第二話「鷹と弓」
最初の記憶は、馬の背中だ。
揺れる視界。風の匂い。父の腕に抱かれて、草原を駆けている。まだ自分では手綱も握れない頃だった。怖くはなかった。父の腕は太くて硬くて、絶対に落とさないという確信があった。
俺が自分の足で馬に乗れるようになったのは、三つの時だ。
草原の子供はみんなそうだった。歩くより先に馬に乗る。言葉を覚えるより先に、馬の扱い方を体で覚える。鐙に足が届かないうちは、鞍の前に括りつけた革紐にしがみつく。落ちたら自分で起き上がって、また乗る。泣いても誰も助けない。草原では、泣く子供は狼に食われるからだ。
俺は泣かなかった。
落ちても、蹴られても、引きずられても、歯を食いしばって馬に戻った。それを見ていた父が、ある時ぼそっと言った。
「根性だけはあるな、おまえ」
褒められたのかどうかわからなかった。でも、悪い気はしなかった。
九つになった夏、俺は父と二人で弓を作っていた。
ゲルの前に座り込んで、材料を並べている。弓の芯になる樺の木。内側に貼る山羊の角。外側に巻く鹿の腱。そしてそれらを接着する膠——獣の骨や皮を煮詰めて作る、べたべたした接着剤だ。
「いいか、テムジン。弓ってのは、ただの棒じゃない」
父が樺の木を手に取って言った。
「木だけだと弱い。曲げたらすぐ折れる。でも、内側に角を貼ると圧縮に強くなる。外側に腱を巻くと引っ張りに強くなる。違う素材を組み合わせることで、一つの素材じゃ絶対に出せない力が生まれるんだ」
俺は父の手元を食い入るように見ていた。
膠を火で温めて、角の表面に薄く塗る。木の芯に貼り合わせて、革紐できつく縛る。これを何日もかけて乾かす。乾いたら今度は腱を細くほぐして、外側に一本ずつ貼っていく。
「急ぐな。膠が完全に乾く前に次の層を重ねると、中で剥がれる。一層ごとに待て。弓は、待てる人間にしか作れない」
俺は黙ってうなずいた。待つのは得意じゃない。母にも「おまえは待てない子だ」と言われてきた。でも弓だけは別だった。この複雑な工程の一つ一つが、理にかなっていると感覚でわかったからだ。
完成までに一年以上かかる。乾燥に時間がいるし、気温や湿度で膠の乾き方が変わる。だから草原の弓師は季節を読んで工程を進める。
「定住の民の弓はでかい。人の背丈ほどもある。それは一種類の木だけで作ってるからだ。飛距離を出すには長くするしかない」
父は自分の弓を持ち上げた。馬上で扱えるように短く湾曲した、美しい弓だった。
「でも俺たちの弓は短い。馬の上で自在に使える。それでいて、あいつらの長弓より遠くまで飛ぶ。なぜだかわかるか」
「角と腱で、力を溜めてるから」
俺が答えると、父の口元が少しだけ緩んだ。
「そうだ。素材を組み合わせて、短い中に力を詰め込んでる。これが俺たち遊牧民の技術だ。でかいものを作るんじゃない。小さいものに、最大の力を込める」
俺はその言葉を、ずっと覚えていた。
弓を引くことは、呼吸することと同じだった。
毎朝、陽が昇る前に起きる。馬に乗って草原に出る。的は立てない。走る馬の上から、地面に刺した棒を射る。動く兎を射る。飛ぶ鳥を射る。
最初はまったく当たらなかった。
馬が揺れる。体が跳ねる。狙いを定めた瞬間にはもう的がずれている。矢は草原のどこかに消えていき、毎回それを探しに行くのが面倒で仕方なかった。
「的を見るな」
と、父が言った。
「は?」
「的を目で追うから遅れる。的がどこに動くか、体で感じろ。馬の揺れと、風の向きと、的の動きを全部まとめて一つの流れとして捉えるんだ。頭で考えるな。考えた時にはもう遅い」
意味がわからなかった。でも、父の言う通りにしてみた。
的を見ない。目は開いているけど、焦点を合わせない。馬の動きに体を預けて、風を感じて、全体の「流れ」の中に自分を溶かす。
ある朝、それが起きた。
兎が草の中から飛び出した瞬間、俺の手が勝手に弓を引いていた。考えていない。狙ってもいない。ただ体が動いて、指が弦を離して、矢が飛んだ。
兎は転がった。
俺は自分の手を見つめた。今、何が起きた? 自分で射ったのに、自分で射った気がしない。まるで風が矢を運んだみたいだった。
「それだ」
父が後ろで言った。珍しく、笑っていた。
「今のを忘れるな。それが草原の射法だ。考えるんじゃなくて、なるんだ。弓と、矢と、馬と、風と、全部と一つになる。そうすれば外さない」
