第三話「毒」
父が去ってから、五日が過ぎた。
コンギラト族での暮らしは、思っていたより悪くなかった。デイ・セチェンは穏やかな男で、俺をよそ者扱いしなかった。飯は一緒に食うし、馬の世話も一緒にやる。ボルテの弟たちも、最初は警戒していたけど、俺が馬で競争して勝ってからは態度が変わった。草原の子供は単純だ。強い奴には懐く。
犬には二回噛まれた。
父の忠告は正しかった。コンギラトの犬は確かに気が荒い。よそ者の匂いを嗅ぎつけると、唸りながら近づいてくる。一回目は右の脛を噛まれた。痛かったけど、声は出さなかった。蹴り返したら、犬は逃げた。二回目は左の手首。今度は噛まれる前に石を投げた。犬は二度と近づいてこなくなった。
「噛まれたの?」
ボルテが脛の傷を見て言った。
「大したことない」
「血が出てるじゃん。見せて」
「いいって」
「いいから見せなさい」
有無を言わさない口調だった。母にそっくりだ。結局、ボルテに傷口を洗われて、薬草を塗られた。手つきが妙に慣れていて、弟たちの怪我をいつも手当てしているんだろうなと思った。
「あんた、痛くても絶対顔に出さないね」
「草原の男は——」
「痛い時に痛いって言わないのは、強いんじゃなくて意地っ張りなだけだよ」
俺は黙った。言い返す言葉が見つからなかった。この子には、なぜか勝てない。
そんな日が続いていた。穏やかで、静かで、少しだけくすぐったい日々。草原にはいつもと変わらない風が吹いていて、空はどこまでも青くて、このままずっと続くんだと思っていた。
六日目の朝だった。
東の方角から砂塵が上がった。一騎。全力で走っている。
俺はゲルの前に立って、それを見ていた。遠くからでもわかる。馬を替えずに走り続けたんだろう、馬が泡を吹いている。乗っている男の姿勢も崩れていて、鞍にしがみつくように前のめりになっていた。
嫌な予感がした。
理由はない。ただ、腹の底が冷たくなった。空は青いのに、風は温かいのに、体の中だけが急に凍りついた。
騎手はデイ・セチェンのゲルの前で馬を止めた。馬から転がり落ちるように降りて、何か叫んでいる。俺は走った。
「——テムジンはどこだ。イェスゲイの息子はどこだ」
男の顔を見て、名前を思い出した。モンリク。父の部下の一人だ。顔が土色をしていて、唇が割れている。何日もろくに水を飲んでいない顔だった。
「ここにいる」
俺が声をかけると、モンリクは俺を見た。目が赤かった。
「テムジン……すぐに来い。お父上が——」
モンリクの声が詰まった。
「父が、何だ」
「毒を盛られた」
頭が真っ白になった。
「タタル族の……宴で。帰りの道で体を悪くされて……戻ったが、もう……」
モンリクの目から涙がこぼれた。この男が泣いているということは、もう——
「まだ生きてるのか」
俺の声は、自分でも驚くほど低かった。
「俺が出た時は……生きていた。でも、三日前だ。三日前の話だ」
三日。馬を飛ばして三日の距離。今から全力で走っても、三日かかる。
父が毒を盛られたのは、俺をここに残して帰る途中。タタル族の陣地を通りかかった時。父は以前、タタル族の族長を捕らえている。俺の名前は、その族長からもらった。タタルにとって父は仇だ。
宴に誘って、酒に毒を入れた。
草原の掟で、宴に招いた客を殺すのは最大の恥だ。でもタタルはそれをやった。恥も掟も関係ない。ただ、殺したかったから殺した。
「馬を貸してくれ」
俺はデイ・セチェンに言った。声は震えなかった。震えている場合じゃなかった。
「替え馬を二頭。俺の馬と合わせて三頭あれば、二日で着ける」
デイ・セチェンは黙って俺を見た。それからうなずいて、馬の支度を命じた。
ボルテが走ってきた。俺の顔を見て、何かを察したんだろう。何も聞かなかった。ただ、革袋に水と干し肉を詰めて、俺に押しつけた。
「食べなきゃ走れないでしょ」
「……ああ」
「絶対帰ってきて」
ボルテの目が真っ直ぐに俺を見ていた。泣いてはいない。でも、唇がわずかに震えていた。
俺はうなずいた。馬に飛び乗って、走った。
振り返らなかった。
走った。
ひたすら走った。
馬を三頭使い回して、休まず走った。父に教わった通りだ。一頭が疲れたら次の馬に乗り換える。絶対に馬を潰さない。でも今は、それすらもどかしかった。乗り換える時間すら惜しい。
草原が流れていく。空が流れていく。風が顔を切る。
頭の中で、同じ言葉がぐるぐる回っていた。
間に合え。間に合え。間に合え。
夜になっても走った。月明かりだけを頼りに、草原を北へ。星の位置で方角を確かめる。それも父に教わったことだ。北の空に動かない星がある。そこが北だ。それだけ覚えておけば、草原のどこにいても迷わない。
