れれば、門が開く。門が開けば、壁全体を壊す必要はない。
火箭は城内には撃たなかった。
ジェルメの顔を見た。「ジャムカの釜と同じになる」。あの言葉が頭にあった。
ブハラでは三分の一が燃えた。サマルカンドでそれを繰り返せば——世界で最も美しい都市が灰になる。
「火箭は城壁の上だけに限定しろ。城内には撃つな」
カサルが少し驚いた顔をした。
「城内に撃てば混乱が広がって、早く落ちます」
「知ってる。だがサマルカンドは焼かない」
「なぜ」
「この都市には技術者がいる。学者がいる。医者がいる。建築家がいる。全部焼いたら、全部失う。城壁は壊しても、中身は残す」
カサルはうなずいた。
ムハンマドの脱出から数えて五日間で決着がついた。
投石機の集中砲撃で南門が崩壊。門を支える壁が崩れ、巨大な木の門が傾いて落ちた。
突入口が開いた。
トルイの精鋭三千が門から突入した。ここからが本当の戦闘だった。降伏を拒んだペルシア人守備兵が、市街の要所に立て籠もって激しく抵抗した。狭い路地での白兵戦。弓が使えない距離での刀と槍の戦い。トルイの精鋭が一つずつ拠点を潰しながら、もう一つの門を内側から開けた。
東門と西門が次々と開き、モンゴル軍が三方向から城内に流入した。
降伏を拒否していた三万の守備兵は、内城に退いた。だが、目の前に七万のかつての同胞がモンゴル側に立っているのを見て、戦意が萎えた。
二日目の夕方、内城の守備隊長が降伏を申し出た。
「これ以上戦っても、死ぬだけだ。市民を巻き込みたくない」
受け入れた。
サマルカンドは落ちた。
サマルカンドの戦果を記す。
モンゴル軍。戦死八百。負傷二千。主な損害はトルイの突入部隊が市街戦で受けたものだ。ブハラの五百よりは多いが、十万の守備兵を相手にした数字としては極めて少ない。
サマルカンド守備軍。戦闘前にトルコ系兵七万が降伏。残った三万のうち、戦死五千。投降二万五千。
市民の被害。戦闘による直接の死者は、推定数百。ブハラの数千から数万に比べれば、桁違いに少ない。
鹵獲。ホラズム帝国の首都に蓄積された財宝、武器、食料。そして——
マンジャニーク。イスラム世界の対重式投石機。
ジェルメが実物を見た時、目の色が変わった。
「これは——うちのものより良い」
「何が違う」
「砲台の回転機構です。うちの投石機は据え置きで、射角を変えるには全体を動かす必要がある。でもこれは砲台だけが回る。一基で複数の方向を撃てる。それから錘の吊り方も違う。こっちの方が効率がいい。同じ重さの錘で、うちより二割遠くに飛ばせるはずです」
「持ち帰れるか」
「分解して図面を描きます。これと、うちの投石機の良いところを合わせれば——もっと良いものが作れる」
金朝の技術とイスラム世界の技術を組み合わせる。これが後に「回回砲」と呼ばれる最強の投石機になる。
サマルカンドに入った。
ブハラとは違う入り方をした。
火は出ていない。建物はほぼ無傷で残っている。モスクの尖塔が夕陽を受けて光っている。市場には商人たちがまだ店を開いている——もちろん怯えてはいるが。
「ブハラとは違うな」
ボオルチュが横で言った。
「違う。今回は——なるべく残した」
「なるべく、か」
「完璧じゃない。死んだ人間はいる。でもブハラよりは——」
「マシだった?」
「マシだった」
マシという言葉は、誇れるものじゃない。でも、ブハラでジェルメに「ジャムカの釜と同じになる」と言われた後に、少しだけ歯止めをかけることはできた。
技術者を全て登録させた。石工、金属細工師、ガラス職人、天文学者、医師、数学者、建築家。全員の名前と技能を記録して、モンゴル軍の管理下に置いた。
殺さない。使う。
「使える者は出自を問わず使う」。この原理は、モンゴルの牧人にも、金朝の鍛冶屋にも、ペルシアの天文学者にも適用される。
サマルカンドの天文学者の一人が、俺に問いかけてきた。年配の男で、白い髭を蓄えていた。
「あなたは——我々を殺しに来たのですか。それとも、何かを求めに来たのですか」
「両方だ。殺しに来た。だが——おまえたちの知識は殺さない。知識を持っている人間を、俺は必要としている」
天文学者は少し黙った。
「不思議な征服者ですね。都市を壊して、人を殺して、それでいて知識だけは残そうとする」