九歳の夏だった。この日から、弓は俺の体の一部になった。
その年の秋、父が突然言った。
「テムジン、嫁を探しに行くぞ」
「嫁?」
「おまえの嫁だ。そろそろいい歳だ」
九つで嫁探し。草原では普通のことだった。早いうちに有力な氏族と婚約を結んで、同盟関係を固める。それが草原の政治だ。
二人で馬に乗って南へ向かった。父は替え馬を二頭引いている。俺も自分の馬と替え馬が一頭。合計六頭で、草原をひたすら南下した。
道中、父はいろんな話をしてくれた。
氏族同士の力関係。どの部族が強くて、どこと組むべきか。誰が信用できて、誰が裏切るか。草原の政治は、武力だけじゃ成り立たない。婚姻と同盟と裏切りが複雑に絡み合っている。
「強いだけじゃ足りない。強くて、賢くて、人を見る目がある奴だけが生き残る」
俺は馬の上で、黙って聞いていた。
数日走ったところで、コンギラト族の領地に入った。草原の民の中でも、美しい娘が多いことで有名な一族だ。
族長のデイ・セチェンが、俺たちを迎えた。がっしりした体に穏やかな目をした中年の男で、父とは旧知の間柄らしかった。
「イェスゲイ、久しぶりだな。息子か?」
「テムジン。九つになった」
デイ・セチェンが俺の顔をじっと見た。長い間見ていた。俺は目をそらさなかった。
「……いい目をしている」
デイ・セチェンが静かに言った。
「この子の目は、火だな。中に火がある。こういう目をした子供は初めて見た」
父は何も言わなかったが、少しだけ胸を張ったように見えた。
「実はな、昨夜夢を見た」
デイ・セチェンが続けた。
「白い鷹が俺の腕に降りてくる夢だ。目が覚めて、今日は何か来るなと思っていたんだ。おまえたちのことだったか」
草原では、夢は天の知らせだと信じられていた。白い鷹は最上の吉兆だ。
「うちの娘を見ていけ」
ボルテは、俺より一つ年上だった。
ゲルの入口から出てきた少女を見た時、俺は少しだけ息が止まった。
きれいだった——と思う。でも、それだけじゃなかった。肌が白くて、目が大きくて、確かにきれいなんだけど、俺の目を引いたのは別のところだった。
立ち方だ。
背筋がまっすぐで、足元が揺るがない。風が吹いても、びくともしない立ち方。母を思い出した。母と同じだ。この子も、折れない芯を持っている。
ボルテも俺を見ていた。しばらく見つめ合って、ボルテが先に口を開いた。
「あんたが、イェスゲイの息子?」
「そうだけど」
「思ったより小さいね」
少しむっとした。確かに同い年の子より体は小さい。でも馬に乗れば誰にも負けないし、弓だって——
「でも、目はいいね」
ボルテがそう付け足した。父のデイ・セチェンと同じことを言った。
「何がいいんだよ」
「さあ。うまく言えない。でも、弱い人の目じゃない」
返事に困った。褒められてるのか値踏みされてるのかわからない。たぶん、両方だ。
ボルテはふっと笑った。その笑い方が、なんだか悔しいくらい自然で、俺は頬が少し熱くなるのを感じた。
婚約はすぐにまとまった。
俺はしばらくコンギラト族のもとに残って、ボルテの家族と一緒に暮らす。それが草原の婚約の作法だった。花婿が花嫁の家で暮らし、その一族に認められてから正式に妻として迎える。
出発の朝が来た。父が帰る日だ。俺は一人、ここに残る。
馬の支度をしている父の背中を見ていた。広い背中だ。この背中に抱かれて、初めて馬に乗った。この手で弓の作り方を教わった。この声で、草原の男の生き方を叩き込まれた。
「テムジン」
父が振り返った。
「犬に気をつけろ」
唐突だった。
「犬?」
「コンギラトの犬は気が荒い。おまえはよそ者だ。犬はよそ者に容赦しない。気をつけろ」
それだけ言って、父は馬に乗った。
俺は後になって気づいた。あれは犬の話なんかじゃなかった。「よそ者」として暮らす息子への、父なりの忠告だったのだ。草原では、よそ者は犬みたいに扱われることがある。油断するな。弱みを見せるな。でもそれを直接言うのは、父のやり方じゃなかった。
馬が遠ざかっていく。父の背中がどんどん小さくなる。
俺は手を振らなかった。草原の男は手を振らない。ただ立って、見送る。
父の姿が丘の向こうに消えるまで、俺はずっと見ていた。
まさか、これが最後になるとは思わなかった。
あの広い背中を、もう二度と見ることはないのだと。
俺がそれを知るのは、もう少し先のことだ。




