第二十八話「オトラルの血」
知らせが届いたのは、秋の終わりだった。
ヤムの伝令が、馬を三頭乗り潰して駆け込んできた。顔が土色で、声が震えていた。
「ハン。使節団が——」
「何があった」
「オトラルで——全員、殺されました」
ゲルの中が凍った。
「全員?」
「四百五十人。全員です。太守イナルチュクが、使節団をスパイだと断じて——処刑しました。商品は全て没収。生き残りは、一人もいません」
俺は動かなかった。
動けなかった。
四百五十人。俺が送った四百五十人の商人と使節が、全員殺された。
モンゴルのハンの免状を持った使節を。通商を求めに行っただけの商人を。武器も持たない四百五十人を。
全員、殺した。
最初に来たのは怒りだった。
腹の底の黒い塊が、久しぶりに激しく燃えた。父がタタルに毒殺された時以来の、制御できない炎。
拳を握りしめた。爪が掌に食い込んで血が出た。それでもまだ足りなかった。
ゲルの柱を殴った。木が軋む音がした。もう一度殴った。拳の皮が裂けた。
ボルテが駆け込んできた。俺の拳を見て、何も言わず布を巻いた。
「四百五十人だ」
俺は言った。声が自分のものに聞こえなかった。
「四百五十人。俺が送った。俺が安全だと言った。殺される理由がないと言った」
ボルテは黙っていた。
「あいつらは俺を信じて行ったんだ。モンゴルのハンの免状があれば安全だと。俺がそう言ったから——」
「テムジン」
ボルテが俺の手を握った。
「今は怒っていい。でも——怒りだけで動いちゃだめだ」
わかっている。わかっているが、怒りが止まらない。
「あの男。イナルチュク。ムハンマドの親戚だから好き勝手できると——」
「テムジン。聞いて」
ボルテの声が、静かに、でもはっきりと俺を止めた。
「怒りで戦を始めたら、怒りに振り回される。おまえはそれを知ってるはずだ。ベクテルを殺した時、怒りで動いた。あの時おまえは正しかったかもしれないけど——苦しんだ。母さんに獣と呼ばれた」
「……ああ」
「今度は四百五十人の仇だ。ベクテル一人の比じゃない。だからこそ——冷たくなりなさい。氷みたいに冷たくなって、計算して、確実に潰しなさい。怒りを燃料にするのはいい。でも火に飲まれちゃだめだ」
ボルテの目は濡れていた。でも声は震えていなかった。
俺は深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
怒りが消えたわけじゃない。消えるはずがない。でも——制御できる場所に押し込めた。腹の底に。いつもの場所に。
「……わかった。冷たくなる」
まず外交を試みた。
俺はムハンマド・シャーに使者を三人送った。
「モンゴルのハン、チンギスはホラズムのシャーに問う。オトラルの太守イナルチュクが、モンゴルの通商使節四百五十人を殺害した。これはシャーの命令か。もしシャーの命令でないなら、イナルチュクの身柄を引き渡し、正当な裁きを行え。モンゴルは戦を望まない。だが使節を殺した罪は、償わねばならない」
冷静な文面だった。ボルテの言う通り、冷たくなった。怒りを押し殺して、理性で文面を組み立てた。
使者が出発した。
返答を待つ間、チラウンに命じた。
「ホラズムの全情報を集めろ。返答がどうであれ——準備は始める」
「戦ですか」
「たぶんな。使者を殺す国が、使者の要求を聞き入れるとは思えない」
返答は三ヶ月後に届いた。
使者三人のうち、一人は殺されていた。首を切られて、その首が革袋に入れて送り返された。
残りの二人は——髭を剃られて帰ってきた。
草原の男にとって、髭を剃られることは最大の侮辱だ。男の誇りを削ぎ落とされたに等しい。
二人の使者は、俺の前で跪いて泣いた。
「申し訳ありません。ハン。使命を果たせませんでした」
「おまえたちは悪くない。立て。顔を上げろ」
俺は二人を立たせた。
髭を剃られた顔を見た。屈辱に歪んだ顔。だが生きている。一人が殺された中で、二人は帰ってきた。
「おまえたちが持ち帰ったのは、返答じゃない。宣戦布告だ」
俺は将たちを集めた。
ゲルの中に、全ての将が集まった。
ボオルチュ。ジェルメ。カサル。チラウン。ジョチ。チャガタイ。オゴデイ。トルイ。ジェベ。スブタイ。
スブタイは新しい名前だ。若い将軍で、近年頭角を現してきた男。体が大きく、目が鋭い。ジェベと組んで偵察任務を何度もこなしている。
「ホラズムと戦う」
俺の一言で、ゲルの中が引き締まった。
「ムハンマド・シャーは使者を殺し、使者の髭を剃って送り返した。これは宣戦布告だ。こちらから改めて宣戦する必要はない。向こうがすでに戦を始めた」
ムカリはいなかった。金朝方面で戦い続けている。この戦にはムカリなしで挑む。
「ホラズム帝国の兵力は公称四十万。領土は東西数千キロに及ぶ。金朝と同等か、それ以上の規模だ」
チラウンが情報を広げた。
「ただし内部に問題があります。ムハンマド・シャーは各地の守備軍を信用していません。反乱を恐れて、軍を分散配置しています。四十万の兵力があっても、一箇所に集められるのはその一部です」
「野狐嶺と同じだ。巨大だが分散している」
「はい。さらに——ムハンマドの母トルカン・ハトゥンと、ムハンマドの間に権力闘争があります。軍の一部はトルカンの影響下にあり、ムハンマドの命令を聞かない可能性があります」
