第二十九話「砂漠を越えて」
二十万の人間を数千キロ動かすということが、どういうことか。
馬が百万頭いる。一人五頭の替え馬だから、二十万人で百万頭。この百万頭が毎日、草と水を必要とする。草原なら放牧すればいいが、砂漠にはそれがない。
食料。二十万人が一日に食べる干し肉と乳製品。行軍中は煮炊きができない場所も多いから、馬上で食べられるものだけ。干し肉、乾燥チーズ、馬乳を固めた粉。一人一日の食料は約一キロ。二十万人で一日二百トン。百日分なら二万トン。
水。砂漠を越えるなら、水源の位置が命を握る。一人一日三リットルとして、二十万人で六十万リットル。馬はもっと飲む。百万頭の馬が一日に必要とする水は——計算すると頭が痛くなる数字だ。
全てを事前に計算して、ルート上に備蓄を配置するか、水源を確保するか、現地調達するか。一つでも計算が狂えば、戦う前に砂漠で干上がって死ぬ。
「二十万の行軍は、二十万の戦いだ」
俺はそう言って将たちを集め、行軍計画を詰めた。
軍を四つに分けた。
四つの軍が、四つの別々のルートを通って、ホラズム帝国に同時に到達する。分散行軍、集中攻撃。この発想自体は野狐嶺と同じだが、規模が桁違いだ。
北路軍、三万。ジョチが率いる。
シルダリヤ河の下流に沿って西進し、ホラズムの北方都市を一つずつ攻略する。主目的は、ムハンマドの注意を北に引きつけること。
ジョチには厳命した。「城を攻めろ。だが深追いするな。おまえの仕事は牽制だ。ムハンマドの目を北に釘づけにしておけ」。
ジョチはうなずいた。だが目の奥に、何か言いたげなものがあった。長男としての自負か。牽制役という役割への不満か。
南路軍、五万。チャガタイとオゴデイが共同指揮。
シルダリヤ河の上流を押さえ、オトラルを攻囲する。
オトラル。四百五十人を殺した城市だ。イナルチュクがいる城市だ。
「オトラルを落とせ。イナルチュクを捕らえろ。殺すな。生きたまま俺の前に連れてこい」
チャガタイが聞いた。
「殺さないのですか。四百五十人の仇なのに」
「俺が直接裁く。あの男の死に方は、俺が決める」
チャガタイとオゴデイを同じ軍に入れたのは、兄弟の協調を試す意図もあった。ジョチとチャガタイを引き離し、チャガタイにはオゴデイという温厚な弟をつけた。オゴデイがチャガタイの激しさを和らげてくれればいい。
別働隊、二万。ジェベとスブタイが率いる。
ホラズム帝国の東端を迂回して、背後に回り込む。最終的にはムハンマド本人の追撃を担当する予定だが、当面は陽動と情報収集。
ジェベは古参の将だ。メルキト戦から俺と共に戦ってきた。足が速く、判断が的確で、単独行動に向いている。
スブタイは新しい。まだ三十代半ばだが、目が違う。戦場を見る目が——ジャムカに似ている。全体を一つの絵として捉える目だ。初めて会った時、俺はこの男にジャムカの影を見た。
「スブタイ。ジェベと組んで、自由に動け。ただし、ヤムで報告は怠るな」
「了解しました。ハン」
スブタイの声は低くて静かだった。この男が後に、歴史に残る二万キロの遠征を成し遂げることになる。
本隊、十万。俺とトルイが率いる。
末の息子トルイは二十三歳。四人の息子の中で、軍事的な才能が最も高い。冷静で、大胆で、残酷になれる。俺に一番似ている息子だ。
本隊の任務は——ホラズム帝国の心臓を直接突く。
だがそのためには、ムハンマドが予想しない場所から現れなければならない。
キジル砂漠を越える。
キジル砂漠。
シルダリヤ河とアムダリヤ河の間に広がる広大な砂の海。通常、軍隊がここを横断することはない。水がなく、草がなく、人が住んでいない。商人でさえ、砂漠の縁を迂回して通るルートを取る。
ムハンマドはシルダリヤ河に沿って防衛線を敷いている。河を渡って攻めてくるモンゴル軍を、河岸の城塞群で迎え撃つ構えだ。
だが俺は河を渡らない。
砂漠を突っ切って、防衛線の裏側に出る。
「正気ですか」
チラウンが聞いた。この男が正気を問うのは珍しい。
「正気だ。砂漠を越えれば、ホラズムの防衛線を丸ごと迂回できる。ブハラの背後に出る。ムハンマドが河岸で待ち構えている間に、首都に近い都市を背後から叩く」
「十万が砂漠で死にます」
「死なない。ルートは二年かけて調べた。砂漠の中にオアシスが七箇所ある。商人から聞き出して、斥候に確認させた。オアシスとオアシスの間は三日から五日の行程。馬を替えながら走れば、水が尽きる前に次のオアシスに着く」
「それでも——十万は多すぎる。一つのオアシスで十万人分の水は出ない」
