第二十二話「城壁」
草原には、壁がない。
ゲルには壁がない。フェルトを木の骨組みにかぶせただけで、一時間で畳めるし、一時間で建てられる。柵はあるが、家畜を囲うためのもので、人を防ぐためのものじゃない。
俺は四十五年間、壁のない世界で生きてきた。
その俺が初めて「壁」を見たのは、西夏の国境だった。
西夏は、モンゴル高原の南西に位置する国だ。タングート族が建てた国で、シルクロードの東の要衝を押さえている。人口は数百万。兵力は十万前後。モンゴルに比べれば小さいが、一つ決定的な違いがある。
城壁だ。
西夏の都市には、全て城壁がある。日干し煉瓦を積み上げた壁。高さは五丈(約十五メートル)、厚さは三丈(約九メートル)。壁の上には見張り台があり、弓兵と弩兵が配置されている。
最初に城壁を見た時のことを、よく覚えている。
偵察に出たチラウンと一緒に、丘の上から西夏の国境の城塞を見下ろした。
黄色い壁が、砂漠の中にそびえていた。
「あれが、城壁か」
俺はつぶやいた。
見たことはあった。噂では知っていた。定住の民は石や煉瓦で壁を作り、その中に住むのだと。だが実物を見るのは初めてだった。
壁は長かった。城市をぐるりと囲んで、継ぎ目なく続いている。正面には門があり、門の上にさらに高い楼閣がそびえている。壁の上を兵が歩いているのが見える。
「あれを壊せるか」
チラウンに聞いた。
チラウンは首を横に振った。
「弓じゃ無理です。矢は壁に刺さりますが、壁は壊れません。馬で突っ込んでも壁は動きません。梯子をかけて登ろうとしても、上から石と矢と熱い油を落とされます」
「火をつけたら」
「日干し煉瓦は燃えません。木の門に火をつけることはできますが、門の裏側で砂と水をかけて消されます」
俺は壁を見つめた。
長い間、見つめた。
草原では、こんなものに出会ったことがない。敵は常に馬に乗っていた。馬に乗った敵は動く。動く敵は追えるし、追えれば倒せる。
でも壁は動かない。
追えない。回り込めない。マングダイも包囲機動も通じない。壁は逃げないし、怯えないし、士気も崩壊しない。
ただそこにある。
「……草原にはなかったな、こんなもの」
ボオルチュが横で言った。
「ああ。なかった」
「どうする?」
「考える」
最初の攻撃は、失敗した。
西夏の国境城塞ウーラハイに対して、騎兵五千で突撃を試みた。草原の戦い方だ。全速で接近して、至近距離で矢を射かける。
城壁の上から弩——巨大な弓を機械仕掛けで引く兵器——が矢を放った。弩の矢は複合弓の矢より太く、重く、射程が長い。三百歩以上の距離から、鎧を貫通する。
先頭の騎兵が三騎、一斉に落馬した。
「止まれ! 退け!」
射程の外に引いた。初めて見る兵器だった。弓のくせに人が引いていない。木と鉄の仕掛けで弦を引き、引き金で放つ。一人の兵が、俺たちの複合弓より遠くから正確に射てる。
次に梯子を作って壁を登る作戦を試みた。丸太を組んで梯子にし、夜間に壁に取りつく。
二十人が梯子を登った。壁の上から石が降ってきた。五十キロはある石の塊が、梯子ごと人間を叩き潰した。石の後に、煮立った油が落ちてきた。悲鳴。焼ける匂い。
梯子を諦めた。
火矢を射って門を燃やそうとした。門に矢が刺さり、火がついた。だがすぐに消された。門の内側で水をかけているのだ。壁の中に井戸があるから、水は無限に出てくる。
三日間、あらゆる方法を試した。全て失敗した。
損害だけが積み上がった。戦死百二十。負傷三百以上。城壁には傷一つつかなかった。
ゲルに戻って、将たちを集めた。
「正面から壁を壊す方法がない」
俺はそう認めた。認めるしかなかった。
ムカリが言った。
「野戦に引きずり出せないか。城から出てくれば、俺たちの土俵だ」
「出てこない。壁の中に食料と水がある。出てくる理由がない」
カサルが言った。
「弩がやっかいだ。あれの射程の中に入ったら、弓じゃ勝てない。射程で負けてるのは初めてだ」
弓の射程で負ける。草原では考えられなかったことだ。俺たちの複合弓は、世界最高の飛距離を持つと思っていた。だが弩は機械の力で弦を引く。人の腕力では届かない距離まで矢を飛ばせる。
ボオルチュが腕を組んで黙っていた。しばらくして、ぼそっと言った。
「壁を壊すんじゃなく、壁の中を干上がらせたらどうだ」
「干上がらせる?」
「壁の中に食料があるっつったな。でも、その食料はいつか尽きる。外から補給を断てば、いつかは尽きる。周りを囲んで、何も入れなきゃいい」
兵糧攻め。ケレイト戦で俺がやった持久戦と同じ発想だ。
「時間がかかる」
「かかるだろうな。でも、壁に頭をぶつけ続けるよりはましだ」
ボオルチュの言う通りだった。
ウーラハイ城塞を包囲した。
五千の騎兵で城市を完全に囲み、一切の出入りを断った。城門から出てくる者がいれば弓で射る。城壁に近づく商人や旅人も追い払う。
そして待った。
一週間。二週間。一ヶ月。
ボオルチュの言った通り、時間はかかった。だが城壁の中に変化が見え始めた。煮炊きの煙が減った。壁の上の見張りの数が減った。弩の発射頻度が落ちた。矢が惜しくなっているのだ。
