第二十話「最後のアンダ」
ジャムカが最後の連合を組み上げた。
ナイマン族を中核に、メルキト残党、タイチウト残党、オイラト族の一部、そしてジャムカ直属の兵。寄せ集めだが、数は四万三千。
対する俺の軍は五万二千。ケレイト崩壊後の三万五千を基盤に、ケレイトの旧領で帰順した小部族や、草原各地から集まった戦士を組み込んで膨れ上がった。モンゴル高原東半分を押さえたことで、兵も馬も食料も桁違いに増えた。
初めて、数で上回っていた。
ナイマン族のタヤン・ハンは、草原の西方を支配する大勢力の長だ。兵は精強で、領地は広い。だが、タヤン・ハン本人は——評判が芳しくなかった。
「臆病者だ」
チラウンの斥候がそう報告してきた。
「父のイナンチャ・ハンは英雄だったそうですが、息子のタヤンは違います。戦場に出たがらない。家臣に任せきりで、自分はゲルの中にいる。母親のグルベスが実権を握っているという噂もあります」
「母親が?」
「グルベスは気が強い女で、タヤンに向かって『おまえは小便の匂いしかしない男だ』と言ったことがあるそうです」
ボオルチュが吹き出した。
「母親にそこまで言われるハンか。やりやすいな」
やりやすい。だが油断はしない。タヤンが弱くても、ナイマンの兵は強い。そしてジャムカがいる。ジャムカの頭脳がタヤンの弱さを補えば、手強い相手になる。
問題は、ジャムカがどこまでタヤンを動かせるかだ。
両軍がナクー崖の麓で対峙した。
ナイマンの本陣はナクー崖の上。崖を背にして、高所に布陣している。守るには有利だが、退路が崖で塞がれている。
兵力を記す。
テムジン軍、五万二千。中央軍二万はムカリが指揮。ケレイトから吸収した重騎兵三千を含む。左翼一万五千はカサルの弓隊を中核に据えた部隊。右翼一万二千はボオルチュの快速騎兵隊。予備五千はジェルメの護衛精鋭と直属部隊。全軍が十進法で編成。伝令網のヤムは中継点を十二箇所設置。
ナイマン連合軍、四万三千。中央にナイマン本隊二万五千。タヤン・ハンが崖の上の本陣に座り、将軍コクセウ・サブラクが前線を指揮する。左翼にジャムカの直属五千とメルキト残党三千。右翼にタイチウト残党五千とオイラト族五千。
注目すべきは、ナイマンの将軍コクセウ・サブラクの存在だった。この男はタヤンとは違い、戦場を知り尽くした古参の猛将だ。ナイマン軍の実質的な指揮はこの男が執っている。
戦いの前夜、俺は一つの仕掛けをした。
「焚き火を多く焚け。一人が五箇所の火を管理しろ。夜通し燃やせ」
五万二千の兵が、一人五箇所の焚き火を焚けば、二十六万の火が草原に灯る。遠くから見れば、五十万の軍がいるように見える。
崖の上のナイマン本陣から、この火の海が見えるはずだ。
チラウンの斥候が、夜のうちにナイマン陣営の反応を探ってきた。
「タヤン・ハンが動揺しています。『テムジンの軍はあんなに多いのか。星よりも多い焚き火だ』と言っていたそうです」
「コクセウ・サブラクは?」
「冷静です。『焚き火の数で敵を測るな』と言っていましたが、タヤンは聞いていないようです」
「ジャムカは?」
「ジャムカは——」
チラウンが少し口ごもった。
「ジャムカは笑っていたそうです。『テムジンは昔から、こういう小細工がうまい』と」
ジャムカには通じない。あの男は俺を知りすぎている。だが、ジャムカが見抜いても、タヤンには通じる。臆病な男の恐怖を煽れば、判断が鈍る。判断が鈍れば、コクセウ・サブラクの進言も通らなくなる。
敵の指揮系統を、戦う前に壊す。
翌朝。
霧が出ていた。ナクー崖の周囲を白い霧が覆い、視界が百歩先までしか利かない。
「霧の中で仕掛ける。今だ」
霧は弓兵には不利だが、奇襲には有利だ。敵から見えない。そして敵の弓も、こちらに届かない。