「だから隊列を縦に伸ばす。先頭と最後尾の間隔を三日分空ける。先頭がオアシスの水を飲み終わる頃に、次の隊が到着する。オアシスの水が回復する時間を作る」
チラウンは黙って計算していた。目が動いている。ヤムの中継点を何百箇所も設置してきた男だ。距離と時間と水量の計算は、この男の専門だ。
「……ぎりぎりです。だが——不可能ではない」
「ぎりぎりで十分だ」
砂漠に入った。
最初の二日間は、まだ草がまばらに生えていた。馬は草を食んで水分を補った。三日目から、草が消えた。砂だけの世界になった。
風が砂を巻き上げる。視界が数十歩まで縮まることもある。目に砂が入る。鼻に砂が入る。口を開けば砂を飲む。布で顔を覆って、それでも砂は入ってくる。
気温の差が激しかった。昼は焼けるように暑く、鎧が素肌に張りつく。夜は凍えるほど寒く、毛皮を二枚重ねても震える。同じ日のうちに灼熱と凍結を行き来する。
馬が消耗していった。砂地を歩くのは草原の倍の体力を使う。蹄が砂に沈む。替え馬を交代で使っても、全ての馬が確実に弱っていく。
三日目の夜、最初の馬が倒れた。
四日目に、さらに十頭。五日目に三十頭。
倒れた馬はその場で解体して肉にした。干し肉にする時間はないから、生で食う。草原の男は生肉を食える。馬の血も飲む。水の代わりになる。
「ハン。兵の中に、戻りたいと言う者が出始めています」
ムカリの代わりに本隊の歩調を管理しているトルイが報告してきた。
「戻るな。前に進め。あと二日でオアシスだ。二日だけ耐えろ」
トルイがうなずいて戻っていった。
末の息子は冷静だった。砂嵐の中でも表情を変えない。兵が弱音を吐いても、怒鳴らない。静かに、でも確実に、前へ進ませる。
俺に似ている。良い意味でも、悪い意味でも。
六日目。最初のオアシスに到着した。
椰子の木が十数本、砂の中に立っていた。根元に小さな泉がある。水が湧いている。
先頭の騎兵が泉に駆け寄った。馬から降りて、水に顔を突っ込もうとした。
「止まれ!」
俺が怒鳴った。
「順番だ。馬を先に飲ませろ。馬が死んだら人も死ぬ。人は馬の後だ」
草原の鉄則だ。馬を先に。常に馬を先に。
馬が水を飲んだ。人が水を飲んだ。泉は小さかったが、先頭の千人隊が飲む分は何とか足りた。
後続の隊は、一日遅れで到着する。その間に泉の水が回復する。計算通りだ。ぎりぎりだが、回っている。
オアシスで半日休息した後、次のオアシスに向けて出発した。
これを七回繰り返す。
砂漠の中で、夜、星を見上げた。
北の空に、動かない星がある。あれが北だ。それだけ覚えておけば、草原のどこにいても迷わない——父がそう教えてくれた。あの日、コンギラト族からの帰り道で。
今、俺は草原にいない。砂漠にいる。だが星は同じだ。北の星は動かない。東の空から星が昇り、南を通って西に沈む。それを読めば方角がわかる。
父の教えは、どこまでも俺を導いてくれる。
「父さん。こんなところまで来たよ」
声に出して言った。誰にも聞こえないように。砂漠の風だけが聞いていた。
十八日目。
砂漠を抜けた。
十万の兵のうち、砂漠で失ったのは馬が約三万頭。人の死者は八百人。脱水、熱射病、落馬による負傷。八百人は大きな数字だが、十万で砂漠を横断したことを考えれば——驚異的な少なさだった。
事前に水源を全て把握し、行軍の間隔を計算し、馬の消耗を管理した結果だ。二年間の準備が、ここに生きた。
砂漠を抜けた先に、緑が広がっていた。
アムダリヤ河の流域。畑と果樹園と灌漑水路。人が暮らす土地だ。
そして——その先に、城壁が見えた。
ブハラ。
ホラズム帝国の文化の都。学問の中心地。人口三十万。
ムハンマドの防衛線は、数百キロ北のシルダリヤ河に沿って敷かれている。ブハラの守備兵は、モンゴル軍が砂漠を越えてくるとは思っていない。
奇襲だ。
俺は砂漠を越えて、ホラズム帝国の心臓の背後に現れた。
ボオルチュが横で笑った。砂まみれの顔で、歯だけが白く光っている。
「砂漠を越えたな」
「越えた」
「二度とやりたくない」
「同感だ」
二人で笑った。笑える余裕があるのは、生きている証拠だ。
前方のブハラの城壁が、夕陽に照らされて金色に光っていた。
あの壁の向こうに、ホラズムの富と文化がある。そして、四百五十人の血の代償がある。
「全軍——」
俺は声を張った。砂漠を越えてかすれた声だったが、十万の兵に届いた。
「休息の後、ブハラを攻める。ここからが本番だ」
角笛が鳴った。
砂漠を越えた十万の兵が、最後の力を振り絞って歓声を上げた。
西征が、始まる。




