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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-2323 異世界で食堂を 業務上過失致傷等被告事件
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第97話:食を冒涜する者

「被告。最後の弁明があれば」


 ヴェルナーの静かな声が、先ほどの被害者証言が残した重苦しい空気を切り裂く。父親の悲痛な告白が染み込んだ法廷内で、誰もが被告人の次なる言葉を待ち構えていた。


 フェリクスは証言台の縁を白くなるほど強く握りしめ、顔を上げた。子供が固いものを食べられないという残酷な現実を突きつけられてもなお、彼の中には己の正当性を証明したいという執着が渦巻いている。


「でも常連客もいたんです! 美味しいって言ってくれた人もいて——」


 縋り付くような、しかしどこか苛立ちを孕んだ悲痛な叫び。それをコッホが冷徹な声で一刀両断にする。


「『美味しい』と『安全』は別です」


 検察官は座席から一歩も動かず、手元の資料から視線を上げることすらない。教師が生徒を諭すような平坦さだ。


「毒キノコにも美味しいものがあります。美味しさは安全の証明にはなりません」


「珍しい料理を広めたかっただけで——」


「『珍しい』と『安全』も別です」


 即座に被せられた言葉が、フェリクスの言い訳を叩き落とす。


「珍しいから試す。試した結果十二人が倒れた。——珍しさは免罪符ではありません」


「営業許可が必要だなんて知らなくて——」


「飲食店の営業に許可が必要であることは、王都市政局の掲示板に書いてあります」


 ついにコッホが顔を上げ、分厚いレンズ越しに鋭い視線を射抜いた。その奥には、食を冒涜する者への静かな、しかし確かな怒りの炎が燃えている。


「字が読めますか」


 単純明快な事実による追及に、フェリクスは絶句する。


「…………」


 コッホが重々しい足取りで検察席から歩み出て、証言台のフェリクスへと近づいていく。その巨躯から発せられる威圧感は、先ほどの長広舌の時とは違う、底知れぬ冷たさを帯びていた。