「ムカリ、中央を前進させろ。霧が晴れるまでに、ナイマンの前線に取りつけ」
ムカリの二万が、霧の中を静かに前進した。蹄に布を巻いている。カラハルジトの時ではない。ケレイト奇襲で使った手法だ。音を殺して近づく。
同時にカサルの左翼が南から、ボオルチュの右翼が北から、大きく迂回を開始した。
霧の中で、五万二千が三方向に展開する。伝令が霧を駆け抜けて、各隊の位置を報告してくる。ヤムの伝令網がなければ、霧の中で軍を動かすことは不可能だった。
霧が薄くなり始めた。
朝日が東から差し込んで、白い幕が溶けていく。
ナイマンの前線が見えた。距離、三百歩。
ムカリの二万が、すでに射程に入っていた。
「全軍——突撃!」
角笛が鳴り響いた。
ムカリの中央軍二万が、ナイマンの正面に突入した。
先頭はケレイトから吸収した重騎兵三千だ。カラハルジトで馬を射り殺した相手が、今度は俺の先鋒として突撃している。鉄と革の鎧をまとった重騎兵が、槍を構えて突進する。
ナイマンの前線を守っていたコクセウ・サブラクが即座に反応した。
「迎え撃て! 盾を構えろ!」
さすがは歴戦の将だ。霧の中の奇襲にも動じない。ナイマン兵が素早く盾の壁を作り、重騎兵の突撃を受け止めた。
衝突。鉄と木がぶつかる轟音。重騎兵の突進力でナイマンの盾壁が押し込まれたが、砕けはしなかった。コクセウ・サブラクの号令で二列目が盾を補強し、三列目が槍を突き出す。
正面は膠着した。
だが、正面は囮だ。
南から、カサルの弓隊一万五千が姿を現した。
カサルは丘の上に弓隊を展開し、ナイマンの左翼に向かって矢の雨を降らせた。一万五千の弓が一斉に弦を鳴らす。空を覆う矢の壁。ケレイト戦で鍛え上げた密集射撃が、ナイマンの左翼を叩いた。
ナイマン左翼に配置されていたのは、ジャムカの直属とメルキト残党だった。
ジャムカの兵は訓練されている。矢の雨にも崩れず、盾を上げて耐えた。だがメルキト残党は違った。密集射撃の経験がない。矢の雨に怯えて後退し始めた。
左翼に穴が開いた。
北から、ボオルチュの快速騎兵一万二千がナイマンの右翼に襲いかかった。
右翼のタイチウト残党とオイラト族が迎撃したが、ボオルチュの突撃の速度に対応しきれなかった。快速騎兵は一撃離脱を繰り返し、右翼の隊列を切り刻んでいく。
三方向からの同時攻撃。正面のムカリ、南のカサル、北のボオルチュ。三つの力が同時にナイマン軍を圧迫する。
崖の上のタヤン・ハンが、戦場を見下ろしていた。
チラウンの斥候が後に伝えてきた話では、タヤンはこの時、完全に動揺していたという。
「あの軍は——なぜあんなに統制が取れているのだ。一つの生き物のように動いている」
タヤンの目には、テムジン軍の動きが理解できなかっただろう。五万二千の兵が、伝令一つで方向を変え、隊形を組み替え、三方向から同時に圧力をかける。十進法の軍制と、ヤムの伝令網と、混成訓練の成果が、戦場で一つの形になっていた。
コクセウ・サブラクが崖の上に伝令を送った。
「ハン、予備兵力を前線に出してください。正面を支えきれません」
タヤンは迷った。迷っている間に、正面の圧力が増した。
「ハン、今すぐ兵を!」
タヤンは——崖の上で、後ろに下がった。
前に出るのではなく、後ろに。崖の奥に。
「……あの男は、逃げる気だ」
コクセウ・サブラクが呟いたという。
そしてジャムカが動いた。
ジャムカは左翼から、突然離脱した。
自分の直属五千を引き連れて、戦場を離れた。メルキト残党を置き去りにして、南へ走った。
ナイマンの左翼が完全に崩壊した。ジャムカの兵がいなくなり、メルキト残党だけでは持ちこたえられない。カサルの弓隊が殺到して、左翼を蹂躙した。
チラウンの伝令が報告してきた。
