第99話:渋ちんの訴え
潮の香りと、魚を捌く包丁がまな板を叩く音。湊崎の朝は、いつだって騒がしい。
西方の船乗りが酒場で騒ぎ、酔っ払いの喧嘩が二件。奉行所の朝は、そんな使い古された報告から始まる。
「……以上が、昨晩から今朝にかけての報告です」
同心のタツマが、硬い声で締めくくった。
「左様ですか。相変わらず、平和なこって」
欠伸を噛み殺しながら、湊崎奉行・ムネシゲは胡坐をかく。
「いえ、ご報告がもう一つ。門前に乾物屋のトビチ殿が来ております。三十分前から、ずっと」
「トビチ? あの渋ちんの堅物が、奉行所に泣きつくたぁ珍しいな。三十年もこの街で商売してりゃ、少々の不運には慣れてるはずだが」
ムネシゲは、僅かに目を細める。
トビチが訴えているのは、近所にできた孤児院「まもり屋」とのトラブルだった。
「店を潰された、と。まもり屋の院長・マサチカ殿に、法外な立ち退きを迫られているそうです」
タツマが困惑を隠さずに続ける。
「しかしお奉行、町民は皆、あの院長を慕っております。魔獣討伐の件もあり、今や街の英雄だ。そんな方を疑うのは、いささか早計では……」
「英雄、ねえ。この湊崎で英雄を名乗るなら、まずは嘘のつき方から教わっておくべきだったな」
ムネシゲの言葉に、タツマが言葉を詰まらせる。
「……ほう」
喉の奥から、短い声が漏れた。
博徒が勝負どころで牌をめくる時のような、湿った響き。
何かが、引っかかる。
具体的な証拠があるわけではない。トビチの話が真実かも、まだ分からない。だが、博徒の勘が、背中の産毛を逆立たせる。
「朝っぱらから英雄を相手にするなんて、今日はろくな日じゃねえな」
ムネシゲは重い腰を上げる。
「タツマ、そのトビチを呼びな。まずは乾物屋の親父が、何を見てそこまで怯えてるのか、じっくり拝ませてもらおうじゃねえか」
港から、船の汽笛が長く響いた。
◇◇◇
奉行所の一室。敷居を跨ぐトビチの足取りは、ひどく重い。
三十年も商売を続けてきた男の背中が、今は寒風に晒された枯れ木のように縮こまっている。
「……お、お奉行。お呼び出しのところ、恐縮に存じます」
震える手で膝を掴み、トビチは深々と頭を下げる。
脇に控えたタツマが、優しく促すように声をかけた。
「トビチ殿、楽になさい。先ほどお話しいただいた件、お奉行に直接」
「はい。……ですが、あの方は街の英雄で。私なんぞが口を挟むようなことじゃあ、ないんです」
トビチは何度も「マサチカ殿は立派な方だ」と繰り返す。
孤児を助け、街を襲う魔獣を退治した異世界の勇士。
その隣で乾物屋を営むトビチは、当初は感謝さえしていたという。
「ところが、十日ほど前からです。ぱったりと、客が来なくなっちまいまして」
「十日。随分と急だな」
ムネシゲはキセルを弄びながら、半目でトビチを見る。
「ええ。三十年来の常連さんも、昨日まで笑っていた近所の人も、誰一人として。……理由を聞いても、皆、同じことしか言わないんです」
「ほう。何と言った」
ムネシゲの問いに、トビチは困惑したように眉を寄せた。
「『なんとなく、あの店は良くない気がする』……と。それだけ言って、足早に去っていくんです。まるであの店を避けるのが、街の決まり事でもあるかのように」
ムネシゲは、弄んでいたキセルを止める。
「全員が同じ言い方か。……トビチ、お前、院長に何か言ったか」
トビチは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……一度だけ。子供たちの騒ぎ声が、あまりに夜遅くまで響くもんで。商売道具の乾物に匂いが移ると困るから、少し静かにしてほしいと、それだけお願いしたんです」
「一度だけ苦情を言った。その直後に、客が全員消えた。しかも同じ台詞を吐いて」
「はい。……やっぱり、私の気のせいですかね。あの方は立派な御方だ。そんな嫌がらせをするはずも……」
「気のせいで奉行所まで足を運ぶ奴ぁ、この湊崎にはいねえよ」
ムネシゲが、ふっと薄く笑う。
その目は笑っていない。
「……ほう」
二度目の「ほう」。
それは、賭場の親が壷の中に仕込まれたイカサマ札を見抜いた時の響きだ。
「タツマ。この街の『英雄様』は、随分と繊細な耳をお持ちのようだ」
ムネシゲは立ち上がり、袴の埃を払う。
「トビチ。今日はもう下がりな。乾物を売る場所がなくなっちまったんなら、とりあえずは体を休めるこった」
「お、お奉行……」
「タツマ。出掛けるぞ。英雄様の高潔な孤児院を、ちっとばかり拝んでやろうじゃねえか」
タツマが慌てて記録の筆を置く。
トビチを下がらせる背中を見送りながら、ムネシゲは一度だけ、深く息を吸い込んだ。




