第三十話「ブハラ炎上」
ブハラの守備兵は、俺たちが来ることを知らなかった。
ムハンマド・シャーの防衛計画では、モンゴル軍はシルダリヤ河を渡って攻めてくるはずだった。河沿いの城塞群が第一防衛線で、ブハラはその遥か後方。安全なはずの場所だった。
砂漠を越えてくる軍隊など、誰も想定していない。
だから俺たちがブハラの東方に現れた時、城壁の上の見張りは目を疑ったという。
砂漠の向こうから立ち上る砂塵。十万の馬が作る砂塵は、嵐のように見えただろう。
ブハラの兵力を記す。
守備兵は約二万。城壁は石と煉瓦の併用で、高さ六丈(約十八メートル)。堀あり。城内には内城があり、ここが最後の砦になる。
市民は約三十万。商人、職人、学者、宗教者。ブハラはイスラム世界の学問の中心地であり、モスクと学院が林立する美しい都市だと、商人たちが語っていた。
俺は城壁を見た。
金朝の中都ほどではないが、堅固だ。正面から攻めれば、時間がかかる。
だが今回は、時間をかける気はなかった。
「全攻城兵器を展開。投石機、火箭、震天雷。全部使え」
攻城戦は三日間で終わった。
中都の一年と比べれば、嘘のような速さだった。
理由は三つある。
一つ目。奇襲の効果。守備側に準備の時間がなかった。投石機に対する防御——城壁の上に土嚢を積む、弩砲で投石機を狙う——そういった対策を講じる暇がなかった。
二つ目。攻城技術の成熟。中都攻囲戦で経験を積んだ技術者たちが、手際よく兵器を組み立て、的確に運用した。金朝出身の劉仲禄が投石機を指揮し、ペルシア人の捕虜(先の小規模な戦闘で鹵獲した)が火薬兵器の扱いを補佐した。中国の技術者とペルシアの技術者が、同じ戦場で協力して城壁を壊した。
三つ目。守備側の士気の低さ。ムハンマド・シャーは援軍を送ってこなかった。防衛線の裏に出現したモンゴル軍に対して、ムハンマドは動揺して判断を下せなかったのだ。見捨てられたブハラの守備兵は、戦う理由を失っていた。
初日。対重式投石機十二基が城壁の東面に集中砲撃を浴びせた。三百キロの石が次々と壁に激突し、石積みの表面を砕いていく。同時に火箭が城壁を越えて城内に降り注いだ。城内の数箇所から煙が上がった。
二日目。城壁の一角が崩れた。守備兵の大半——約一万五千が、夜のうちに西門から脱出を試みた。城壁の中で死ぬより、野戦で突破するほうがましだと判断したのだろう。
だがカサルの弓隊が西門の外に伏せていた。
脱出してきた一万五千に、五千の弓が矢を浴びせた。暗闘の中での密集射撃。逃げる兵の群れに矢の雨が降り注ぐ。一万五千のうち、朝までに倒れたのは約四千。残りは散り散りに逃げたが、ボオルチュの快速騎兵が追撃して大半を捕らえた。
三日目。城内に残った守備兵は五千以下。内城に立て籠もった。
内城の壁は厚かったが、震天雷を壁の根元に集中的に仕掛けた。劉仲禄が指揮する工兵隊が、夜間に壁際まで近づいて震天雷を設置し、導火線で一斉に爆破した。
轟音と共に、内城の壁が崩れ落ちた。
トルイの精鋭が突入して、残った守備兵を制圧した。
ブハラは落ちた。
城に入った。
中都には入らなかったが、ブハラには入った。敵地の深部に入り込んだ以上、城を確保しなければ後方が不安定になる。
馬で城門をくぐり、石畳の道を進んだ。
美しい都市だった——あるいは、美しい都市だったのだろう。
火箭で焼けた建物がまだ煙を上げている。投石機の石で潰された家の瓦礫が道を塞いでいる。逃げ遅れた住民が壁際に身を寄せて震えている。
広場に出た。大きなモスクがあった。丸い屋根と高い塔を持つ、白い石の建物。火箭が何本か突き刺さっていたが、建物自体は焼けずに残っていた。
モスクの前に、住民が集められていた。トルイの兵が囲んでいる。商人、職人、学者、宗教者。怯えた目で俺を見上げている。
俺は馬から降りて、モスクの中に入った。
広い空間だった。天井が高く、壁には青い模様が描かれている。床には絨毯が敷かれている。静かだった。外の喧騒が嘘のように、この中だけ時間が止まっていた。
モスクの中にも人がいた。白い衣を着た宗教者たちが、床に跪いて祈っていた。
