第十九話「ケレイト崩壊」
まず、嘘をついた。
トグリルに向けて使者を送った。降伏の申し入れだ。
「テムジンは戦う力を失いました。バルジュナ湖で飢え、兵の大半が離散しました。トグリル・ハンの慈悲にすがりたい。どうか、もう一度息子として迎えてください」
嘘だった。全部嘘だった。
だがトグリルは信じた。信じたかったのだろう。カラハルジトで重騎兵を壊滅させたテムジンが、もう戦えないと言っている。これで終わる。血を流さずに済む——そう思いたかったはずだ。
トグリルは使者に答えた。
「テムジンが本当に悔い改めたのなら、受け入れよう。ただし、武装を解いてから来い」
武装を解く。丸腰で来い。罠かもしれない。だが俺の使者は、次の言葉も伝えていた。
「三日後にトグリル・ハンの本営に参ります。それまでに返事をいただければ」
三日。この三日間が勝負だった。
トグリルは返事を待つ間、警戒を緩める。テムジンが降伏するなら、もう軍を臨戦態勢にしておく必要はない。兵を休ませ、馬を放牧に出し、日常に戻る。
その隙を突く。
一万二千の全軍に命じた。
「三日間で、ケレイト本営まで走る。距離は二百四十キロ。一日八十キロ。全員が替え馬を限界まで使い、休息は最低限にしろ。着いた瞬間に戦闘に入る。休む暇はない」
一日八十キロ。通常の行軍の倍の速度だ。一人五頭の替え馬を二時間ごとに乗り換え、食事は馬上で干し肉を齧る。夜間も松明なしで星を頼りに進む。
チラウンの伝令がヤムの中継点を先行して設置し、ケレイト側の動きをリアルタイムで報告してきた。
「ケレイト本営、警戒態勢を解除しています。放牧に出した馬が散らばっています」
「セングムの軽騎兵は?」
「本営の南に駐屯していますが、陣形は解いています」
「トグリル・ハンは?」
「本営のゲルにいます。明日の降伏受け入れの準備をしているようです」
全て計算通りだった。
ボオルチュが横で笑った。
「えげつないな、おまえ」
「ああ。えげつない」
否定しなかった。嘘をついて油断させて奇襲する。正々堂々とは程遠い。だが二万五千に正面から挑んだら潰される。勝つためにやれることは全部やる。それが俺のやり方だ。
父を「父」と呼んだ男を、嘘で騙して奇襲する。その重さは、腹の底にずしりと沈んでいた。
でもやる。やらなければ、こっちが死ぬ。
三日目の夜明け前。
ケレイトの本営が見えた。
丘の上から見下ろすと、数百基のゲルが円く並んでいる。煮炊きの煙が上がっている。馬は草原に散らばっている。柵も見張りもまばらだ。完全に平時の姿だった。
兵力を記す。
テムジン軍、一万二千。バルジュナ湖の三週間で集まった兵だ。全員がバルジュナの泥水を飲み、同じ誓いを立てた者たちだった。三日間の強行軍で脱落した者は一人もいなかった。
ケレイト軍、推定残存戦力二万五千。カラハルジトで重騎兵の馬五千頭を失い、その後もテムジン側への離反が続いて兵力が削られている。重騎兵の戦力は三千以下。軽騎兵は約一万が健在だが、臨戦態勢を解いており、馬は放牧に出されている。即座に戦える兵力は、本営周辺の五千程度と推定された。
一万二千対五千。奇襲の瞬間を切り取れば、倍以上の数で叩ける。
「全軍を三つに分ける」
ムカリに中央軍五千。本営の正面から突入する主攻。
カサルに弓隊三千。本営の南側に回り込み、セングムの駐屯地を矢で制圧する。合流する前に叩く。
ボオルチュに快速騎兵三千。本営の北から回り込んで、散らばっている放牧馬を追い散らす。ケレイト兵が馬を集めに行けないようにする。馬がなければ、ケレイト兵は歩兵だ。
残りの千はジェルメの護衛隊と予備。俺と共に中央後方に位置する。今回は前線に出ない。カラハルジトの教訓だ。総大将は後ろにいて、鷹の目で戦場を見る。
「日が昇ると同時に動く。合図は角笛三回」
朝靄が草原を覆っていた。
東の空が白み始める。ケレイトの本営はまだ眠っている。炊事の煙がちらほら上がっているが、兵の動きはない。
角笛が三回、鳴った。
一万二千の馬が一斉に駆け出した。