「ジャムカが離脱しました。南へ向かっています。戦場を去る前に、ナイマンの兵に向かって叫んでいました」
「何と言った」
「——『あのタヤンとかいう男は、自分の影にも怯える臆病者だ。あんな男と心中する気はない』と」
ジャムカらしかった。
見限った相手を、最後に嘲笑して去っていく。あの男はいつもそうだ。冷酷で、鋭くて、そして——どこまでも孤独だ。
ジャムカの離脱で、ナイマン連合軍の士気が崩壊した。
左翼崩壊の知らせがナイマン全軍に広がった。
右翼のタイチウトとオイラトが動揺した。ボオルチュの攻撃を受けながら、左翼の崩壊を見て、逃走を始める部隊が出た。
正面のコクセウ・サブラクだけが持ちこたえていた。この男は最後まで盾壁を維持し、ムカリの突撃を三度跳ね返した。
だが、左右が崩れた状態で正面だけ持ちこたえても意味がない。包囲が狭まっていく。
「コクセウ・サブラクを囲め。だが、降伏したら受け入れろ。あの男は殺すな」
俺は命じた。あの将軍は優秀だ。殺すのはもったいない。
ムカリがコクセウ・サブラクの部隊を三方から包囲した。逃げ場がなくなった時、コクセウ・サブラクは剣を地面に突き立てた。
「これ以上、無駄な血は流さん」
投降だった。
コクセウ・サブラクの投降で、ナイマン正面軍の抵抗が止まった。
崖の上のタヤン・ハンは、護衛に守られて崖の裏側から逃走を図ったが、ボオルチュの追撃隊に捕捉された。
タヤンは追い詰められた崖の上で、最期を迎えた。自ら命を絶ったとも、落馬して死んだとも言われているが、正確なところはわからない。
ナクー崖の戦果を記す。
テムジン軍。出撃五万二千。戦死二千三百。負傷四千。
ナイマン連合軍。出撃四万三千。戦死八千。負傷一万以上。投降一万五千(コクセウ・サブラク隊を含む)。逃亡約一万(ジャムカの五千を含む)。タヤン・ハン戦死。
鹵獲。ナイマンの全領地、家畜、武器、そしてナイマンが保有していたウイグル文字の書記官たち。この書記官たちは後に、モンゴル語を記録するための文字体系の基礎を作ることになる。
ナイマン族は滅んだ。タイチウトもメルキト残党も壊滅した。
モンゴル高原に残った勢力は、もう一つだけだった。
ジャムカ。
ジャムカが捕らえられたのは、ナクー崖の戦いから二十日後だった。
ジャムカは五千の兵を連れて南へ逃れたが、その五千は日を追うごとに減っていった。逃亡の途中で去る者、別の部族に身を寄せる者。最後に残ったのは、わずか数十人だった。
その数十人が、ジャムカを裏切った。
ジャムカの配下の男たちが、ジャムカを縛り上げ、俺のもとに引き出してきた。
「テムジン・ハン。ジャムカを捕らえました。どうかお褒めの言葉を」
男たちは得意げだった。主君を売って、新しい主君に取り入ろうとしている。
俺はその男たちを見た。
「おまえたちは、自分の主を縛って差し出したのか」
「は、はい。ジャムカはもう力がありません。テムジン・ハンにお届けすれば——」
「主を裏切る人間を、俺が信用すると思うか」
男たちの顔から血の気が引いた。
「主人を売る者は、次の主人も売る。そういう人間は、俺のそばには置けない」
俺は振り返って、ジェルメに命じた。
「この者たちを処刑しろ。主を裏切った罪で」
男たちが叫んだ。命乞いをした。だが、聞かなかった。
ジャムカを縛っていた縄を解かせた。
ジャムカは俺の前に立っていた。
痩せていた。髪は乱れ、服は汚れている。だが目だけは変わっていなかった。あの鋭い目。鷹の目とは違う。狐の目だ。全てを見透かし、全てを計算し、最後に笑う目。
でも今、その目に笑いはなかった。
「久しぶりだな、テムジン」
ジャムカが言った。声はかすれていたが、震えてはいなかった。
「ああ。久しぶりだ」
二人の間に、焚き火があった。