俺が入ってきても、祈りをやめなかった。
しばらく見ていた。
やがて祈りが終わって、宗教者の一人が立ち上がり、俺に向かって言った。震える声だった。
「あなたは——何者ですか」
俺は答えた。
「テンゲリの罰だ」
宗教者が息を呑んだ。
「おまえたちの王が罪を犯さなければ、天は俺をここに送らなかった。四百五十人の使者を殺したのは、おまえたちの王だ。その報いが、俺だ」
静寂が広がった。
俺は自分の言葉を聞いていた。
嘘ではなかった。ムハンマドが使節を殺さなければ、俺はここに来なかった。それは事実だ。
だが——この祈っている人間たちに罪はあるのか。この都市の学者や商人や職人が、使節を殺したのか。殺していない。殺したのはイナルチュクであり、それを黙認したのはムハンマドだ。この三十万の市民は、何もしていない。
それでも俺はここにいる。この都市を壊しに来た。
ブハラの処理を決めた。
技術者——鍛冶師、大工、石工、織物師——は全員捕らえてモンゴル軍に組み込む。使える技術を持つ者は殺さない。これはいつも通りの方針だ。
若い男は兵として徴発する。矢の盾として前線に立たせるか、城壁を壊す作業に使う。
女性と子供は——
「殺すな」
俺はトルイに命じた。
「女と子供は殺すな。捕虜にしろ。後で労働力として使う」
「全員ですか」
「全員だ」
トルイはうなずいた。
だが、全てが俺の命令通りに進んだわけではなかった。
十万の兵が三日間の戦闘の後に城市に入れば、統制が乱れる場所が出る。火が広がった。最初は火箭による戦闘中の火災だったが、兵が略奪の過程で火をつけた建物もあった。
ブハラの三分の一が焼けた。
学院が燃えた。書物が燃えた。何百年もかけて蓄積された知の記録が、一夜で灰になった。
それを止める力が、俺にはなかった。
いや——止める意志が足りなかったのかもしれない。
怒りだ。四百五十人を殺された怒りが、まだ腹の底で燃えている。冷たくなったつもりだった。計算で動いているつもりだった。だが、城が燃えるのを見た時、腹の底の火が少しだけ——ほんの少しだけ——満足を感じた。
その自分が、怖かった。
ブハラを離れる前、俺は燃え残ったモスクの前に立った。
白い壁が煤で汚れている。ミナレットの先端が折れている。だが建物は残っている。
ボオルチュが横にいた。
「きれいな建物だったんだろうな。燃える前は」
「ああ。たぶん」
「俺たちが壊したのか」
「俺たちが壊した」
ボオルチュは黙った。
しばらくして、ぼそっと言った。
「テムジン。俺はおまえと馬泥棒を追いかけた日から、ずっと一緒にいる。楽しかった。今でも楽しい。でも——」
「でも?」
「こういうのは、楽しくない」
俺はボオルチュを見た。この男は最初から、「面白いから」で俺と走ってきた。理屈じゃない、計算じゃない、ただ一緒にいたいから走る。
でも今、この男の目に「楽しくない」がある。
「……俺もだ」
正直に答えた。
「楽しくない。でも止まれない。四百五十人の血が——」
「わかってる。わかってるから、ここにいる。でもな、テムジン」
ボオルチュが俺の目を見た。
「全部終わった後、おまえが壊したものの大きさに、おまえ自身が潰されるんじゃないかって——たまに心配になる」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
ボオルチュの心配は、たぶん正しい。
ブハラの戦果を記す。
モンゴル軍。戦死五百。負傷千二百。損害は軽微。奇襲の効果が最大限に発揮された結果だ。
ブハラ守備軍。戦死約八千(脱出時の戦死を含む)。捕虜約一万。逃亡数千。
鹵獲。金銀財宝、絹織物、香辛料、宝石。そして技術者数百人——石工、金属細工師、ガラス職人、医師。
市民の被害は正確にはわからない。火災による死者と、混乱の中での犠牲者。数千から数万の間だろう。
数字にすれば、それだけの話だ。
だが数字の裏に、一人一人の命がある。祈っていた宗教者。逃げ遅れた老人。母に抱かれて泣いていた子供。
全部、俺が壊した。
