第二十四話「野狐嶺の戦い」
金朝軍の布陣を見た時、俺は馬を止めて長い間黙っていた。
丘の上から見下ろした先に、大地を埋め尽くす軍勢が広がっていた。
三十万。
ナイマン戦の四万三千でも圧巻だったが、桁が違う。見渡す限りの人と馬と旗と槍。野狐嶺の尾根に沿って、左右の視界の果てまで軍列が途切れない。その向こうにもまだ兵がいるのだろう。全体の端が見えない。
チラウンの斥候が調べ上げた情報を元に、敵の構成を記す。
金朝軍、三十万。指揮官は完顔承裕。
中央に女真族の精鋭騎兵三万。金朝を建国した民族の末裔で、もともとは草原の騎馬民族だ。鉄の鎧と長槍を装備し、かつてのケレイト重騎兵に匹敵する突破力がある——はずだが、何世代も中国に住んで贅沢に慣れた今、どこまで精強かは未知数だ。
主力は漢人の歩兵二十万。これが問題だった。密集した歩兵陣がいくつもの方陣を組み、長槍と盾で固めている。方陣の中に弩兵が配置されていて、三百歩以上の距離から矢を放つ。歩兵は動けないが、近づく者を射殺する巨大な針鼠だ。
残りの七万は、各地から徴兵された混成部隊。契丹族、渤海族、漢人の地方兵。装備も訓練もまちまちで、数合わせの感が強い。
三十万。途方もない数だ。
だが——数の多さは、必ずしも強さを意味しない。
ケレイト戦で証明した。カラハルジトでは二万一千で四万二千の重騎兵軍を相手に、馬殺し戦術で互角以上に戦った。その後の奇襲では、一万二千で二万五千のケレイト族を崩壊させた。数で倍の相手を、二度破った。
問題は数じゃない。その数をどう動かすかだ。
「あれを見ろ」
ボオルチュに言った。丘の上から、金朝軍の布陣を指さす。
「三十万が、尾根に沿って一列に並んでる。横に広い。だが奥行きがない」
「一列?」
「一列じゃないが、実質そうだ。尾根の上に主力を置いて、左右に翼を広げてる。守りの陣形だ。高い場所を押さえて、こっちが登ってくるのを待ち構えてる」
ムカリが言った。
「防御陣としては正しい。高所の利がある。登ってくる敵を弩で射て、近づいてきたら槍で突く。正面から攻めたら——」
「死ぬ。正面は無理だ」
俺は砂地に棒で線を引いた。
「だが、あの陣形には弱点がある」
「弱点?」
「三十万が横に広がっている。つまり、どの地点でも正面に出せる兵力は限られている。三十万いても、ここ——」
尾根の一点を指した。
「ここに同時にぶつけられるのは、せいぜい二万か三万だ。残りの二十七万は、後ろか横で待っている。そいつらは、ぶつかっている二万が崩されても、すぐには助けに来れない」
「つまり——」
「一点に全力を集中する。十万の全兵力を、三十万のうちの一箇所にぶつける。十万対二万なら勝てる。一箇所を突破すれば、横に広がった陣の連携が切れる。切れたら——」
「各個撃破できる」
ムカリの目が鋭くなった。
「そうだ。三十万を一度に相手にする必要はない。二万ずつ十五回に分けて殴れば、一回ごとにこっちが数で上回る」
「ただし——」
カサルが口を挟んだ。
「突破点を間違えたら終わりだ。硬いところにぶつかったら、跳ね返されて消耗するだけだ」
「だから、柔らかいところを狙う」
俺は尾根の陣形をもう一度見た。
中央は女真の精鋭騎兵。ここは硬い。左翼は歩兵の方陣。密集しているから正面は硬いが、機動力がない。
右翼。契丹族と渤海族と地方兵の混成部隊。ここだ。
「右翼が弱い。数合わせの混成部隊で、指揮系統がばらばらだ。一点でも崩せば、連鎖的に崩壊する。ナクー崖のナイマン連合と同じだ。寄せ集めは、一箇所が破れると全体が崩れる」
「右翼を突く。全軍で」
作戦を確定した。
全軍十万を三つに分ける。だが、通常の三方向展開ではない。今回は全力を一点に集中する。
第一陣、ムカリの突撃隊二万。重騎兵五千を先頭に、軽騎兵一万五千が続く。金朝の右翼に向かって、尾根の斜面を一気に駆け上がり、突破する。
第二陣、カサルの弓隊三万。突撃隊の左右に展開して、突破口の両側から矢の壁を張る。敵の増援を射撃で阻止し、突破口が塞がれるのを防ぐ。
第三陣、ボオルチュの快速騎兵二万。突破口が開いた瞬間に、穴を通って敵の背後に流れ込む。背後に出たら、左右に展開して敵陣を内側から切り裂く。
予備、ジェルメの護衛隊と直属部隊二万。俺と共に後方に位置。戦況に応じて投入する。