二ヶ月目に、城門が開いた。
西夏の守将が白旗を掲げて出てきた。降伏だった。
城に入った。
中は悲惨だった。食料が尽き、馬を殺して食い、最後は草や樹皮まで食べていた。井戸の水は枯れていなかったが、食べ物がなければ水だけでは生きられない。
壁は壊れなかった。壁はそのまま残っている。傷一つない。
俺が壊したのは壁じゃない。壁の中の人間の「耐える力」だ。
だが——それは戦術であって、技術じゃない。
城壁の前で二ヶ月も足止めされた。二ヶ月あれば、草原では数千キロを移動できる。金朝を相手にする時、すべての城で二ヶ月かけるわけにはいかない。金朝には城壁を持つ都市が何百もある。一つずつ兵糧攻めにしていたら、何年かかるかわからない。
壁を壊す技術がいる。
西夏への侵攻を続けた。
国境の城塞を一つ一つ攻略しながら、南下していく。兵糧攻めが基本だが、場所によっては別の方法も試した。
ある城市では、近くの川を堰き止めて水攻めを仕掛けた。城壁の下に水が溜まり、日干し煉瓦の基礎が崩れ始めた。煉瓦は水に弱い。乾いた土を固めただけだから、水に浸ると溶ける。
壁が崩れた。
初めて、壁が崩れるのを見た。
重い音を立てて、黄色い壁が横倒しになった。土煙が上がり、瓦礫が散った。壁の向こうに、城市の内部が見えた。
「崩れた!」
カサルが叫んだ。
崩れた壁の間から、騎兵が突入した。城市の内部に入れば、あとは草原の戦いと同じだ。モンゴル騎兵は城壁の外では無力でも、壁の内側に入れば無敵だった。
この経験が、俺に一つの確信を与えた。
壁は壊せる。方法さえあれば。水で溶かせるなら、石を叩きつけても壊せるはずだ。壁を壊す専用の道具——攻城兵器。それがあれば、二ヶ月待つ必要はなくなる。
「攻城技術者を探せ」
ムカリに命じた。
「西夏の捕虜の中に、壁を作った経験のある人間がいるはずだ。壁を作れる人間は、壁の壊し方も知っている」
ムカリが捕虜を調べて、数人の技術者を連れてきた。壁の建設に携わっていた男たちだ。怯えた目で俺を見ていた。
「殺さない。おまえたちの技術が欲しい。壁を壊す方法を教えろ。見返りに、おまえたちの家族の安全は保証する」
技術者の一人が、恐る恐る口を開いた。
「投石機というものがあります。大きな腕木の先に石を載せ、反対側を大勢で引いて石を飛ばす。百キロ以上の石を、三百歩先まで飛ばせます。あれなら——壁を壊せます」
「作れるか」
「……材料と人手があれば」
「両方やる。作れ」
これが、モンゴル軍が攻城兵器を手にする最初の一歩だった。
西夏の首都、中興府に迫った。
この時点で、投石機はまだ完成していなかった。技術者たちが試作を繰り返しているが、実戦に使えるものはできていない。
だが、西夏の王李安全は震え上がっていた。国境の城塞が次々と落ち、モンゴル軍が首都に迫っている。
西夏は降伏した。
条件は臣従と貢納。西夏はモンゴルの属国となり、年ごとに貢物を送る。兵を求められれば出す。
テムジン軍の兵力を記す。侵攻時の総兵力は三万。戦死は累計で約千五百。負傷三千。だが損害の大半は城壁攻撃の試行錯誤で出たもので、野戦での損害はほぼゼロだった。野戦ではモンゴル騎兵は無敵のままだ。
鹵獲。西夏の貢納品として、馬三千頭、ラクダ千頭、絹織物、金銀。そして何より重要なのは、攻城技術者たちだ。
西夏は獲った。だが、西夏は本当の目的じゃない。
南に、もっと大きな壁がある。
金朝。万里の長城。兵力数十万。城壁を持つ都市が何百もある。
西夏は、その金朝と戦うための予行演習だった。城壁の前で立ち止まり、技術の不足を知り、壁を壊す第一歩を踏み出した。
まだ足りない。投石機はまだ試作段階だ。弩に対抗する兵器もない。攻城戦の経験も足りない。
でも——方向は見えた。
草原にないものは、草原の外から獲ればいい。
技術を持つ人間を殺さず、吸収する。敵の技術を、自分の技術にする。弓の木と角と腱を組み合わせたように、モンゴルの機動力と他国の攻城技術を組み合わせる。
父が教えてくれた原理は、どこまでも応用が利いた。
西夏から帰る途中、ジェルメと二人で馬を並べた。
「ジェルメ。おまえは鍛冶屋の息子だったな」
「そうだが」
「壁を壊す兵器を、おまえが統括してくれ。投石機の開発を、鍛冶と同じやり方で進めろ。試作して、試して、壊して、また作る。使えるものができるまで繰り返す」
ジェルメは少し考えて、うなずいた。
「刀を打つのと同じだな。熱して、叩いて、折り返す」
「そうだ。同じだ」
「時間がかかる」
「かかっていい。ただし——金朝に攻め込む前には、完成させろ」
ジェルメの目が光った。
「やる」
短い男だ。いつも短い。でもジェルメが「やる」と言えば、やる。それは知っている。
俺は南を見た。
地平線の向こうに、見えないものが見えた気がした。
万里の長城。
あの壁の向こうに、何世代にもわたって草原の民を見下し、貢物を搾り取り、部族同士を争わせて支配してきた国がある。
次は、あの壁を越える。




