第二十五話「鉄を学ぶ」
野狐嶺の後、金朝の北方は一気に崩れた。
城壁都市が次々と降伏していく。野戦軍を壊滅させられた金朝には、もう城を守るだけの兵力がなかった。降伏しない城には包囲を敷いて兵糧攻めにした。時間はかかるが、確実に落ちる。
だが、全ての城が兵糧攻めで落ちるわけじゃなかった。
大きな城市——水源を内部に持ち、備蓄が豊富な城は、何ヶ月包囲しても落ちない。金朝の首都・中都に至る道には、そういう城がいくつも立ちはだかっていた。
壁を壊す力が、どうしても要る。
野狐嶺で鹵獲した技術者たちを、ジェルメの管轄下に集めた。金朝の工兵、鍛冶師、火薬職人。合わせて三百人以上。
俺はジェルメに言った。
「この三百人が、次の戦の鍵だ。こいつらに好きなだけ材料と人手を与えろ。作りたいものを作らせろ。完成したものを、俺に見せろ」
最初に完成したのは、対重式投石機だった。
西夏で使った牽引式は、三十人がロープを引いて石を飛ばす。人力だから、投げられる石の重さと飛距離に限界がある。
対重式は違う。
腕木の片側に巨大な錘をつける。木材と石を詰めた箱で、重さは一トン近い。反対側の端に石を載せた皮袋を取りつける。錘を持ち上げておいて、落とす。錘が落ちる力で腕木が回転し、石が飛ぶ。
人力ではなく重力が動力だ。
金朝から来た老技師——劉仲禄という男が、設計を担当した。六十過ぎの痩せた男で、手が震えていたが、木炭で地面に描く設計図は精緻を極めた。
「この大きさなら、百五十キロの石を四百歩先まで飛ばせます」
「牽引式の倍か」
「倍以上です。しかも人を集める必要がない。錘を巻き上げる人間が十人いれば、あとは繰り返し放てます。発射の間隔も牽引式より短い」
試射を見た。
巨大な腕木が回転して、石が空を飛んだ。放物線を描いて飛ぶ石は、遠くの丘の斜面に激突し、砂と岩の破片を撒き散らした。
地面が揺れた。
ボオルチュが隣で目を丸くしていた。
「……あれが、壁を壊すのか」
「壊す。何発も撃ち込めば、どんな壁でも崩れる」
「弓じゃない世界だな」
「ああ。弓じゃない世界だ」
草原の戦いは弓と馬で決まった。だがこれからは違う。城壁の世界では、弓だけじゃ勝てない。石を飛ばし、壁を壊し、門を砕く力がいる。
俺たちにはその力がなかった。だが今、敵から奪った技術者がそれを作ってくれている。
火薬兵器は、もっと衝撃だった。
震天雷。
鉄の容器に黒色火薬を詰めたもの。容器の口から導火線が出ていて、火をつけて投げる。数秒後に爆発する。
金朝の火薬職人——姓を忘れたが、若い男だった——が、草原の空き地で実演してくれた。
導火線に火をつけて、五十歩先に投げた。全員が耳を塞いだ。
轟音。
地面が揺れた。土と石の破片が飛び散った。煙が立ち上り、焦げた匂いが風に乗ってきた。投げた場所に、深さ一尺(約三十センチ)の穴が開いていた。
ボオルチュが後ずさった。
「何だ今の。雷か」
「火薬だ。硫黄と硝石と木炭を混ぜた粉。火をつけると爆発する」
「爆発……」
「これを城壁の根元で爆発させたら、壁が崩れる。門に投げ込めば門が吹き飛ぶ。馬の群れに投げ込めば馬がパニックになる」
ボオルチュの顔から笑いが消えていた。いつも気楽な男が、真剣な目で震天雷の穴を見ていた。
「テムジン。これは——弓とは違う。弓は人の腕で引く。刀は人の手で振る。でもこれは——人の手を離れてる。こんなものが戦で使われたら、戦の形が変わるぞ」
ボオルチュの直感は正しかった。だが、俺の答えは決まっていた。
「変わるなら、変えた側にいたほうがいい。変えられる側にいたら、死ぬだけだ」
火箭も試した。
矢の後端に火薬の筒を括りつけたもの。火をつけると、火薬が燃焼して推進力を生む。矢が自力で飛んでいく。人が弓で射るよりはるかに遠くまで届く。ただし命中精度は悪い。