ジョチ、チャガタイ、オゴデイの三人には、それぞれ千人隊を預けてムカリの突撃隊に組み込んだ。息子たちに実戦を経験させる。
「投石機は?」
ジェルメが聞いた。
「今回は使わない。城壁じゃない。野戦だ。投石機は重すぎて機動戦には向かない。弓と馬で決める」
「了解」
全軍に命令を出した。
「明朝、夜明けと同時に攻撃を開始する。目標は金朝の右翼。全力突破。突破口が開いたら全軍がそこに殺到する。水が堤の穴から噴き出すように。一点を破って、全部を流す」
夜明け前。
霧はなかった。秋の朝、空気が乾いて澄んでいる。野狐嶺の尾根が、朝焼けに赤く染まっている。
金朝の三十万が、尾根の上に黒い帯のように横たわっている。
俺は後方の丘の上にいた。カラハルジトの教訓通り、前には出ない。ここから全体を見て、全体を動かす。鷹の目で。
角笛が三回、鳴った。
第一段階。ムカリの突撃。
二万の騎兵が、尾根の斜面に向かって突進した。
先頭はケレイトから吸収した重騎兵五千。鉄の鎧をまとい、長槍を構えて突進する。斜面を駆け上がる馬の息が白い。
金朝の右翼が反応した。弩兵が矢を放つ。
太い矢が空気を切って飛んでくる。三百歩。二百五十歩。距離が詰まるにつれて命中率が上がる。先頭の重騎兵が何騎か倒れた。だが鎧が矢を弾く。ケレイト重騎兵の鎧は弩の矢にも耐えるように改良されていた。ジェルメが鍛冶の技術で胸甲を厚くし、首と肩の防護を追加していた。
二百歩。百五十歩。
弩の矢が鎧を貫き始めるぎりぎりの距離。だがもう止まらない。重騎兵の突撃は、一度加速したら止まれない。止まれば死ぬ。突き抜けるしかない。
百歩。
金朝の右翼——契丹族と渤海族の混成部隊が、槍を構えて迎撃態勢を取った。
衝突。
鉄と鉄がぶつかる音。馬と人が交錯する轟音。重騎兵の槍が敵の盾を突き破り、敵の槍が馬の胸を貫く。
最初の衝突で、金朝の第一列が砕けた。
混成部隊の弱さが出た。契丹族の部隊は持ちこたえたが、その隣の渤海族の部隊が崩れた。指揮系統が違うから、連携が取れない。隣が崩れても助けに行く判断が遅れる。
その隙間に、ムカリの軽騎兵一万五千が流れ込んだ。
突破口が開いた。
第二段階。カサルの弓隊。
突破口の左右に、カサルの弓隊三万が展開した。
金朝の中央と左翼が、右翼の崩壊を見て増援を送ろうとしている。歩兵の方陣が横移動を始めた。
「射て!」
カサルの号令で、三万の弓が一斉に弦を鳴らした。
三万本の矢。空が暗くなった。矢の雲が放物線を描いて飛び、金朝の増援部隊の頭上に降り注いだ。
歩兵の方陣は盾を上げて矢を防いだ。だが盾で防げるのは上からの矢だけだ。前に進もうとすれば盾を下げなければならない。盾を下げれば矢に当たる。
増援が止まった。
突破口は開いたまま。カサルの弓隊が壁のように矢を降らせ続け、金朝軍が穴を塞ぐのを阻止している。
これが弓隊の本領だ。カラハルジトで馬を射殺した弓隊が、今度は「撃たせない」ための射撃をしている。殺すための矢ではなく、動きを止めるための矢。
三万の弓が休まず射ち続ける。前列が射っている間に後列が矢をつがえる。途切れない矢の壁。矢の規格が統一されているから、隣の兵から矢をもらって射ち続けることができる。第十四話でジェルメが進めた規格統一が、ここで最大の効果を発揮していた。
第三段階。ボオルチュの突入。
「ボオルチュ、行け!」
伝令が走った。ヤムの中継点を経由して、後方に待機していたボオルチュに命令が届く。
二万の快速騎兵が、突破口に殺到した。
ムカリが開けた穴を、ボオルチュの騎兵が激流のように通り抜ける。金朝の右翼を突き破って、敵陣の内側に出た。
「左右に展開! 敵の背後を叩け!」
ボオルチュの騎兵が二手に分かれた。一万が左に旋回して金朝中央の背後に回り込む。もう一万が右に旋回して残った右翼を背後から叩く。
金朝軍の右翼が崩壊した。前からムカリ、背後からボオルチュに挟まれた混成部隊は、もはや戦闘集団として機能しなかった。個々の兵が散り散りに逃げ始めた。
そして——崩壊は右翼だけに留まらなかった。
俺が予測した通り、横に広がった陣形の弱点が露呈した。右翼が崩れたことで、中央の右端が露出した。ボオルチュの騎兵がそこを叩く。中央の右端が崩れると、その隣も露出する。
