第十二話「十三翼の戦い」
ジャムカが動いた。
知らせを持ってきたのは、チラウンの斥候だった。息を切らして馬から転がり落ち、一言で状況を告げた。
「ジャムカが十三の部族を束ねました。三万。こちらに向かっています」
三万。
俺の全兵力は一万三千。半分以下だ。
ジャムカの動きは予想していた。俺がハンを名乗った以上、ジャムカが黙っているはずがない。
だが、三万という数は予想を超えていた。
ジャムカは自分の手勢だけじゃなく、周辺の十三の部族を糾合していた。タイチウト族。タタル族の残党。イキレス族。コンギラト族の一部。ウルウト族。その他、テムジンの台頭を恐れる大小の氏族が集まっている。
十三の翼。それがジャムカの連合軍の名前だった。
「十三翼か。大層な名前だな」
ボオルチュが地図代わりの砂地に棒で線を引きながら言った。
「大層なのは名前だけじゃない。数も大層だ」
ジェルメが静かに返した。
「三万対一万三千。正面からぶつかれば負ける。どうする、テムジン」
全員の目が俺に集まった。ボオルチュ、ジェルメ、ムカリ、カサル、チラウン。俺の将たちだ。
俺は砂地を見つめた。
チラウンの斥候が持ち帰った情報を元に、敵の布陣を想像する。三万の軍勢。ジャムカが中央を率い、両翼にタイチウトとタタルの残党。横に広く展開して、数の優位で包囲する形を狙うだろう。
ジャムカの戦い方は知っている。メルキト戦で隣にいた。あの男は正面を囮にして、両翼で包む。マングダイ——偽装退却で誘い込んでから叩く。頭の中に戦場の全体図がある男だ。
同じ手を使われたら、一万三千じゃ防ぎきれない。
「地形を使う」
俺は砂地に線を引いた。
「ダラン・バルジュトの丘陵地帯。ここで迎え撃つ。正面に丘を置いて、背後にオノン河を背負う」
「背水の陣か。退路がなくなるぞ」
ボオルチュが眉をひそめた。
「退路を断つんじゃない。退路を一本に絞るんだ。丘の正面からしか来られないようにすれば、三万の数の優位が消える。正面の幅は限られるから、同時にぶつかれるのはせいぜい五千。それなら互角に戦える」
「側面からの迂回は?」
ムカリが聞いた。
「丘の左は沼地、右は急斜面。大軍では通れない。少数なら通れるが、そこにカサルの弓隊を伏せておく」
カサルがうなずいた。弟は今や俺の軍で最高の射手だ。弓の腕だけなら、俺より上かもしれない。
「正面はムカリが主力を率いて守る。俺はボオルチュと予備隊を後方に置く。敵が崩れたところに突っ込む」
「チラウンは?」
「斥候を続けろ。敵の動きを常に報告しろ。特にジャムカの本隊がどこにいるか。あいつの位置が戦況を決める」
計画を伝えた。将たちはそれぞれうなずいて、持ち場に散っていった。
残ったのはジェルメだけだった。
「テムジン」
「何だ」
「勝てるか?」
正直に答えた。
「わからない。五分五分だ。地形の利で数の差を埋められるかどうか。ジャムカの出方次第だ」
ジェルメはうなずいた。
「五分五分なら十分だ。あんたにゼロの時代からついてきた人間は、五分で賭ける覚悟はできてる」
三日後、ダラン・バルジュトの丘陵地帯に布陣した。
俺の一万三千を、十三の部隊に分けた。ジャムカが十三翼なら、こっちも十三で迎える。数で勝てないなら、せめて構えで対等に見せる。
丘の稜線に沿って、ムカリの主力七千が横一列に並んだ。盾になる丘を前に置いて、弓兵を前列、槍兵を後列に配置する。
左翼の沼地の手前に、カサルの弓隊千五百。草と泥に身を隠して、側面から回り込もうとする敵を迎撃する。
右翼の急斜面には、ジェルメの少数精鋭五百。斜面を利用して上から矢を射下ろす。
俺とボオルチュの予備隊三千は、丘の裏側。敵からは見えない位置で待機する。
残りの千五百はチラウンの斥候と伝令。戦場を走り回って、情報を俺に届ける。
布陣を終えて、丘の上から前方を見た。
地平線の向こうに、砂塵が見えた。
三万の軍勢が、草原を覆い尽くすように近づいてくる。
翌朝、ジャムカの軍が姿を現した。
壮観だった——と認めるしかない。
三万の騎馬が、地平線いっぱいに広がっている。中央にジャムカの本隊。黒い旗が林立している。左翼にタイチウトの軍勢。タルグタイの太った姿が馬上に見える。あの男とは、いつか決着をつけなきゃならない。右翼にはタタルの残党やその他の部族が混成で並んでいる。
数の圧力というのは、目で見てわかる。地面が黒く染まるほどの馬と人。それが一斉に動き出したら、大地そのものが動くように見えるだろう。
隣にいたボオルチュが、ぼそっと言った。
「多いな」
「ああ」
「でも、来る方向は一つだ」
