第二十三話「金朝」
金朝の使者が来たのは、西夏遠征から戻って半年後のことだった。
使者は四人連れだった。絹の衣を着て、黒い冠をかぶり、護衛の兵を二十騎従えている。馬はモンゴルの馬より大きく、鞍の装飾が金で光っていた。
使者の態度は尊大だった。ゲルに入るなり、俺の前に立って巻物を広げた。
「金朝新帝、衛紹王の勅命である。モンゴルのテムジンは、新帝の即位を祝い、臣下の礼を取るべし。貢物として馬一万頭、羊十万頭、毛皮千枚を差し出せ」
臣下の礼。
草原のハンに、跪けと言っている。
俺は使者の顔を見た。四十がらみの文官だ。戦場に出たことはないだろう。手は白くて、爪が長い。筆を持つ手だ。刀を振るう手じゃない。
「新帝とは誰だ」
俺は聞いた。
「衛紹王陛下。先帝の甥にあたられるお方です」
「先帝を殺して帝位を奪ったのか」
使者の顔がこわばった。金朝では最近、宮廷内の政変があったと聞いている。先帝が殺され、その甥が帝位についた。チラウンの情報網はここまで届いている。
「あの男が、新しい帝か」
俺は立ち上がった。
使者を見下ろした。
「俺は金朝の帝が天子だと聞いていた。天に選ばれた者だと。だが、天に選ばれた者が甥に殺されるのか。そんな男の後釜に跪けと言うのか」
使者の顔から血の気が引いた。
俺はゲルの入口に歩いていき、南を向いた。
南。金朝のある方角。万里の長城のある方角。
唾を吐いた。
「帰れ。おまえの主人に伝えろ。モンゴルは跪かない」
使者たちは蒼白な顔で出ていった。
これが宣戦布告だった。
使者を帰した後、将たちを集めた。
「金朝と戦う」
沈黙はなかった。全員がわかっていた。いつかこの日が来ることを。
ムカリが口を開いた。
「金朝の兵力は公称六十万。実数がどれほどかはわかりませんが、三十万は下らないでしょう。我が軍は現在十万。三倍の差です」
「兵の質は?」
「正規軍の中核は女真族の騎兵。金朝を建てた民族で、草原出身です。騎馬戦は心得ている。ただし、ここ数十年は中国に定住して贅沢に慣れ、かつての精強さは失われているという話もあります」
「それ以外は?」
「漢人の歩兵が主力です。数は多いが、訓練の質はまちまち。徴兵された農民が大半で、職業軍人は一部です。弩兵は精鋭ですが、野戦では機動力がありません」
チラウンが補足した。
「城壁都市が問題です。金朝の北方防衛線には、万里の長城を含め、何重もの城塞が並んでいます。一つ一つ攻略していたら何年もかかります」
「だから壁は避ける」
俺は砂地に線を引いた。
「万里の長城を正面から越えようとしたら、城壁と弩と兵力差で潰される。だが——長城には門がある。門を守っているのは、金朝の兵だけじゃない」
チラウンがうなずいた。
「オングト族です」
オングト族。
万里の長城の北側、金朝との国境地帯に住む遊牧民だ。金朝に臣従して、長城の一部の防衛を任されている。いわば草原側の門番だ。
だがオングト族は、金朝に忠誠を誓っているわけじゃない。金朝に使われているだけだ。利があれば裏切る。草原の民はみなそうだ。
「オングト族の長、アラクシュに使者を送れ」
チラウンに命じた。
「何と伝えますか」
「モンゴルが金朝を攻める。オングトが門を開けてくれるなら、戦後にオングト族の領地を保証する。金朝の支配から解放する。拒めば——金朝と一緒に潰す」
飴と鞭だ。味方になれば報い、敵になれば滅ぼす。ソルカン・シラの恩返しと、ジャムカの配下の処刑。同じ原理の拡大版だ。
使者が走った。
返事は十日で届いた。アラクシュは門を開けると言った。
万里の長城を越える道が、戦わずして手に入った。
だが、門を通っただけでは勝てない。
金朝の領土は広大だ。南北千キロ、東西二千キロ。その中に数百の城壁都市があり、数千万の人間が住んでいる。草原とはスケールが違う。
俺は半年をかけて準備した。
まず情報。チラウンの斥候網を金朝の内部にまで拡大した。商人に化けた間者を都市に送り込み、守備兵の数、城壁の状態、食料の備蓄量、政治の内部対立、全てを調べ上げた。
金朝の内情は、思った以上にひどかった。
宮廷は政変の後遺症で混乱している。新帝の衛紹王は臆病で優柔不断だと評判だった。軍は予算不足で装備が古く、兵の給料が滞って士気が低い。北方の守備隊は長城の維持に手一杯で、長城を越えられた場合の備えがほとんどない。
「長城さえ越えれば、その先は紙の壁だ」
チラウンがそう報告した。
「紙は言い過ぎだ。でも——脆いのは確かだな」
次に兵站。十万の軍を何千キロも移動させるには、食料と水と馬の飼料が要る。草原では馬を放牧すれば飼料はいらないが、金朝の領内に入れば話が違う。農地だ。草原がない。馬の飯がない。
「現地調達を基本にする」
ムカリに方針を伝えた。
「金朝の農地から食料を奪い、金朝の都市から馬の飼料を奪う。敵の備蓄で、こっちの軍を養う」
「略奪ですか」
「組織的な略奪だ。勝手に奪うのは禁止。部隊ごとに担当区域を決めて、計画的に集める。ヤサの通り、集めたものは功績に応じて分配する」