「いやそれはね、フェリクスさん」


 コッホの口から、先ほどと同じ口癖が漏れる。だがそこに食オタクとしての狂熱は微塵もない。あるのは、冷徹な現実を突きつける執行者としての顔だけだ。


「それは社交辞令です。珍しいものを出された客が、店主の前で『不味い』と言いますか? 言いません。言わずに、二度と来ないだけです」


 フェリクスが顔を引き攣らせ、後ずさろうとする。彼の唯一の拠り所であった「美味しい」という評価すら、コッホの論理の刃は容赦なく解体していく。


「だが二度目はなかった。食中毒で倒れたからです」


「…………」


「あなたは『前世の知識』を売りにしていた。知識があるなら、食品の安全管理の知識もあったはずです」


 コッホはさらに一歩踏み込み、被告を真正面から見据える。逃げ場のない視線の檻に、青年を完全に閉じ込めた。


「冷蔵が必要なこと。生卵のリスク。発酵の温度管理。——全部知っていたはずです。知っていて、手を抜いた。コストを惜しんだ」


 退路を全て断たれたフェリクスは、喉の奥で引きつったような音を立てるだけだ。


 コッホは無慈悲な刃を振り下ろすように、法廷全体に響き渡る声で言い放った。


「知らなかったなら素人の無謀。知っていたなら手抜きの確信犯。——どちらですか」


 石造りの法廷に、検察官の冷ややかな問いかけが幾重にも反響する。


 コッホは質問を投げかけた姿勢のまま、微動だにせず答えを待つ。被告席に立つ青年に、もはや反論する気力は残されていなかった。血の気を失った顔で深く項垂れる。


「…………」


 完全な沈黙が、言い逃れのきかない敗北の事実を法廷に刻み込んだ。


 コッホは数秒間、答えを待つように佇んだ後、少しだけ後退り、静かに検察席へと戻っていく。


 ヴェルナーは一連の追及を見届けた後、表情を変えずに確認する。


「被告。何か言うことは」


「…………」


 フェリクスはうつむいたまま、首を横に振る力すら失っていた。


 その姿にそれ以上の言葉をかけることはせず、ヴェルナーは手元の進行表に目を落とし、毅然とした声で宣言する。


「では、検察官。論告に入ってください」


 促されたコッホが、検察席で手元の分厚い書類をトン、と一つ音を立てて整え、裁判の最終段階への準備を始めた。


◇◇◇



 コッホ検察官が、椅子を引いて静かに立ち上がる。


 分厚い書類束を手に取り、裁判席のヴェルナーへと一度深く会釈した。その表情から先ほどまでの狂熱は消え、代わりに職責を全うせんとする検察官としての光が宿っている。


「論告します」


 短く告げられたその言葉を合図に、法廷の空気が引き締まる。


「被告は前世で料理人ではありません。先ほど本人が認めた通り、食べていただけの人間です。その人間が、王国の営業許可を取らず、衛生基準を無視し、この世界に冷蔵技術がないことを知りながら生卵を提供しました。被告は『前世の知識』を売りにしていた。ならば、食品安全に関する最低限の知識もあったはずです。冷蔵が必要なこと、生卵のリスク、そして発酵食品の温度管理。被告は、自分にとって都合のいい知識だけを持ち出し、他者を生かすために都合の悪い知識は意図的に無視したのです」


 コッホは一息に語り、一度言葉を切る。


 視線を被告席へと向け、そこから流れるように、手元の成分分析表へと落とした。


「特にね、私が許せないのは、被告が『発酵食品』と称して提供したあの代物です」


 コッホの声に、わずかな熱が混じり始める。それは先ほどの暴走とは違い、食を愛する者としての切実な警告に近い。


「発酵というのはね、温度・湿度・時間・菌の管理、この四つが揃って初めて成立する精密な技術です。被告が大豆もどきを『発酵させた』と主張するあの液体、私も成分を見ましたが、あれは発酵ではなく、単なる腐敗です。発酵と腐敗は全く別物ですからね、ご存知でしたか。発酵は有用菌の働きで食品を豊かなものに変質させる。対して腐敗は、有害菌の働きで食品を分解し、毒素を撒き散らす。温度管理もせず、ただ大豆を放置すれば、腐敗以外の何が起きるというのですか? いやそれはね、料理を志す人間なら最初に学ぶべきイロハです。被告はそれを学んでいない。学ばずに、あろうことか人に出した。——これは怠慢であり、食に対する不誠実そのものです」


 ヴェルナーは制止することなく、コッホの熱弁を静かに聞き届ける。発酵の原理という専門的な視点は、本件の過失を立証する上で重要な論理の柱となり得るからだ。


「いやそれはね、よく考えていただきたいのです」


 コッホは裁判席のヴェルナーに歩み寄り、声を一段と力強く響かせる。


「被告がもし、正当に営業許可を申請していたら、一体何が起きたか。王国の法に基づき、衛生検査が入ります。経験を積んだ検査官が、被告の厨房を隅々まで確認したはずです」


 コッホは書類を一枚めくり、指を立ててリズミカルに畳みかけた。


「冷蔵設備がない。この時点で却下です。生卵をそのまま提供する予定。この時点で却下です。発酵食品を温度管理なしで仕込んでいる。この時点で却下です。そもそも厨房に温度計すら置いていない。この時点で却下です」


 四つの「却下」が、石造りの法廷に激しい音を立てて跳ね返る。


「許可は降りなかったでしょう。そうなれば、被告は店を開けられませんでした。店が開かなければ、食中毒は起きなかった。十二人の被害者は、一人として出なかったのです」


 被告席のフェリクスが、息を呑む。


「無許可営業は、単なる手続き上の不備ではありません。適正な検査を回避することで、十二人の被害者を生み出した直接の起点であり、最大の要因です。許可制度とは、すなわち『資格』の確認です。その人間に、公衆に対して店を開く資格があるかどうかを、第三者が客観的に確認する仕組みなのです。被告はこの確認を、自ら進んで回避しました。なぜか。回避しなければ、審査を通らないと自分でも分かっていたからです」


 フェリクスの顔から、さらなる血の気が引いていく。


「被害者は十二名です。『珍しい料理だ』という被告の言葉を、心から信じて食べた人々です。被告が『前世の国では毎日食べていた』と言ったからこそ、彼らは安心して口に運んだ。その言葉そのものは嘘ではなかったかもしれない。だが、前世と同じ安全な環境がこの世界には存在しなかったことを、被告は最後まで言わなかった」


 コッホは語り終え、ゆっくりと検察席へと戻る。


「検察は、無許可営業、衛生管理法違反、過失致傷十二件、新規食材の無届使用——その全罪状について、被告フェリクスの有罪を求めます」


 法廷には、論告の余韻が残る静寂が横たわっている。ヴェルナーは手元の議事録に、コッホの主張を重みを持って書き込んだ。


「ご苦労様でした、検察官」


 判事正の言葉を受け、コッホは再び深々と一礼し、自らの椅子に深く腰を下ろした。


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