第98話:料理人資格制度
ヴェルナーは手元の判決書を静かに整え、顔を上げた。
法廷内のすべての視線が、判事正の一挙手一投足に注がれている。検察席のコッホも、被告席で項垂れるフェリクスも、傍聴席を埋め尽くす人々も、等しく息を潜めてその時を待っていた。
「判決を言い渡します」
低く重厚な声が、石造りの空間に厳粛に響き渡る。
「被告フェリクスは前世の記憶を持つ転生者です。『前世の料理を広めたかった』と主張しています。しかし被告は前世で料理人ではありません。食べていただけです」
ヴェルナーは事実のみを冷徹に紡ぐ。
「食べることと、安全に食べさせることは、まったく別の技術です。被告は営業許可を取得せず飲食店を開業しました。衛生基準を満たしていません。生食禁止を知りながら生卵を提供しました。発酵食品の管理は極めて杜撰でした」
ヴェルナーの視線が、証言台の青年を真っ直ぐに射抜く。
「前世に冷蔵庫があったことを知っていて、この世界で冷蔵設備なしに生ものを出した。被告は『前世では普通だった』と繰り返しました。——前世は前世です。この世界はこの世界です」
一音一音に重みを込めた宣告が、フェリクスの心に打ち込まれる。
「前世の常識をこの世界にそのまま持ち込むことは、『知識』ではありません。怠慢です」
判事正はここで言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
検察官が論告で提示した『資格』の概念を、判決として確定させる。
「前世で食べていただけの人間に、この世界で食べさせる資格はありませんでした」
法廷全体を支配する沈黙の中、ヴェルナーは判決の核心部分へと言葉を進める。
「量刑を申し渡します。無許可営業について。罰金二百万クローネ。衛生管理法違反について。罰金三百万クローネ。新規食材無届使用について。罰金百万クローネ」
罰金額が読み上げられるたび、フェリクスの肩が微かに跳ねる。
「過失致傷について。被害者は十二名。うち重症者二名。重症者一名は子供であり、現在も後遺症が継続している。——禁固五年」
判決の重みが、具体的な数字となって提示された。
「以上を併合し、被告フェリクスを禁固五年に処す。加えて、王国内での飲食業営業を永久に禁ずる。被害者十二名への損害賠償を命ずる。額は別途算定。……以上、判決とする」
もはや言い逃れの余地はなく、フェリクスは崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
ヴェルナーは手元の木槌を握り、静かに、しかし力強く打ち下ろした。
「被告を連行してください」
警吏たちが進み出て、虚ろな目をしたフェリクスの両腕を掴む。抵抗する気力すら失った青年は、引きずられるようにして重い扉の向こうへと消えていった。
◇◇◇
警吏に両腕を掴まれ、法廷の出口へと引きずられていくフェリクスが、亡霊のように虚ろな目で振り返った。
「……前世の味を……この世界にも……」
未練がましく呟く青年に、ヴェルナーは裁判席から冷徹に告げる。
「この世界には、この世界の味があります」
「——連行してください」
重厚な木製の扉が閉じられ、法廷はようやく本来の静謐を取り戻した。
自室の執務机に戻ったヴェルナーは、法服の襟をわずかに緩めて深く息を吐き出す。今回の事件が残した疲労は、思いのほか重く肩にのしかかっていた。
「裁判官殿。お疲れ様でした。……あの『マヨネーズ』、証拠品として保管庫にあるんですが」
入室してきた書記官が、ひどく顔をしかめながら報告書を差し出してくる。
「……処分してください」
「すでに処分班が嫌がっています。蓋を開けたら——」
「聞きたくありません」
ヴェルナーが即座に手で制止したところへ、控えめなノックの音が響く。
「ヴェルナー判事。一件、ご報告が」
現れたのは、法廷での厳粛な顔を仕舞い込み、すっかり普段の穏やかな空気を纏ったコッホだった。
「何でしょう」
「例の証拠品の件で、私が処分を引き受けようかと」
「……あなたが?」
「興味があります」
コッホの分厚いレンズの奥で、食の探求者としての好奇心がきらりと光る。ヴェルナーと書記官は、無言のまま顔を見合わせた。
「……止めた方が……」
書記官の引きつった声をよそに、コッホは豊かな腹を揺らして熱っぽく語り始める。
「発酵管理に失敗した場合、どこまで腐敗が進むのか。資料として価値があります」
「あなた、それを食べる気ですか」
「まさか。匂いを嗅ぎたいだけです」
「……止めた方が……」
今度はヴェルナー自身が呆れ声で呟く。
「いえ、これは食を司る者の責務ですから」
「あなたの『責務』は、いま、私が判事として禁じます」
ヴェルナーが低い声で言い渡すと、コッホは名残惜しそうに視線を彷徨わせた。
「……承知いたしました」
少し残念そうに引き下がる検察官の姿に、室内の空気がわずかに緩む。しかし、書記官の次の一言が、再び重い現実を引き戻した。
「胃薬で思い出しましたが、被害者の方が差し入れにお菓子を——」
「…………」
ヴェルナーの動きがぴたりと止まる。
固いものが食べられなくなった、あの幼い子供の姿が脳裏を掠めた。
ヴェルナーは疲労の滲む動作で椅子に深く腰を下ろし、窓の外に広がる王都の夕闇を見つめた。
「……当分、人が作ったものを食べたくない気分です」




