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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-2323 異世界で食堂を 業務上過失致傷等被告事件
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第96話:美食家検察官

「俺は前世の知識で、この世界にない料理を広めようとしただけです」


 フェリクスが証言台から身を乗り出し、法廷全体へ向けて声を張り上げた。その顔に浮かんでいるのは、未だに自分が罪に問われていることへの不満と、無知な異世界人に対する明らかな苛立ちである。


「前世では卵かけごはんは普通の食事だったんです。マヨネーズだって、前世では当たり前の調味料で——俺は何も悪いことしてない! むしろ、この世界の食文化を進歩させようとしただけだ!」


 自分こそが啓蒙者であると言わんばかりの傲慢な態度に、傍聴席からヒソヒソと非難めいた囁きが漏れる。ヴェルナーは無表情のままフェリクスの主張を受け止め、視線だけで検察席を促した。


 コッホが、豊かな腹を揺らしてゆっくりと立ち上がる。その表情は先ほどと変わらず、教室で教鞭をとる温和な教師のようだ。分厚い書類の束を几帳面に揃え直すと、穏やかな声で問いかけた。


「フェリクスさん。前世にはこの世界にない技術がありましたか。たとえば食材を低温で保存する装置」


「……冷蔵庫ですか。ありました」


「この世界にはありますか」


「……冷蔵魔法がありますが、高くて——」


「使っていましたか」


 コッホの静かな問いが、石造りの床に重く落ちる。フェリクスは微かに視線を逸らした。


「……使っていません」


「前世では冷蔵庫があったから生卵が安全だった。この世界では冷蔵がないのに生卵を出した」


 コッホは一つ一つの事実を噛み砕くように、淡々と並べていく。


「前世の知識があるなら、なぜ冷蔵が必要だという知識だけ忘れたのですか」


 痛いところを突かれたフェリクスは言葉に詰まり、忌々しげに唇を噛む。


「前世で料理人でしたか」


「……いえ。会社員で……」


「会社員。記録します」


 コッホが手元の書類に流麗なペンさばきで書き込む。


「では、料理は趣味でしたか」


「趣味……というか、食べ歩きが……」


「食べ歩き」


 コッホのペン先が、ピタリと止まる。


 法廷の空気が、一瞬にして変質した。丸みを帯びた恰幅のいい身体から、得体の知れない威圧感が立ち昇る。分厚いレンズの奥にある温和な糸目が限界まで見開かれ、獲物を見つけた美食家のように、異様な熱を帯びた光を放った。


「いやそれはね、フェリクスさん。私もそうなんですよ」


 突如として、コッホの口から堰を切ったように言葉が溢れ出す。


「王都北区のヴァルター亭の鴨のコンフィ、あれは半年寝かせた赤ワインで仕上げる極上のソースが鴨の脂を完璧に切ってね、南区の老舗ロスマンの三年熟成チーズ、これがまた発酵の温度管理が絶妙で、カビの種類まで管理してるんですよ、ご存知でしたか。それに中央広場の屋台のソーセージだって、肉と香辛料の比率を季節で変えていてね、冬場は少しばかり胡椒を強めにして脂の甘みを引き立てるという計算し尽くされた職人技で、東区の海鮮市場に並ぶ朝獲れの白身魚なんかは血抜きの技術一つで旨味がまるで変わってくるわけで——」


 息継ぎすら忘れたかのような早口と、専門用語の濁流。予想外の熱量で捲し立てられ、フェリクスは目を丸くして後ずさる。


「コッホ検察官」


 ヴェルナーの低く通る声が、法廷を席巻する熱波に冷や水を浴びせた。


「は」


「論点を絞ってください」


「……失礼しました」


 コッホは我に返ったように言葉を切り、一瞬だけ眼鏡を外して目頭を強く揉む。深く息を吐き出して呼吸を整え、再び眼鏡をかけ直すと、何事もなかったかのようにフェリクスへと向き直った。