大地が揺れた。三日間の疲れも、空腹も、全てを蹄音が吹き飛ばした。一万二千の兵が叫びながら丘を駆け下りる。泥水を飲んだ兵たちの叫びは、腹の底から出ていた。
ケレイト本営が混乱に陥った。
ゲルから兵が飛び出してくるが、鎧を着ていない。武器を持っていない者もいる。馬は放牧に出されていて、手元にない。
ムカリの中央軍五千が本営に突入した。
戦闘というより蹂躙だった。武装の整わないケレイト兵に、完全武装の騎兵が突っ込んでいく。最初の衝突で本営の防衛線——と呼べるほどの線もなかったが——が崩壊した。
南からカサルの弓隊が矢を射かけた。セングムの駐屯地に三千の矢が降り注ぐ。セングムの軽騎兵は慌てて馬を集めようとしたが、北からボオルチュの騎兵が放牧馬を追い散らしていた。馬を集められない。走って逃げるしかない。
奇襲開始から一刻で、ケレイト本営は制圧された。
だが、戦闘は一刻では終わらなかった。
本営の外側にいたケレイト兵が、時間をかけて馬を集め、反撃を開始した。セングムが逃げながらも号令を出し、散り散りの兵をまとめ始めた。
ケレイトは弱い軍じゃない。奇襲の混乱から立て直す力がある。
午後には、ケレイト側が一万五千以上の兵を再編成して反撃してきた。一万二千のテムジン軍は本営を確保しているが、周囲をケレイト兵に囲まれる形になった。
攻守が逆転した。奇襲した側が、包囲される側になった。
「持ちこたえろ。三日だ。三日持てば勝てる」
俺は全軍に指示した。
なぜ三日か。
ケレイト軍は再編成したが、兵站がない。本営を俺たちに奪われているから、食料も水も馬の飼料も、全て俺たちの手の中にある。ケレイト兵は手持ちの食料だけで戦わなければならない。それは三日分もない。
持久戦だ。タタル戦の速攻とも、カラハルジトの消耗戦とも違う。今度は時間を味方につける。
一日目。ケレイト軍が四方から本営の奪還を試みた。ムカリが北を、カサルが南を、ボオルチュが東を守り、西はジェルメの護衛隊が塞いだ。ゲルを盾にして弓を射ち、突入してくる騎兵を至近距離で迎撃した。
損害は出た。だが、守る側の利がある。ゲルの壁と牛車を並べて簡易の防壁にしていたから、騎馬突撃の衝撃を吸収できた。
二日目。ケレイト軍の攻勢が弱まった。食料が尽き始めている。馬の飼料も足りない。疲弊した馬では突撃の勢いが出ない。
この日の夕方、ケレイト側から投降者が出始めた。最初は数人だったが、夜になると数十人単位で本営に入ってきた。書状の効果と、バルジュナの噂が効いていた。「テムジンのもとに行けば、ケレイトでも受け入れてもらえる」。
三日目の朝。
チラウンの斥候が報告してきた。
「トグリル・ハンとセングムが、夜のうちに脱出しました。少数の護衛と共に西へ向かっています」
逃げた。
トグリルは本営を捨てて逃げた。残されたケレイト兵は指揮官を失い、統制が崩壊した。
午前中に、ケレイト軍の大半が投降した。
三日間の戦果を記す。
テムジン軍。出撃一万二千。戦死千二百。負傷二千。残存八千八百。
ケレイト軍。本営にいた兵力推定五千のうち、初日の奇襲で二千が戦死または負傷。外部から再編成した一万五千のうち、戦死二千、負傷三千五百。投降八千以上。トグリル・ハンとセングムは少数の護衛と共に逃亡。
鹵獲。ケレイト本営のゲル数百基、家畜数万頭、武器・鎧・食料の全備蓄。そしてケレイト重騎兵の残存兵力三千と、その装備一式。
一万二千でケレイト族二万五千を崩壊させた。
正面からの力勝負ではない。嘘と速度と持久戦で、強者の力を使えない状況を作り出して勝った。
投降したケレイト兵の処遇を決めた。
「全員受け入れる。ケレイト族だった者も、十進法で各隊に組み込む。昨日まで敵だった奴と、明日から同じ十人隊で戦ってもらう。文句がある奴は——」
「いない」
ムカリが言い切った。
「バルジュナを経験した兵は、もう文句を言いません。泥水を飲んだ人間は、隣に誰が来ても動じない」
