第四話「追放」
父が死んで、三日が過ぎた。
草原の葬儀は簡素だ。遺体を丘の上に運び、天と大地の間に横たえる。棺も墓もない。肉は獣と鳥が食い、骨は風に晒されて土に還る。それが草原の死に方だった。テンゲリの下で生まれた者は、テンゲリの下に返す。
父を丘に運んだのは、俺とカサルと、父の部下だった男たちだった。まだ九歳の体で、大人の男の体は重かった。カサルは七歳で、泣きながらも父の足を持ち上げていた。弟は弓の腕がよくて、俺より体が大きい。でもまだ七歳だ。泣いて当然だ。
俺は泣かなかった。泣けなかった。腹の底の黒い塊が、涙の代わりにそこにあった。
丘の上に父を横たえて、空を見上げた。青い天。いつもと同じ。
母は丘に来なかった。ゲルの中で、末の弟テムゲと妹のテムルンを抱いていた。テムゲはまだ二歳で、何が起きたかわかっていない。テムルンは赤子だ。母の乳を吸いながら眠っていた。
父がいなくなった世界は、見た目は何も変わっていなかった。同じ草原、同じ風、同じ空。でも、何かが決定的にずれていた。目に見えない柱が一本抜かれたみたいに、全体がぐらぐらしていた。
そしてその「ぐらぐら」は、すぐに形になった。
七日目の朝、タイチウト氏の長、タルグタイ・キリルトクがゲルにやってきた。
タイチウト氏はボルジギン一門の中でも最大の勢力だ。父のイェスゲイとは同じ一門だが、昔から主導権を巡って揉めていた。父が生きている間は、父の武勇と人望で均衡が保たれていた。でも父は死んだ。
タルグタイは太った男だった。肉のついた顔に小さな目。笑うと目がさらに小さくなって、何を考えているかわからなくなる。父は生前、この男のことをあまり信用していなかった。
「ホエルン。イェスゲイのことは残念だった」
タルグタイはゲルに入ると、母にそう言った。声には同情の響きがあったが、目は笑っていなかった。
「明日、我々は北へ移る。夏の放牧地に向かう」
母がうなずいた。季節ごとの移動は遊牧民の基本だ。草が尽きる前に次の場所へ移る。それはいつものことだ。
「おまえたちは——」
タルグタイはそこで言葉を切った。一瞬だけ、母の目を見た。それからすぐに目をそらした。
「ついてこなくていい」
母の表情が変わった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ。イェスゲイは死んだ。おまえと子供たちを養う義理は、俺たちにはない」
ゲルの中の空気が凍った。
俺は母の後ろに立っていた。カサルが横にいた。異母兄のベクテルとベルグテイも、少し離れたところで聞いていた。
「この子たちはイェスゲイの子だ。ボルジギンの血を引いている。一門が守るのが——」
「イェスゲイがいたから、一門はまとまっていた」
タルグタイが母の言葉を遮った。
「イェスゲイがいなくなった今、残されたのは女と子供だけだ。養う余裕はない。食い扶持が増えれば、全員が飢える。俺は一門全体のことを考えなきゃならない」
母の目が光った。怒りの光だった。
「食い扶持の話か。家畜はどうする。イェスゲイの家畜は——」
「家畜は一門の財産だ。長が死ねば、一門が引き継ぐ。そういう決まりだろう」
つまり、こういうことだ。
家畜は全部持っていく。馬も、羊も、山羊も。従者も連れていく。俺たちには何も残さない。女と子供だけを草原に置き去りにする。
殺すんじゃない。ただ、見捨てる。
草原で家畜を失うことは、死ぬことと同じだ。乳が出ない。肉がない。移動する馬もない。冬が来たら凍え死ぬ。タルグタイはそれをわかっていて、やっている。
直接手を下さない。でも確実に殺す。タタルの毒と同じだ。やり方が違うだけで、やっていることは同じだった。
母は立ち上がった。
「わかった。出ていけ」
静かな声だった。怒りが深すぎて、逆に静かになる時の声だ。俺は母のこの声を知っていた。一番怖い時の声だ。
タルグタイは少し顔を引きつらせたが、何も言わずにゲルを出た。
翌朝、タイチウト氏は動き始めた。