略奪を制度化する。聞こえは悪いが、軍の規律を保つにはこれしかない。野放しの略奪は軍を崩壊させる。管理された徴発なら、軍は機能し続ける。
そして攻城兵器。ジェルメが半年かけて、投石機の試作を重ねていた。
「使えるものができたか」
ジェルメのもとを訪ねた。
ゲルの裏の広場に、巨大な木の構造物が立っていた。高さ三丈(約九メートル)。太い腕木が中心の軸に取りつけられ、片方の端に石を載せる皮袋、反対側に数十本のロープが垂れている。
「牽引式投石機。西夏の技術者が設計して、うちの木工と鍛冶が作った」
ジェルメが説明した。
「ロープを三十人で一斉に引くと、腕木が回転して石を飛ばす。八十キロの石を、二百五十歩先まで飛ばせる。命中精度はまだ甘いが、城壁に当てる分には十分だ」
「西夏の城壁を壊せるか」
「日干し煉瓦なら壊せます。ただし——」
ジェルメが少し言いにくそうにした。
「金朝の城壁は、日干し煉瓦じゃないところが多い。石積みと版築の併用で、西夏より格段に硬い。今の投石機では、厳しいかもしれない」
「何が要る」
「もっと重い石を、もっと遠くに飛ばす力。そのためには——もっと大きな投石機が要る。あるいは、別の仕組みが」
「別の仕組み?」
「金朝の中に、対重式という投石機があるらしい。人がロープを引くんじゃなく、重い錘を落として腕木を回す。人力より遥かに大きな力が出ると聞いています。まだ実物を見たことがないが——」
「金朝を攻めれば、実物が手に入る」
ジェルメの目が光った。
「そうです。手に入れたら——解体して、仕組みを調べて、もっと良いものを作る」
「頼むぞ」
「任せろ」
ジェルメは短く答えた。
出陣の前夜、ボルテと話した。
「いよいよ金朝か」
「ああ」
「西夏とは規模が違うよ。人口が何千万もいる国だ。おまえが今まで戦ってきた相手とは、桁が違う」
「わかってる」
「わかってるならいいけど——」
ボルテが俺の顔を見た。
「帰ってきてね」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよ。おまえはいつも、当たり前みたいに言って、当たり前じゃないことをする。首に矢が刺さったこともあるくせに」
カラハルジトの傷跡が、首の右側に残っている。触ると少し痛む。
「帰ってくる。必ず」
「……ジョチのことも、頼むよ」
ジョチは今年で二十歳を超えていた。独立した部隊を率いて、モンゴル帝国の西方面を担当している。腕は立つが、弟のチャガタイとの仲が悪い。チャガタイはジョチの出自を公然と問題にするようになっていて、二人の間に深い亀裂が走っている。
「ジョチには、自分の力を証明する機会を与える。金朝との戦いで手柄を立てれば、誰も文句は言えなくなる」
「そうだといいけど」
ボルテの声には、不安が混じっていた。母親の不安だ。
俺はボルテの手を握った。
「大丈夫だ。あの子は——俺たちの子だ」
ボルテは小さくうなずいた。
一二一一年、秋。
モンゴル軍十万が南へ向かって動き出した。
兵力を記す。
中央軍四万。ムカリが指揮。重騎兵五千(旧ケレイト兵を含む)と軽騎兵三万五千。投石機十二基を牛車に載せて随行。
右翼軍二万五千。ジョチとチャガタイとオゴデイの三人が率いる。テムジンの息子たちに実戦経験を積ませる意図がある。
左翼軍二万五千。カサルとボオルチュが率いる弓隊と快速騎兵の混成。
別働隊一万。ジェベが率いて、東から金朝の東京方面を牽制する。
斥候・伝令部隊が全軍に散開。ヤムの中継点を百キロごとに設置し、モンゴル本国と戦場を結ぶ通信線を維持する。
全軍が一人五頭の替え馬を連れている。合計五十万頭の馬が草原を埋めて南下する光景は、大地が動いているように見えたという。
オングト族の領地を通過した。
アラクシュが約束通り、万里の長城の門を開いた。
門をくぐった。
厚い石の壁をくぐり抜ける。頭上の石のアーチが、暗い影を落としている。馬の蹄が石畳を叩く音が、壁の中で反響した。
門を抜けた瞬間、世界が変わった。
草原がなかった。
代わりにあったのは、畑だ。整然と区画された農地が、地平線まで広がっている。黄色い穀物が風に揺れている。道は舗装されていて、道の両側に家が並んでいる。石と木と瓦で作られた家だ。ゲルとは何もかも違う。
草原の民の世界と、定住の民の世界の境界を、俺は今、越えた。
ボオルチュが横で息を呑んだ。
「これが……金朝か」
「ああ」
「でかいな」
「ああ。でかい」
でかい。人も、土地も、建物も、全てが草原の何倍ものスケールだ。
だが——でかいものを倒せないわけじゃない。
父が言った。「でかいものを作るんじゃない。小さいものに、最大の力を込める」。
俺たちは小さい。十万の軍は、金朝の人口の二百分の一にも満たない。
だが、その小さな十万が、世界で最も速く、最も統制された軍だ。十進法で組まれ、ヤムで繋がれ、替え馬で走り、複合弓で射る。
小さいものに込められた力が、でかいものを砕く。
それを証明しに来た。
前方の丘の向こうに、砂塵が見えた。
金朝の軍だ。迎撃に来ている。
「全軍、戦闘準備」
角笛が鳴り響いた。
野狐嶺の戦いが、始まろうとしていた。