「精度が悪いなら、数を撃てばいい」
俺はそう判断した。
「百本の火箭を一斉に放てば、そのうち何本かは当たる。城壁の上にいる弓兵を追い払うには十分だ。精度じゃない、密度だ」
火箭百本を束ねて一斉に放つ架台を作らせた。ジェルメと劉仲禄が設計し、モンゴルの木工職人が組み立てた。草原の木工技術と金朝の火薬技術の組み合わせだ。
試射。
百本の火箭が一斉に飛び出した。煙を引いて空を渡る火の矢の群れ。壮観だったが、着弾は散らばった。広い範囲に火箭が突き刺さり、地面が燃えた。
「これは——」
ジェルメが呟いた。
「城の中に撃ち込めば、火事が起きますね」
「そうだ。城壁を壊すのは投石機の仕事だ。火箭の仕事は、壁の向こうを燃やすことだ。壁の中が燃えれば、守備兵は消火に走る。消火に走れば、壁の守りが薄くなる。薄くなったところを投石機で叩く」
「複合攻撃ですか」
「弓と同じだ。一つの武器じゃ勝てなくても、組み合わせれば勝てる」
技術者たちとの日々は、不思議な時間だった。
俺は戦士だ。弓と馬と刀の世界で育った。火薬も投石機も、俺の手では作れない。仕組みを理解はできるが、設計はできない。
だが、使い方はわかる。
どの技術をどこに使えば最大の効果が出るか。それは戦の問題であって、技術の問題じゃない。技術者は「何ができるか」を教えてくれる。俺が決めるのは「それをいつ、どこで、どう使うか」だ。
これは、十進法の軍制と同じ発想だった。
俺は一人で万の兵を指揮することはできない。でも十人隊長に任せて、百人隊長に束ねさせて、千人隊長が統括すれば、万を動かせる。
技術も同じだ。俺が投石機を作る必要はない。劉仲禄が作ればいい。俺が火薬を調合する必要はない。金朝の火薬職人がやればいい。俺の仕事は、その技術者たちを「使う」ことだ。
「使える者は、出自を問わず使う」。
この原理は、草原の中だけの話じゃなかった。国境を越えて、文明を越えて、どこまでも適用できる原理だった。
ある日、劉仲禄が俺のゲルを訪ねてきた。
老技師は少し緊張した顔をしていた。
「ハン。一つ、お願いがあります」
「何だ」
「私の家族を、呼び寄せてもいいでしょうか。妻と孫が、金朝の領内にいます。この戦が続けば、あの子たちが——」
「呼べ。チラウンに護衛をつけて迎えに行かせる。おまえの家族は、モンゴルの民として扱う」
劉仲禄の目が潤んだ。
「……私は捕虜です。なぜ、ここまで——」
「おまえは捕虜じゃない。俺の技術者だ。俺のために壁を壊す兵器を作ってくれている。その者の家族を守るのは、当然のことだ」
「金朝では、捕虜の技術者は奴隷です。鎖をつけられて、死ぬまで働かされる」
「俺のところでは違う。働いてくれるなら、家族も守る。褒賞も出す。鎖はつけない。その代わり、裏切ったら殺す。それだけだ」
劉仲禄は頭を下げた。深く、長く。
この老人が、後に中都攻城戦で決定的な役割を果たすことになる。その時の俺は、まだ知らなかった。
金朝の技術を吸収しながら、俺は一つのことに気づいていた。
モンゴルは、何も持たない民族だ。
城壁を作る技術はない。火薬を作る技術はない。文字もない(ウイグル文字を借りている)。鉄を精錬する技術はあるが、金朝や西方の国々には及ばない。
でも——何も持たないからこそ、何でも取り込める。
城壁を持つ民は、城壁の作り方しか知らない。火薬を持つ民は、火薬の使い方しか知らない。
俺たちは全部を知らない代わりに、全部を組み合わせられる。金朝の投石機とモンゴルの機動力。金朝の火薬と草原の騎馬戦術。ウイグルの文字とモンゴルの口伝の知恵。
一つの素材では出せない力を、組み合わせで作る。
父が教えてくれた複合弓と、同じだ。
木だけでは弱い。角だけでは脆い。腱だけでは形にならない。だが三つを組み合わせれば、世界最強の弓が生まれる。