ゲルを畳み、牛車に積み、家畜の群れをまとめて北へ向かう。何百頭もの羊と馬が砂塵を上げて移動していく。従者たちが忙しく走り回る。ついこの間まで父の部下だった男たちが、一人も振り返らずに去っていく。
俺はゲルの前に立って、それを見ていた。
一人だけ、老人が立ち止まった。父の古い部下だ。俺に向かって何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わずに列に戻った。それだけだった。
怒りが込み上げたが、どうにもならなかった。追いかけて殴りかかったところで、九歳の子供が大人の集団に何ができる。
「行かせとけ」
母が後ろで言った。
振り返ると、母は末の弟テムゲを背負い、片手にテムルンを抱え、もう片方の手に長い棒を持っていた。
「あいつらはあいつらだ。あてにならない連中を追いかけても意味がない」
母の目は乾いていた。涙の跡もない。腹を括った人間の目だった。
「母さん、どうするんだ。家畜がない。馬もない。冬になったら——」
「死なないよ」
母は俺の目をまっすぐ見た。
「私が死なせない。おまえたちは、絶対に死なせない」
その声に、迷いはなかった。
地獄のような日々が始まった。
俺たちに残されたのは、ゲルが二つと、わずかな道具と、母と子供七人の体だけだった。
俺が九歳。カサルが七歳。カチウンが六歳。テムゲが二歳。テムルンが赤子。異母兄のベクテルが十歳。ベルグテイが九歳で俺と同い年。まともに働けるのは、母と、俺とベクテルとベルグテイとカサルだけだ。
食べ物がない。
母は毎朝、夜明け前に起きた。長い棒を持ってオノン河の岸辺に行き、野草を掘った。ノビル、ユリの根、野生のネギ。食べられるものは何でも掘り出した。どの草が食べられてどの草が毒かを、母は全部知っていた。
「草原は、知っている者には食わせてくれる。知らない者を殺す。それだけの話だ」
母はそう言いながら、泥だらけの手で根を洗っていた。
俺とカサルは、オノン河で魚を獲った。
釣り針なんかない。先の尖った骨を曲げて針にした。糸は馬の尾の毛を縒り合わせたもの。こんな道具で魚が獲れるのかと思ったが、獲れた。小さな魚だ。でも焼いて食えば、一日分の命をつなげる。
兎を追うこともあった。弓は持っていた。父に作り方を教わった弓。これだけは誰にも渡さなかった。矢も自分で作った。石を割って矢尻にし、鳥の羽を矢羽根にする。粗末な矢だったが、飛んだ。
でも、食べ物は常に足りなかった。
腹が減ると、体が動かなくなる。頭がぼんやりする。何もやる気が起きなくなる。弟のカチウンは、ある日座り込んだまま動けなくなった。六歳の体に、飢えは重すぎた。
母がカチウンを抱き上げて、自分の口に含んだ野草を噛み砕いて、口移しで食べさせた。鳥が雛にやるのと同じだ。
その時、俺は思った。
この人は、すごい。
父は強かった。草原で最も勇猛な男だと謳われた。でも母は、父とは違う種類の強さを持っている。折れない。絶対に折れない。子供が一人でも生きている限り、この人は立ち続ける。狼が子を守る時の、あの目をしている。
俺の強さは、母から来ている。
父から弓と馬を教わった。でも「絶対に折れない」という芯は、この人からもらったものだ。
夏はまだましだった。草原には食べられる植物がある。河には魚がいる。でも秋が来て、草が枯れ始めると、状況は一気に悪くなった。
野草が消えた。魚も深い場所に潜って、なかなか獲れなくなった。
兎も鹿も、冬に備えて脂肪を溜めるこの時期が一番用心深い。弓の腕は上がっていたけど、獲物がいなければ意味がない。
風が冷たくなった。朝起きると、草に霜が降りていた。
冬が来る。
家畜がない俺たちに、冬を越す手段はほとんどなかった。毛皮が足りない。燃料の乾燥糞もない。家畜がいないから糞がない。薪になる木は、このあたりにはわずかしか生えていない。
「薪を集めろ。枝でも根っこでも何でもいい。燃えるものは全部集めろ」
母の指示で、俺たちは毎日、河沿いの林を歩き回って薪を拾った。カサルと二人で、背中に束ねた枝を担いで何往復もした。ベクテルとベルグテイも別の方向に散って集めていた。