ケレイトの重騎兵三千は、そのまま独立部隊として編入した。彼らの鎧と重装馬は、テムジン軍にはなかった戦力だ。カラハルジトで馬を射り殺した相手が、今度は味方になる。皮肉だが、それが草原だ。
テムジン軍の総兵力は、投降兵と合流した離散兵を含めて、三万五千に膨れ上がった。
トグリルの最期を知ったのは、それから十日後だった。
チラウンの斥候が情報を持ち帰った。
「トグリル・ハンは、ナイマン族の領地に逃れようとしました。しかし、ナイマンの国境守備兵に捕まり——殺されました」
「殺された?」
「トグリル・ハンが名を名乗ったのですが、守備兵は信じなかったそうです。みすぼらしい老人がケレイトのハンを名乗っても、誰も信用しなかった」
ゲルの中が静まった。
草原最大の部族の長が、逃亡の果てに名前すら信じてもらえず、無名の国境守備兵に殺された。
「セングムは?」
「逃亡を続けています。西へ向かったきり、行方がわかりません」
俺は黙った。
トグリル。
この男が俺を「息子」と呼んでくれた日のことを覚えている。黒貂の外套を差し出した時、目を細めて「イェスゲイの息子か」と言った。メルキト戦で二万の兵を出してくれた。タタル戦でも力を貸してくれた。
その男が、名前を信じてもらえずに死んだ。
俺がそうした。
俺が嘘の降伏を申し入れ、油断させ、奇襲し、本営を奪い、追い出した。その結果、この男は草原の隅で惨めに死んだ。
必要な戦いだった。やらなければ、俺が殺されていた。宴で殺されるか、戦で殺されるか。先に動かなければ死んでいたのは俺の方だ。
でも——
「テムジン」
ボルテが俺の手に触れた。
「泣いてもいいんだよ」
「泣いてない」
「泣いてなくても、泣いていいんだよ」
俺は目を閉じた。
涙は出なかった。もう何年も泣いていない。ベクテルを殺した日から、泣くという機能が壊れている。
でも、胸の奥が痛かった。腹の底の黒い塊とは違う痛みだった。もっと上の、胸のあたりが、ぎゅっと締めつけられるような痛み。
「トグリル・ハンの遺体を探せ」
俺はチラウンに命じた。
「見つかったら、丁重に葬れ。ハンにふさわしい葬儀をしろ。銀の棺を用意しろ」
チラウンがうなずいて出ていった。
ボルテが俺の手を握ったまま、しばらく何も言わなかった。
ゲルの天窓から空が見えた。蒼い天。いつもと同じ空。
俺は空に向かって、心の中で呟いた。
——父上。すまなかった。
返事はなかった。テンゲリはいつも通り、沈黙していた。
モンゴル高原の東半分が、事実上テムジンの支配下に入った。
ケレイト族の兵と民を吸収し、領地を得て、三万五千の軍と数えきれない家畜を手にした。
二年前、ジャムカと別れた時は千人だった。十三翼で負けて九千になり、ケレイトと戦って二千八百まで落ち、バルジュナの三週間で一万二千まで戻し、ケレイトを倒して三万五千になった。
数字だけ見れば、順調な成長に見えるかもしれない。
だが俺は知っている。この数字の裏に、何千人もの死者がいることを。タタル戦の死者。十三翼の死者。カラハルジトの死者。そしてトグリル。
力を得るたびに、何かを失っている。何かを殺している。
それが覇道だ。
これからも、そうだ。次はジャムカと戦い、ナイマンと戦い、もっと多くの人間が死ぬ。その全ての死を背負って、先に進むしかない。
ボオルチュが隣にいた。
「次はジャムカか」
「ああ」
「ジャムカは、ナイマンのところに行ったらしい。タヤン・ハンを担いで、また反テムジン連合を作ろうとしてる」
「知ってる」
「勝てるか」
「勝つ。今度は——数で上回る」
ケレイトの兵力を吸収した今、俺の軍は草原で最大の勢力になっていた。ジャムカがナイマンと組んでも、数で互角以上に戦える。
「最後の戦だな」
ボオルチュが静かに言った。
「ジャムカを倒せば、もう草原に俺たちの敵はいない」
最後の戦。
ジャムカ。アンダ。義兄弟。同じ毛皮にくるまって眠った男。焚き火の前で「おまえが好きだ」と言った男。
その男と、最後の戦をする。
風が吹いた。西から吹く風だった。ナイマンの方角から吹いてくる風。
嵐の匂いがした。