骨牌倒し(ドミノたおし)だ。
右翼の崩壊が中央に波及し、中央の崩壊が左翼に波及する。一箇所の突破が、三十万の全体を連鎖的に崩壊させていく。
第四段階。追撃。
金朝軍が潰走を始めた。
三十万の軍が——いや、すでに三十万ではない。右翼の七万が壊滅し、中央の歩兵方陣が崩れ始めている。女真族の精鋭騎兵三万だけが隊列を保っていたが、周囲が崩壊する中で孤立していた。
完顔承裕が撤退命令を出した。だが三十万の軍に撤退命令を伝えるのは容易ではない。伝令が走っても、混乱した戦場では命令が届かない。
ここで、モンゴル軍のヤムの伝令網と金朝軍の通信能力の差が決定的に出た。
俺の命令は、ヤムの中継点を経由して数分で全軍に届く。「追撃開始。逃げる敵を追え。だが城壁都市には入るな。城を避けて、野戦で殲滅しろ」。
金朝軍の撤退命令は、届く前に部隊が壊走していた。
追撃は三日間続いた。
モンゴルの騎兵は一人五頭の替え馬を持っている。金朝の歩兵は自分の足しかない。追いつかないはずがなかった。
逃げる金朝兵を、モンゴル騎兵が弓で射ちながら追いかける。草原の狩りと同じだ。兎を追い、鹿を追ったように、人を追った。
三日間の追撃で、金朝軍の大半が殲滅された。
野狐嶺の戦果を記す。
モンゴル軍。出撃十万。戦死八千。負傷一万二千。主な損害はムカリの突撃隊に集中しており、突撃隊二万のうち四千が戦死した。正面から尾根に突入した代償だ。カサルの弓隊とボオルチュの快速騎兵の損害は軽微だった。
金朝軍。出撃三十万。戦死・捕虜あわせて推定二十万以上。逃亡・離散した者を含めれば、組織的な戦闘力を維持している部隊はほぼ皆無。完顔承裕は少数の護衛と共に南へ逃亡。
鹵獲。武器・鎧・弩・食料・馬・牛車、膨大な量。特に弩とその矢の鹵獲は大きかった。金朝の弩は、モンゴルの複合弓を上回る射程を持つ。この兵器を自軍に組み込めば、攻城戦でも野戦でも射程の優位が得られる。
さらに重要な鹵獲物があった。
金朝軍に随行していた工兵部隊。攻城兵器の技術者、橋梁建設の技師、火薬の取り扱いを知る兵。
ジェルメが彼らを一人ずつ面談した。
「対重式投石機を作れる者はいるか」
一人の老技師が手を挙げた。
「作れます。設計図も描けます」
「火薬兵器は?」
別の男が答えた。
「震天雷の製造法を知っています。鉄の容器に火薬を詰めて、導火線で点火する。城壁の下で爆発させれば——」
「壁が壊せるか」
「壊せます」
ジェルメの目が光った。俺を振り返って言った。
「来ましたよ。全部来た」
戦いが終わった夜、俺は戦場を歩いた。
野狐嶺の斜面に、遺体が散らばっていた。金朝の兵だ。鎧を着た者、着ていない者。槍を握ったまま倒れている者、弓を持ったまま仰向けになっている者。
二十万以上が死んだか捕まった。
この人間たちは、俺とは何の恨みもない。金朝の皇帝に命じられて戦場に来ただけだ。農民だった者がほとんどだろう。鋤を持つべき手に槍を持たされて、知らない土地で死んだ。
腹の底の黒い塊が、また少し重くなった。
トグリルの時と同じ痛みだ。勝った。圧倒的に勝った。だが勝利のたびに、重くなるものがある。
ムカリが横に来た。
「テムジン。こちらの戦死者の中に、ジョチの千人隊から百二十名が含まれています。ジョチ本人は無事です。先頭で戦って、傷一つなかったと」
「そうか」
「勇敢でした。先頭を走って、最初に敵の陣に斬り込んだ。兵たちの評判は上々です」
ジョチが手柄を立てた。それは良い知らせだ。この手柄があれば、出自の噂に対する盾になる。
「チャガタイは?」
「チャガタイも奮戦しました。ただ——ジョチの戦功を聞いた時、あまり良い顔はしていませんでした」
兄弟の対立。この問題は、戦場で手柄を立てるだけでは解決しない。もっと根深い。
だが今は——考えない。今日は勝った。二十万の金朝軍を壊滅させた。金朝の北方防衛は崩壊した。中都への道が開けた。
風が吹いた。南から吹く風。金朝の首都、中都のある方角からの風。
あの城市を落とせば、金朝は終わる。
だがそのためには、もう一段の技術がいる。城壁を壊す投石機。壁を砕く火薬。門を突破する攻城槌。
全部、今日の戦場で手に入った。
敵から奪った技術で、敵の城壁を壊す。
それが、モンゴルのやり方だ。