父が教えてくれたこと。弓の作り方。馬の乗り方。星の読み方。風の見方。全部、全部、父から教わった。
その父が死にかけている。
二日目の夜明け前、遠くにゲルの群れが見えた。オノン河のほとりに並ぶ、見慣れた形。
俺の家だ。
馬を走らせた。最後の力を振り絞って。
ゲルの前に人が集まっていた。母がいた。弟のカサルとカチウンがいた。みんな、暗い顔をしていた。
母が俺を見た。
ホエルンの目は赤く腫れていた。でも泣いてはいなかった。泣き終わった後の目だった。
「間に合った?」
俺は聞いた。
母は何も言わずに、ゲルの入口を開けた。
父は、横たわっていた。
毛皮の上に仰向けに寝ている。目は閉じていた。顔が灰色になっていた。あの日に灼けた浅黒い肌が、まるで別人みたいに色を失っている。頬がこけて、唇がひび割れていた。
でも、まだ息をしていた。
かすかに、かすかに、胸が上下している。
「父さん」
声をかけた。返事はなかった。
「父さん、俺だ。テムジンだ」
父の目が、薄く開いた。
焦点が合っていない。目の奥の光がほとんど消えかけていて、あの鷹の目の面影は、もうほとんどなかった。
でも、俺を見た。
俺だとわかったのかどうか。わからない。でも父の唇が動いた。
「……テム、ジン」
声にならない声だった。息の隙間から漏れるような音。
俺は父のそばに膝をついた。大きかった手を握った。驚くほど細くなっていた。あの、赤子の俺を片手で持ち上げた手が。弓を引けば草原最強と言われた手が。骨と皮だけになっていた。
「タタルに……やられた」
父がかすれた声で言った。
「わかってる」
「酒に……入れやがった。宴の……席で」
「わかってる。喋るな。体力使うな」
「聞け」
父の目に、一瞬だけ光が戻った。最後の力を振り絞るように、俺の手を握り返した。
「トグリル……ケレイト族の……トグリル・ハンを、頼れ」
「トグリル?」
「俺の……盟友だ。あいつなら……おまえたちを……」
声が途切れた。息が荒くなった。
「母さんを……弟たちを……頼む」
父の目から涙が一筋流れた。
草原の男は泣かない。そう教えたのは、この人だ。でも今、この人が泣いている。妻と子を残して死んでいく男の涙だった。
「頼む……テムジン」
俺は父の手を両手で握りしめた。
「わかった。俺がやる」
何をやるのか、わかっていなかった。九歳の子供に何ができるのかもわからなかった。でもそう言うしかなかった。今、この瞬間に「わかった」と言わなければ、この人は目を閉じられない。
父の口元が、わずかに動いた。
笑ったのかもしれない。安堵したのかもしれない。
それが、俺が見た父の最後の表情だった。
握っていた手から、力が抜けた。
胸の上下が、止まった。
ゲルの中が静まり返った。天窓から差し込む光の中で、細かい塵がゆっくりと舞っている。それだけが動いていた。
「父さん」
返事はなかった。
「父さん」
もう一度呼んだ。返事はなかった。当たり前だ。もう聞こえていない。わかっている。わかっているのに、声が止められなかった。
母がゲルに入ってきた。俺の肩に手を置いた。何も言わなかった。
俺は父の手を握ったまま、動けなかった。
涙は出なかった。泣けなかった。草原の男は泣かないからじゃない。泣くという行為が、体のどこを探しても見つからなかった。代わりに、腹の底に黒くて重い塊が沈んでいくのを感じた。
怒りだったのかもしれない。悲しみだったのかもしれない。名前のつけられない何かだった。
一つだけ、はっきりとわかったことがある。
世界は、こういう場所だ。
宴の席で笑いながら毒を盛る奴がいる。掟も信義も関係なく、殺したい奴を殺す。力のない者は、殺される。それが草原だ。父が教えてくれた美しい草原は、同時に、こういう場所でもあった。
九歳の俺には、まだ何もできなかった。
タタルに復讐する力もない。一族を守る力もない。父の代わりになる力も、知恵も、人望も、何もない。
ただ、あの黒い塊だけが腹の底に沈んでいた。溶けない。消えない。重くて、熱くて、どこにもやれない。
それを抱えたまま、俺は立ち上がった。
ゲルの外に出ると、空は青かった。
いつもと同じ、どこまでも続く蒼い天。父が生きていた時と何も変わらない空。父が死んだことなんか、テンゲリは気にもしていないみたいだった。
風が吹いた。冷たい風だった。
俺はその風の中に立って、空を見上げた。
——見てるのか、テンゲリ。
心の中で呟いた。
——見てるなら、覚えておけ。俺は生き残る。何があっても。
それは祈りではなかった。誓いでもなかった。
もっと原始的な何か。腹の底の黒い塊から滲み出た、剥き出しの意志だった。
草原の風が、少年の体を叩いた。
九歳の秋。イェスゲイ・バアトルは死に、テムジンの世界は壊れた。