ムハンマドが使節を殺したから。イナルチュクが四百五十人を虐殺したから。だから俺は来た。天の罰だと言った。
だが——天の罰は、罰される側にとっては、ただの地獄だ。
ブハラを発って、次の目標に向かった。
サマルカンド。ホラズム帝国の首都。ブハラより大きく、城壁はさらに堅固で、守備兵は十万を超えるという。
軍を西へ進めながら、俺はボルテのことを考えていた。
ボルテがここにいたら、何と言うだろう。
「やりすぎだよ」と言うだろうか。「もう十分でしょう」と言うだろうか。
それとも——
「やるなら徹底しなさい。中途半端が一番良くない」と言うだろうか。
わからない。ボルテは草原にいる。ここにはいない。
この戦が終わって帰った時、ボルテの目を見られるだろうか。あの、全てを見透かす目を。
ブハラの煙が、まだ背後の空を灰色に染めていた。
ヤムの伝令が駆け込んできた。
南路軍からの報告だ。
「チャガタイ殿とオゴデイ殿が、オトラルを包囲しています。攻囲戦は二ヶ月目に入りました。城内のイナルチュクが頑強に抵抗しています」
「イナルチュクが?」
「はい。あの男は——思ったより手強いようです。城壁の上で自ら弓を引き、突入する兵を石で叩き落としているそうです」
意外だった。欲深い太守だと聞いていたが、追い詰められて牙を剥いている。死を覚悟した人間は強い。
「チャガタイに伝えろ。急ぐな。兵糧攻めで干上がらせろ。イナルチュクは必ず生きたまま捕らえろ」
あの男の死に方は、俺が決める。
四百五十人の血の代償は、あの男の命で支払わせる。
北路軍からも報告が来た。
ジョチがシルダリヤ河沿いの都市をいくつか落としている。だが進軍速度が遅い。
報告の中に、気になる一行があった。
「ジョチ殿は、降伏した都市の住民を殺さず、そのまま残しています」
殺さず残している。
俺の命令は「抵抗した都市は破壊し、降伏した都市は保全する」だ。ジョチはこの命令に従っている。従っているが——報告の言い回しが微妙だった。まるで、ジョチが「殺さない」ことを自らの意志で選んでいるかのような書き方だった。
ジョチは優しい男だ。母のボルテに似ている。戦場では勇猛だが、戦が終わると穏やかになる。捕虜を丁重に扱い、降伏した敵を自分の配下に組み込む。
俺と同じやり方だ。
だが、チャガタイはそれを「弱さ」と見るだろう。「兄上は敵に甘い」と。
兄弟の溝は、この西征の中でさらに深まっていくのだろう。
止められない。止める方法がわからない。
サマルカンドの城壁が、地平線の向こうに見え始めた。
巨大な城壁だ。ブハラより高い。ブハラより厚い。
ジェルメが横に来た。
「投石機の準備はできています。震天雷の備蓄も十分。坑道掘りの工兵隊も待機しています」
「よし」
「テムジン」
「何だ」
「ブハラの後——兵たちの目が変わった」
「変わった?」
「怖がっている者がいます。自分たちがやったことに。でも——もっと多くの者は、怖がっていない。慣れ始めている。城を壊すことに、人を殺すことに」
ジェルメの目は静かだった。この男はいつも静かだ。だがその静かさの奥に、何かを案じる光があった。
「慣れることが怖いのか」
「慣れた軍は、止まらなくなります。ブハラで三分の一が燃えた。サマルカンドでは——」
「統制する。略奪は組織的に管理する。勝手に火をつけた者は処罰する」
「そうしてください。でなければ——」
ジェルメは言葉を切った。
「でなければ?」
「俺たちは、ジャムカの釜と同じになる」
その言葉が、胸に刺さった。
ジャムカの釜。捕虜を生きたまま煮殺した男。恐怖で人を支配しようとして、人を失った男。
俺はジャムカとは違う。ルールで人を束ね、恩で人を繋ぎ、能力で人を評価する。それが俺のやり方だ。
だが——都市を丸ごと焼いて、住民を殺して、それがジャムカとどう違うのか。
規模が違うだけではないか。
「……気をつける。サマルカンドでは、もっと気をつける」
ジェルメはうなずいた。
風が砂を運んできた。西からの風。サマルカンドの方角からの風。
次の壁が、待っている。