敵の内部が割れている。
これは使える。
「こちらの兵力は」
「動員可能な全兵力は二十万。ただしムカリの軍と、金朝方面の守備を除くと——」
「西征に投入できるのは十五万から二十万だ。補給線が長い。全軍を連れていくと後方が空になる」
「二十万で四十万を?」
カサルが聞いた。
「数の比率はケレイト戦より良い。あの時は一万二千で二万五千を崩壊させた。今回は二十万で四十万だ。しかも敵は分散している。各個撃破すれば、一度に全軍と戦う必要はない」
「距離が問題だ」
ボオルチュが言った。
「モンゴルからホラズムまで、数千キロある。行軍だけで何ヶ月もかかる。砂漠もある。補給線は延びきる」
「だから二年かけて準備する」
俺は言い切った。
「今すぐ行かない。怒りに任せて飛び出せば、砂漠で全滅する。二年。二年で情報を集め、兵站を整え、兵を鍛え、全てを整えてから動く」
ボオルチュが目を丸くした。
「おまえが……二年待てるのか」
「待てる。母さんに教わった。膠が乾くまで待て、と」
二年間の準備が始まった。
まず情報。
商人たちを使って、ホラズム帝国の隅々まで情報を集めた。
都市の配置。オトラル、ブハラ、サマルカンド、ウルゲンチ。主要都市の城壁の高さ、厚さ、材質。守備兵の数。水源の位置。食料の備蓄量。
軍の配置。ムハンマドが兵を国境沿いに分散配置していること。シルダリヤ河に沿って防衛線を敷いていること。主力は河の西側に温存されていること。
政治の亀裂。ムハンマドと母トルカンの対立。地方太守の中にムハンマドを嫌う者がいること。ペルシア人とトルコ人の間の民族的緊張。
二年間で集まった情報は、帝国の全てを描く地図になった。チラウンの斥候と、商人たちの報告を合わせて、ホラズム帝国の弱点が見えてきた。
次に兵站。
二十万の軍を数千キロ移動させるための食料、水、馬の飼料。沿道に備蓄を配置するか、現地調達するか。砂漠を越えるルートの水源を全て確認する。
ヤムの中継点を西方に延伸し、行軍ルート上に百箇所以上の駅站を設置した。
そして兵器。
ジェルメが攻城兵器の量産を指揮した。対重式投石機二十基。火箭の一斉発射架台二十基。震天雷千個。弩砲五十門。金朝戦で得た全ての技術を、さらに大規模に展開する。
「金朝の壁より硬い壁があるかもしれない」
ジェルメに言った。
「金朝の壁は版築と石積みだったが、ホラズムの壁は切り出した石だ。投石機だけでは壊せないかもしれない」
「坑道掘りを試しています。壁の下に穴を掘って、支柱を立てて、支柱に火をつけて崩す方法です。金朝の工兵から学びました」
「城壁の下をくぐって、内側から崩すのか」
「そうです。時間はかかりますが、どんな壁でも下は土です。土を掘れば、壁は自重で沈む」
あらゆる手段を用意する。投石機で壊せなければ坑道で崩す。坑道で崩せなければ水攻めで溶かす。水攻めが使えなければ兵糧攻めで干上がらせる。
一つの方法に頼らない。全ての方法を持っておいて、状況に応じて使い分ける。
それが、モンゴルの戦い方だ。
出陣の前夜。
一二一九年、夏の終わり。
俺は五十七歳になっていた。
ゲルの中で、一人で座っていた。
手の中に、あの金の金具があった。ジャムカの腰帯から外された金具。もう何年も、荷物の奥にしまったままだった。久しぶりに取り出した。
手のひらに載せて、見つめた。
ジャムカは死んだ。トグリルは死んだ。タヤンは死んだ。俺と戦った男たちは、みんな死んだ。
明日、二十万の軍を率いて西へ向かう。数千キロ先の、見たこともない国を滅ぼしに行く。
四百五十人の血の代償を払わせるために。
だが——本当にそうか。
本当に四百五十人のために行くのか。
正直に言えば、わからなかった。怒りはある。使節を殺された怒りは、二年経っても消えていない。だが二年間の準備の中で、怒りは冷えて固まって、別のものに変わっていた。
計算だ。
ホラズムを潰せば、シルクロード全体がモンゴルの手に入る。東の中国から西のペルシアまで、一つの通商路で繋がる。商人が安全に旅し、ヤムが情報を運び、技術が流れる。
怒りで始まった戦が、計算で動いている。
ボルテが正しかった。怒りを燃料にするのはいい。でも火に飲まれてはいけない。
金具を握りしめた。
——ジャムカ。おまえが生きていたら、何と言う。
返事はなかった。当たり前だ。死んだ男は答えない。
金具をしまった。いつもの場所に。荷物の一番奥に。
ゲルの外に出た。
二十万の兵が、草原を埋めていた。焚き火の光が地平線まで続いている。明日、この全てが西に向かって動き出す。
空を見上げた。
蒼い天はもう暗くなっていて、星が無数に光っていた。あの星の向こうに、まだ見ぬ世界がある。砂漠と城壁と、百万の民が暮らす都市がある。
その全てを、俺は踏み越えていく。
四百五十人の血のために。
そして——テンゲリが止めろと言うまで。
翌朝、二十万の軍勢が西へ向かって動き出した。
大地が揺れた。五十万頭の馬が草原を埋め尽くし、砂塵が空を茶色に染めた。
俺は先頭にいた。
風が西から吹いてきた。砂漠の匂いがした。乾いた、熱い風。
その風の向こうに、オトラルがある。イナルチュクがいる。そしてムハンマド・シャーがいる。
行く。