最後に二人で焚き火を囲んだのは、いつだったか。あの夜、ジャムカは「おまえが好きだ」と言った。「でも、おまえのやり方が怖い」と。
あれからどれだけの時間が過ぎた。どれだけの血が流れた。
「配下の奴らを殺したのか」
ジャムカが聞いた。
「殺した。主を売る人間は信用できない」
「……変わらないな、おまえは。恩は返すし、裏切りは許さない。最初からそうだった」
ジャムカは少し笑った。疲れた笑い方だった。
「俺の負けだ、テムジン。完全に負けた。戦でも、人集めでも、全部おまえに負けた」
「ジャムカ——」
「聞け。最後だから言わせろ」
ジャムカの目がまっすぐに俺を見た。
「おまえは正しかった。血筋じゃなく行動で評価する。あのやり方が正しかった。俺は最後まで、それを認められなかった。族長の家に生まれて、血筋の秩序を信じて、それが壊されるのが怖かった。おまえが怖かったんだ。おまえが壊すものが」
「俺は——おまえと一緒にやりたかった」
本心だった。嘘じゃなかった。
「知ってる。でも無理だった。おまえと俺は、同じ空の下で同じ方向を見ることができない。二頭の狼は同じ群れを率いられない。ボルテが最初に言ったんだろう、あれ」
俺は答えなかった。
「あの女は賢い。おまえにはもったいないくらいだ」
ジャムカが笑った。最後に見せた、あの屈託のある笑い方とは違う。もっと柔らかい、諦めの混じった笑い方だった。
「一つ頼みがある」
「何だ」
「血を流さずに殺してくれ」
草原の貴人の処刑法。血を地に流さず、背骨を折って殺す。テンゲリへの敬意だ。高貴な者の血は大地を汚してはならない。
「おまえを貴人として扱うのか」
「最後くらい、アンダとして扱ってくれてもいいだろう」
俺は黙った。
長い沈黙だった。焚き火が爆ぜる音だけが聞こえていた。
「……わかった」
声が震えた。初めてだった。ベクテルを殺した時も、トグリルの死を聞いた時も震えなかった声が、今、震えた。
「それと、テムジン」
「何だ」
「腰帯の金具、まだ持ってるか」
「……持ってる」
「そうか。捨てなかったのか」
ジャムカは目を閉じた。
「おまえは本当に、恩を忘れない男だな」
それが、ジャムカの最後の言葉だった。
処刑には立ち会わなかった。
ゲルの中に一人でいた。
手の中に、あの金の金具があった。ジャムカの腰帯から外された小さな金の板。アンダの誓いの証。
握りしめた。
涙は出なかった。もう何年も泣いていない。泣くという機能は壊れたままだ。
でも、手が震えていた。金具を握る手が、止まらないくらい震えていた。
外から、何かの音が聞こえた。聞きたくない音だった。
それが終わった後、静寂が降りた。
俺はゲルの天窓を見上げた。蒼い天が見えた。
——テンゲリよ。
心の中で呟いた。
——これが、おまえの望んだことなのか。
返事はなかった。
いつも通り、蒼い天は沈黙していた。
金具をしまった。革袋に入れて、荷物の一番奥に。捨てない。一生捨てない。
この金具は、俺が何を壊して、何を失って、ここまで来たかを忘れないための印だ。
ゲルを出た。
外には、五万の軍が広がっていた。ゲルの群れ。馬の群れ。人の群れ。モンゴル高原の全てが、今、俺の旗の下にある。
ボルテが隣に来た。
何も言わなかった。ただ、俺の手を握った。
ボオルチュが向こうから歩いてきた。いつもの顔だ。笑ってはいなかった。
「終わったな」
「ああ。終わった」
「草原に、もう敵はいない」
「いない」
ボオルチュは空を見上げた。
「長かったな」
「ああ。長かった」
風が吹いた。西から吹いていた風が、いつの間にか東に変わっていた。
草原を渡る風が、ゲルの旗をはためかせていた。俺の旗だ。白い旗に、九本の尾をつけた軍旗。これがモンゴル高原の隅々まで届く日が、来る。
もうすぐだ。