「そうだ。それが俺たちの利だ」
角笛が鳴った。ジャムカの軍が、前進を始めた。
戦いは朝靄の中で始まった。
ジャムカの先鋒五千がまっすぐに丘に向かってきた。正面突破の構えだ。
ムカリが号令を出した。
「弓隊、射て!」
丘の上から、千本の矢が降り注いだ。
複合弓の矢は重い。高い角度で放てば、放物線を描いて敵の頭上から落ちる。鎧を貫くほどの力はないが、馬を怯ませ、隊列を乱すには十分だ。
先鋒が足を止めた。矢の雨の中に突っ込むのを躊躇っている。
その間に第二射。第三射。矢が弧を描いて空を渡り、先鋒の頭上に降る。馬が暴れ、騎手が落ちる。
「効いてるぞ!」
ボオルチュが声を上げた。
だが、ジャムカは止まらなかった。
先鋒の後ろから、第二陣が押し出してきた。先鋒を盾にするように、新しい部隊が左右に展開する。同時に、両翼が大きく弧を描いて動き始めた。
「来た——迂回だ」
チラウンの伝令が駆け込んできた。
「左翼、タイチウトの騎馬三千が沼地の縁を回り込もうとしています!」
「右翼からも! タタルの兵が斜面を登ろうとしています!」
想定通りだ。ジャムカは正面を囮にして、両翼で包みに来る。
「カサル、左を頼む」
カサルは弓隊を率いて、沼地の縁に伏せている。タイチウトが沼地を迂回しようとすれば、側面から矢の雨を浴びせられる。
「ジェルメ、右を押さえろ」
ジェルメの精鋭が、斜面の上から矢を射下ろす。高所の利があれば、少数でも多数を止められる。
序盤は計画通りに進んだ。
カサルの弓隊がタイチウトの迂回を止めた。沼地の縁で足を取られた騎馬に、横から矢が刺さる。タイチウトは前に進めず、後退した。
ジェルメの斜面防御も機能した。急な斜面を登ろうとするタタル兵を、上から射抜く。地形の利は圧倒的だった。
正面もムカリが持ちこたえている。丘の防御線は崩れていない。
——いける。
そう思った瞬間だった。
ジャムカが、消えた。
チラウンの伝令が蒼白な顔で駆け込んできた。
「ジャムカの本隊が見えません! 中央の旗はありますが、本隊の主力が——」
血の気が引いた。
中央に旗だけ残して、本隊が動いた。どこに?
俺は丘の上に駆け上がって、戦場全体を見渡した。
正面:ジャムカの先鋒がまだ丘に張り付いている。だが圧力が弱い。牽制だ。本気で攻めていない。
左翼:カサルがタイチウトを抑えている。
右翼:ジェルメが斜面を守っている。
後方——
そこで見えた。
オノン河の上流から、騎馬の集団が土煙を上げて迫ってくる。数は——五千以上。
ジャムカの本隊だった。
いつの間に回り込んだ。沼地の向こう側を大きく迂回して、俺たちの背後に出たのだ。沼地は大軍では通れないと思っていた。だがジャムカは馬を降りて沼地を徒歩で越え、向こう側で別の馬に乗り換えたのだ。替え馬を沼地の向こうに事前に配置していた——
準備していたのだ。最初から。正面攻撃も両翼の迂回も、全部囮だった。本命は最初から、背後への奇襲だった。
「後方から敵!」
俺の叫びが、戦場に響いた。
ボオルチュの予備隊三千が、慌てて後方に向き直る。だが遅い。ジャムカの本隊は全力で突っ込んできている。
「迎え撃て!」
ボオルチュが馬を蹴った。予備隊が後方に走る。でも陣形を整える前にジャムカの騎馬がぶつかった。
衝突の音。馬と馬が激突し、人が落ち、刃が交わる音。俺の予備隊は陣形が間に合わず、個々の戦いに分断された。
同時に、正面のジャムカ先鋒が本気で攻め始めた。ムカリの防御線に全力で突入する。丘の利点は、後方が崩れた瞬間に消えた。前と後ろから挟まれている。
「ムカリ! 持ちこたえろ!」
叫んだが、声が届いているかわからない。戦場の轟音に消される。
右翼のジェルメが斜面を降りて救援に来ようとしたが、タタル兵がそれを阻んだ。左翼のカサルも動けない。タイチウトが再び攻勢に出ている。
包囲されている。
完全に包囲されている。
ジャムカに読まれていた。地形を使って数の差を消す。その俺の計画を、ジャムカは最初から見抜いていた。見抜いた上で、もっと大きな絵を描いていた。
俺は弓を射ながら、正面の戦いを見て、後方の崩壊を見て、左右の膠着を見た。
全部が同時に見えた。
そして全部が、崩れていくのが見えた。
「退却する」
俺はその判断を下した。
ここで踏ん張っても、全滅するだけだ。包囲が完成する前に、一点を突破して逃げるしかない。
「ムカリ、正面を捨てろ! 全軍、オノン河を渡って東に抜ける!」
ムカリが号令を出した。正面の防御線が崩れる。だが崩れながらも、ムカリの兵は統制を保っていた。一斉に後退して、河に向かう。