モンゴルは、世界規模の複合弓を作ろうとしている。
母に会いに行った。
ホエルンはモンゴル本国にいる。戦場には来ない。遠い草原のゲルで、孫たちと暮らしている。
戦の合間に帰った時、母のゲルを訪ねた。
母はだいぶ老いていた。歩くのに杖が要る。でも頭は明晰で、目は変わらない。
投石機と火薬の話をした。金朝の技術者を吸収して、壁を壊す兵器を作っている話を。
母は黙って聞いていた。
話し終えた後、母が言った。
「おまえの父さんがね」
「うん」
「弓を作る時に言ったことを覚えてるかい。違う素材を組み合わせて、一つの素材じゃ出せない力を作るって」
「覚えてる」
「おまえは今、それを国でやってるんだね。弓じゃなくて、国を作ってる。モンゴルの騎馬と、金朝の火薬と、ウイグルの文字と——全部を組み合わせて」
「……そうかもしれない」
「そうだよ。おまえの父さんが見たら、びっくりするだろうね。弓の作り方を教えたら、息子が国を作り始めたって」
母が笑った。皺だらけの顔が、くしゃっと崩れた。
「でもね、テムジン。弓と同じで、膠が乾くまで待たなきゃいけないよ。急いで技術を重ねても、根っこがくっついてなかったら——」
「中で剥がれる。知ってる」
「知ってるならいいけど。おまえは昔から待てない子だからね」
母はそう言って、また笑った。
俺も笑った。四十六歳になっても、母の前では子供に戻る。
陣営に戻ると、ジェルメが待っていた。
「新しい投石機が三基完成しました。対重式。劉仲禄の設計です。百五十キロの石を四百歩先に飛ばせます」
「試射は」
「済みました。三基とも良好。ただ——」
「ただ?」
「劉仲禄が言うには、もっと大きなものを作れば、三百キロの石を五百歩先まで飛ばせるそうです。城壁を一撃で崩せる威力です。ただし建造に二ヶ月かかる」
「作れ。中都の攻囲までに間に合わせろ」
「了解。それと——火箭の一斉発射架台も五基できました。震天雷は二百個が備蓄されています」
「十分か」
「中都の城壁を考えると、もっと欲しい。でも火薬の原料——硝石が不足しています。金朝の領内で調達するしかありません」
「チラウンに手配させる。硝石が採れる場所を探して確保しろ」
戦争は、もはや弓と馬だけの問題じゃなくなっていた。
原料の調達。兵器の製造。技術者の管理。補給線の維持。全てが複雑に絡み合っている。
草原の戦いは単純だった。弓と馬があれば戦えた。でも城壁の世界では、弓と馬は始まりにすぎない。
その上に投石機を載せ、火薬を載せ、攻城技術を載せ、補給と通信のネットワークを載せて、初めて戦える。
一層ずつ重ねていく。膠が乾くのを待ちながら。
母の言う通りだ。弓を作っているんだ。世界で一番大きな弓を。
中都攻略の準備が整いつつあった。
対重式投石機六基。火箭の一斉発射架台八基。震天雷三百個。弩の部隊二千。それに十万の騎兵。
草原の機動力と、金朝から吸収した攻城技術。二つの文明の力を合わせた軍が、金朝の首都に向かって南下を始めた。
ジェルメが横を走りながら言った。
「テムジン。俺たちは変わったな」
「何がだ」
「西夏の城壁の前で、弓を持って突っ立ってた頃とは、別の軍になった。あの時は壁を前にして何もできなかった。今は——壁を壊す力がある」
「おまえが作ったんだろう」
「俺が作ったのは道具だ。道具をどう使うかを決めたのは、あんただ」
「道具がなけりゃ、決めようがない。おまえがいなかったら——」
「いいから。褒め合いはやめよう。気持ち悪い」
ジェルメが少しだけ笑った。
俺も笑った。
前方に、城壁都市の輪郭が見えてきた。中都への道に立ちはだかる最後の砦だ。
「投石機を前に出せ。火箭を準備しろ」
命令を出した。
壁の世界に、俺たちは自分の答えを持ってきた。