「でね」


 声のトーンこそ普段の穏やかさを取り戻したものの、レンズの奥の双眸は依然として鋭い光を放ち続けている。


「だからこそ、分かるんです。食べることと、作ることが、まったく別の技術だということが。フェリクスさん。あなたは前世で何時間、厨房で過ごしましたか」


「……」


 完全に毒気を抜かれたフェリクスは、口を半開きにしたまま沈黙する。


「ゼロ時間ですね。記録します。自炊はされていましたか」


「……カップ麺と……コンビニ弁当が……」


「カップ麺。記録します」


 コッホのペンが、無機質な音を立てて羊皮紙を滑り、被告の素人ぶりを法廷の事実として刻み込んでいく。


「食べていただけですね」


 コッホの声は、もはや温和な教師のものではなく、底に冷たい怒りを残した響きを帯びていた。


「食べることと、安全に食べさせることは、別の技術です。——あなたは前者しか持っていなかった」


 自己弁明の余地を徹底的に塞がれ、フェリクスはうつむいたまま一言も発することができない。


 静寂を取り戻した法廷を見渡し、ヴェルナーは手元の議事進行表に目を落とす。


「では、続いて被害者の証言に移ります」


◇◇◇



 重い木製の扉が開き、三十代半ばほどの男性が証言台へと進み出た。


 名前をトーマスというその男は、まだ食中毒の後遺症が抜けていないのか、頬がげっそりとこけ、顔色には土気が混じっている。法廷特有の張り詰めた空気に身を縮こまらせるようにして、ゆっくりと宣誓の言葉を口にした。


 ヴェルナーは手元の資料から視線を上げ、穏やかな、しかし確かな敬意を込めた眼差しを証人に送る。


「あなたが被告の店を訪れた経緯を、お聞かせください」


 問いかけに対し、トーマスは少し怯えたように被告席のフェリクスを横目で見てから、ぽつりぽつりと話し始めた。


「……『異国の珍しい料理』だと聞いて行きました。卵を……生のまま飯にかけるのは見たことがなくて……」


 証言する声はかすれ、時折途切れる。法廷には彼の朴訥な響きだけが落ちていく。


「最初は気味が悪かったんです。でも、店主が『前世の国では毎日食べてた』と言うので……」


 トーマスはごくりと唾を飲み込む。


「子供にも見せてやりたくて、一緒に行きました。見たこともない料理を食べるなんて、めったにない経験ですから」


 ヴェルナーは静かに頷き、一つだけ間を置いてから、静謐な声で尋ねた。


「美味しかったのですか」


 証言台のトーマスが、びくりと肩を震わせる。


 視線を床に落としたまま、固く口を閉ざしてしまった。検察席ではコッホが一切の表情を消し、静かに目を伏せている。


 沈黙が長引くのを見計らい、ヴェルナーは決して声を荒げることなく、もう一度だけ言葉を紡ぐ。


「美味しかったのですか、と訊いています」


 促されたトーマスは、絞り出すように小さな声を漏らした。


「……正直、美味しくはなかったんです。でも、珍しくて。子供にも見せてやりたくて」


「美味しくない料理を、被告は『前世では毎日食べていた』と説明していたのですね」


「はい。だから、こういう味のものなのかと思って……」


 被告が自信たっぷりに語った言葉が、彼らにとって唯一の安心の根拠だったのだ。未知の味に対する違和感を、他でもない被告自身の言葉が蓋をしてしまっていた。


「食べた後、どのような症状が」


 ヴェルナーの問いに、トーマスは俯いたまま、両手を膝の上で握りしめた。


「食べた夜から腹が……三日間動けませんでした。子供も一緒に食べていて……子供の方が重くて……」


 声に滲む後悔の念が、冷たい石造りの法廷に重くのしかかる。被告席のフェリクスは腕を組み、視線を逸らしているが、今は何も言い出すことはできない。


 ヴェルナーは手元のペンを置き、証言台の父親を真っ直ぐに見据えた。


「……お子さんの現在の状態は」


 トーマスは顔を上げ、涙ぐんだ瞳で虚空を見つめる。


「……まだ固いものが食べられません」


 ヴェルナーは何も言わず、ただ深く息を吸い込んだ。


「…………」


 判事正の重い沈黙が、被害者の負った痛みの深さを法廷全体に知らしめる。それは法の下の裁き手としての威厳であると同時に、一人の人間としての静かな哀悼でもあった。


「あの子、楽しみにしてたんです。お父さんと一緒に新しい料理を食べに行くのを」


 トーマスが、震える声でぽつりと言い添える。


「……まだ、外の店には行けないって言うんです」


 法廷に静寂が降りる。


「証言、ありがとうございました。お疲れ様でした」


 ヴェルナーの静かな労いの言葉を受け、トーマスは深く一礼し、足を引きずるようにして退廷していく。その後ろ姿が完全に扉の向こうへ消えるまで、誰も身動き一つしなかった。


 重苦しい空気を切り裂くように、ヴェルナーが法廷全体に響く声で宣言する。


「では、検察官。論告に入る前に、被告に最後の弁明の機会を」


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