カサルの弓隊が退路を覆う矢の壁を張った。追撃してくる敵に矢を浴びせながら、じりじりと下がる。
ボオルチュが予備隊の残存兵をまとめて、河の渡し場を確保した。
ジェルメが殿を務めた。斜面を降りた精鋭が、追撃の先頭を食い止めている。ジェルメの刀が血に濡れていた。
俺は馬を走らせながら、弓を射った。何人倒したか数えていない。ただ矢がなくなるまで射った。
オノン河を渡った。
水が冷たかった。首枷で逃げた夜を思い出した。あの時も、この河に助けられた。
河を渡り終えて振り返ると、ジャムカの軍が対岸に並んでいた。追撃はそこで止まった。渡河を強行すれば、こちらの矢で損害が出る。ジャムカはそこまでの犠牲は望まなかったのだろう。
あるいは——追い詰める必要がないと判断したか。勝敗はもう決している。
ジェレネ峡谷に退却した。
兵を数えた。
出発時の一万三千から、四千近くが減っていた。死者。負傷者。離散した者。正確な数はわからない。
九千。それが俺に残った兵力だった。
将たちは全員生きていた。ボオルチュ、ジェルメ、ムカリ、カサル、チラウン。全員、傷だらけだったが、生きていた。
負けた。
完全に負けた。
俺の最初の大規模な戦いは、敗北で終わった。
その夜、一人で焚き火の前に座っていた。
体中が痛い。右腕の矢傷は母に布で巻いてもらったが、まだ血が滲んでいる。左の肋骨も打撲で痛む。でも体の痛みより、頭の中の痛みの方がずっと大きかった。
何が悪かった。
何を間違えた。
何度も何度も、戦場を頭の中で再生した。
地形を使った。丘を盾にした。正面の幅を制限した。両翼に伏兵を置いた。全部正しかったはずだ。教科書通りの防御戦だった。
でも負けた。
なぜか。
——俺は、自分の陣だけを見ていた。
そう気づいた時、体が震えた。寒さじゃない。
俺は丘の地形を読んで、自分の兵をどう配置するかを考えた。でもジャムカは違った。ジャムカは俺の配置を読んで、その裏をかいた。俺が地形を見ている間、ジャムカは俺を見ていた。
俺は弓を射る目で戦っていた。的を見て、矢を放つ。一対一の戦いの延長だ。
ジャムカは鷹の目で戦っていた。上空から戦場全体を見下ろして、敵味方の全ての動きを一つの絵として捉えていた。
父が教えてくれた射法を思い出した。「考えるんじゃなくて、なるんだ。弓と、矢と、馬と、風と、全部と一つになる」。
あの教えは、弓だけの話じゃなかった。
戦場でも同じだ。自分の陣と、敵の陣と、地形と、天候と、士気と、兵站と——全部を一つの流れとして見る。その流れの中で、次に何が起きるかを感じる。
メルキト戦でジャムカの隣にいた時、俺は「俺にもできる」と思った。傲慢だった。あの時の俺は、ジャムカの采配を横で見ていただけだ。自分でやったことは一度もなかった。
初めて自分でやって、負けた。
当たり前だ。
ボルテが焚き火の向こうに座った。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
しばらくして、俺が口を開いた。
「負けた」
「知ってる」
「完全に負けた。ジャムカに読まれた」
「うん」
「俺は——まだ弱い」
「うん」
ボルテは否定しなかった。慰めもしなかった。ただ事実を受け入れた。
「でもね、テムジン」
ボルテが火を見ながら言った。
「負けて、全員が生きて帰ってきた。将も全員無事。兵も九千残ってる。負け方としては、最悪じゃない」
「最悪じゃないって——四千失ったんだぞ」
「全滅してたかもしれないでしょう。三万に一万三千で挑んで、九千残したのは、負けは負けだけど——退却の判断が早かったからだ。あれがもう少し遅かったら、誰も帰ってこなかった」
ボルテの分析は冷静だった。
「ジャムカは戦に勝った。でもおまえを殺せなかった。おまえが生きてる限り、まだ終わってないよ」
俺は黙った。
ボルテの言う通りだ。死んでない。将も生きてる。九千の兵がまだいる。
負けたけど、終わっていない。
「次は負けない」
俺は言った。
「次は——ジャムカの目で戦う。いや、ジャムカの上を行く」
ボルテは小さくうなずいた。
火が爆ぜた。闇の中に火の粉が舞い上がって、星に混じって消えた。
俺は目を閉じた。
瞼の裏に、今日の戦場が浮かんだ。丘の配置。ジャムカの迂回。後方からの奇襲。崩壊する陣形。
全部、覚えている。一手一手、覚えている。
この敗北を、骨に刻む。ソルカン・シラの恩を骨に刻んだように。ベクテルを殺した業を骨に刻んだように。
この痛みが、次の勝利の設計図になる。