この頃から、ベクテルとの空気がおかしくなり始めた。
ベクテルは父の二番目の妻の子だ。俺より一つ年上で、体も大きい。無口で、あまり笑わない。父が生きている頃は特に問題なかった。でも父が死んで、食い物が足りなくなってから、ベクテルの態度が変わった。
ある日、カサルが河で小さな魚を二匹獲った。全員で分ければ、一人の口には入らないくらいの量だ。カサルが母のところに持っていこうとした時、ベクテルが横から魚を取り上げた。
「俺が食う。俺が一番年上だ」
カサルが言い返した。
「俺が獲ったんだ。母さんに渡す」
「年上が先に食う。それが決まりだ」
「そんな決まりないだろ」
ベクテルはカサルを押し倒して、魚を持っていった。
俺はそれを見ていた。止めるべきだった。でも、止められなかった。ベクテルは俺より体が大きいし、あの時の俺には、余計な争いをする体力がなかった。
カサルが泣いていた。悔しくて泣いていた。七歳の弟が、自分で獲った魚を取られて泣いている。
腹の底の黒い塊が、また少し大きくなった気がした。
冬が来た。
草原の冬は、殺しにくる。
気温は指が動かなくなるほど下がり、風は骨まで凍らせる刃になる。雪が草原を覆い、すべてが白く、静かになる。その静けさは、美しさじゃない。死の静けさだ。
ゲルの中で、俺たちは身を寄せ合って寒さに耐えた。薪は少しずつ燃やした。一度に燃やすと、すぐになくなる。火は小さく、最低限の暖を取るだけ。それでも寒くて、夜中に何度も目が覚めた。
食べ物は、干した魚と、秋のうちに集めた木の実だけだった。それも日に日に減っていく。
母は自分の分を減らして、弟たちに回していた。
俺はそれを知っていたが、何も言わなかった。言ったところで母は聞かない。代わりに、俺も自分の分を少し減らしてカチウンに渡した。六歳の弟は、もう泣く力もなくなっていた。ただ黙って、渡されたものを食べていた。
ある夜、テムルンの泣き声が止まった。
母の顔が青ざめた。慌てて赤子を抱き上げ、自分の体に押しつけて温めた。しばらくして、小さな泣き声が戻ってきた。
母は泣かなかった。泣く代わりに、赤子をきつく抱きしめて、一晩中離さなかった。
その夜、俺は眠れなかった。
暗いゲルの中で、天窓から星が見えた。冬の星は夏より近くて、冷たくて、きれいだ。父と一緒に見た星と、同じ星だ。
——俺たちは、ここで死ぬのか。
初めて、そう思った。
本気で思った。このまま春が来る前に、食べ物が尽きて、一人ずつ動けなくなって、冷たくなって、死ぬ。その光景がはっきりと頭に浮かんだ。
でも、隣で母が赤子を抱いて起きていた。
目が合った。暗闇の中で、母の目だけが光っていた。
「寝なさい」
母が言った。
「明日も食べ物を探さなきゃいけない。寝ないと体がもたない」
「……母さんこそ」
「私は大丈夫。私はね、おまえたちが生きてる限り、絶対に倒れない」
その声を聞いて、俺は思った。
ああ、まだ死なない。
この人がいる限り、まだ死なない。
俺は目を閉じた。
春が来た。
長い、長い冬だった。何度も死にかけた。でも死ななかった。母が死なせなかった。
雪が溶けて、草原に緑が戻り始めた時、俺は地面に座り込んで、しばらく動けなかった。
生きてる。全員生きてる。
母が、野草を掘りに行く後ろ姿を見た。背中が少しだけ小さくなっていた。冬の間にだいぶ痩せた。でも歩き方は変わらない。まっすぐで、力強くて、折れていない。
俺は立ち上がった。
弓を手に取った。矢を背負った。
オノン河の方に歩いていく。春になれば魚が戻ってくる。兎も出てくる。鳥も飛ぶ。獲れるものは全部獲る。もう誰にも、弟の魚を横取りさせない。
腹の底の黒い塊は、冬の間にさらに重くなっていた。
でも、それはもう俺の一部だった。怒り。悲しみ。無力さ。全部まとめて、腹の底に沈んでいる。消そうとは思わない。これが、俺を動かす燃料だ。
春の風が、頬を撫でた。
冬の風とは違う。温かくて、柔らかくて、生きている風だった。
俺は十歳になっていた。