「壊さなければ入れなかった。だが入った以上は、中にあるものを使う。おまえの星の知識は、俺の軍の行軍に役立つ。砂漠を越える時に、星が方角を教えてくれた。もっと正確な星の図があれば、もっと正確に動ける」
天文学者の目が変わった。学者の目だ。知的好奇心が恐怖を押しのけた。
「……星図なら、私の学院に完成品があります。燃えていなければ」
「燃えてない。サマルカンドは燃やしていない」
天文学者は少し安堵した顔をした。
夜、一人でサマルカンドの通りを歩いた。
石畳の道。青い装飾のモスク。水の流れる灌漑水路。星明かりに照らされた白い建物。
美しかった。
草原には、こういう美しさはない。草原の美しさは広さと空と風だ。ここの美しさは、人が作ったものだ。石を積み、模様を彫り、色を塗って、何百年もかけて作り上げた美しさ。
ブハラでは、これを燃やした。
サマルカンドでは、残した。
どちらが正しかったのかは、わからない。ブハラを燃やしたから、サマルカンドの守備兵は恐怖して降伏した。ブハラの破壊がなければ、サマルカンドは何ヶ月も持ちこたえたかもしれない。
恐怖が、この美しさを守った。
皮肉だった。
ボルテが頭をよぎった。「やるなら徹底しなさい。中途半端が一番良くない」——ボルテならそう言いそうだ。だが同時に、「でも壊さなくていいものは壊さないで」とも言いそうだ。
あの女は、いつも二つのことを同時に言う。矛盾しているようで、矛盾していない。
徹底すること。でも必要以上に壊さないこと。
この二つの間に、細い道がある。その道の上を、俺は歩いている。
ヤムの伝令が報告を持ってきた。
「南路軍からです。オトラルが陥落しました。イナルチュクを生け捕りにしました」
五ヶ月の攻囲の末、オトラルが落ちた。
チャガタイとオゴデイがやり遂げた。
「イナルチュクは?」
「生きたまま捕らえています。チャガタイ殿の指示で、鎖をつけてこちらに送っています」
四百五十人を殺した男が、ついに捕まった。
俺は目を閉じた。
二年前、使節団虐殺の知らせを聞いた時の怒りを思い出した。ゲルの柱を殴り、拳から血を流した夜。
あの怒りに、決着をつける時が来た。
「イナルチュクが着いたら、すぐに俺の前に連れてこい」
「どうされるのですか」
「裁く。四百五十人の仇を、全軍の前で晴らす」
イナルチュクが連れてこられた日、俺はサマルカンドの広場で全軍の代表を集めた。
鎖をつけられた男が引き出された。太った体。欲深そうな目。だが今は、その目に恐怖だけが浮かんでいた。
「イナルチュク。おまえはモンゴルの通商使節四百五十人を殺し、商品を盗んだ。認めるか」
男は膝を震わせながら言った。
「あ、あれはスパイだったのだ。スパイを処刑するのは——」
「スパイではなかった。商人だった。モンゴルのハンの免状を持った正式な使節だった。おまえはそれを知っていた。知っていて殺した。金目のものが欲しかったからだ」
イナルチュクの顔が崩れた。
俺は立ち上がった。
「四百五十人の血の代償を、おまえの命で払わせる」
イナルチュクは叫んだ。命乞いをした。だが聞かなかった。
処刑の方法を命じた。溶かした銀を目と耳に注ぐ。おまえが奪った銀を、おまえの体に返してやる。
残酷だ。わかっている。だがこの男は四百五十人を殺した。残酷な死に値する。
処刑が行われた。広場に悲鳴が響いた。
終わった後、俺はゲルに戻った。
一人で座った。手が震えていた。
怒りは消えたか。消えていなかった。四百五十人は戻ってこない。イナルチュクを殺しても、使節団は生き返らない。
でも——一つの区切りはついた。
腹の底の黒い塊が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
西征は続く。
サマルカンドを拠点に、モンゴル軍は更に西へ向かう。ムハンマドを追うジェベとスブタイは、すでにペルシアの奥地に入っている。
俺自身は南へ向かい、ホラズム帝国の残存勢力を掃討する。
だがその先に、もう一人の敵が待っている。
ムハンマドの息子、ジャラールッディーン。父とは違い、逃げない男。戦う男。
俺がこの西征で初めて「対等だ」と認める敵が、南から近づいてきていた。




