第94話:法官の矜持
法廷の重厚な扉が開かれ、ヴィクトールは外の空気を深く吸い込んだ。石造りの長い廊下には、まだ判決の余韻が冷たく漂っている。背後では、ベルンハルトが杖を突きながら重厚な足音を響かせ、その表情には静かな充足感が浮かぶ。
そこに、一人の少女が弾かれたように駆け寄ってきた。
「おじいさま!」
ヴィクトールが眉をひそめる。ベルンハルトは短く咳払いをして、歩みを止めずに応じる。
「ここでは教授と呼びなさい」
孫娘に向けて一瞬だけ柔らかな微笑を見せたが、すぐに老弁護士の顔に戻る。しかし、少女——ヘンリエッタはそんな祖父の制止など耳に入らない様子で、輝くような瞳をヴィクトールに向けた。
「ヴィクトール先生! さっきの法廷すごかったです! 『嘘は数で補う』のところ——鳥肌が立ちました!」
「…………先生?」
不意に投げかけられた敬称に、ヴィクトールは困惑を隠さない。そんな彼を置き去りにするように、ヘンリエッタは矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「あの、弁護士ってどうやったらなれるんですか!? 私、先生みたいな弁護をしたいです。あの、一つ聞いていいですか。ヴィクトール先生っておいくつなんですか。ご結婚は——」
「……お嬢さん。僕は依頼人以外には優しくありませんよ」
冷たくあしらおうとするヴィクトールだが、ヘンリエッタは怯むどころか、さらに身を乗り出す。
「それがかっこいいんです!」
迷いのない人間の強烈な熱量。法廷で百戦錬磨の男が、わずかに後退りする。その様子を後ろで眺めていたベルンハルトが、ニヤリと口角を上げた。七十年生きてきて、この傲岸不遜な若者がここまで押される姿を見るのは初めてだ。
「ヴィクトール君。うちの孫、嫁にどうだね」
「……ベルンハルト先生。冗談ですよね」
「半分本気だ」
ベルンハルトは杖を突き直し、商談を進めるような口調で続ける。
「お前を娘婿にすれば、あの子は最高の法学教育を受けられる。そしてお前は私の判例集を全部使える。悪くない取引だろう」
「…………初めて交渉で負けそうになりました」
ヴィクトールは天を仰ぐ。法廷の外に、これほどの手強い敵が潜んでいたとは。
ベルンハルトがヘンリエッタを促して歩き出す。廊下の曲がり角で、彼は足を止めて振り返った。
「安心しなさい。君の父君には私から説明しておく」
「軍務卿ですからね」
ヴィクトールが短く応じる。それを回避できた安堵が、二人の短い視線の交差に宿る。
アネッテは、廊下のベンチの端に静かに座っていた。法廷を出てもなお、彼女の周りだけ空気が凪いでいる。ヴィクトールは彼女の前に立ち、手元の手帳に目を落とした。
「以上です。僕の仕事は終わりました。——2,750万。認容率79%。悪くない数字です」
「……ありがとうございます」
アネッテは深く頭を下げた。ヴィクトールは懐から一枚の書面を取り出す。
「——請求書は後日送ります。3割です。ベルンハルト先生と折半なので、お安くしておきます」
「……お安く……?」
アネッテが不思議そうに首を傾げる。ヴィクトールは口端をわずかに歪めた。
「冗談です。3割は3割です」
事務的な言葉のやり取り。だが、アネッテは椅子から立ち上がると、まっすぐにヴィクトールを見つめる。
「……父が、最初はあなたに別の弁護士を勧められたそうです」
「ええ。あの方々は王都最大の弁護士事務所ですからね。安全な選択肢です」
「ですが、私はあなたを選びました」
「……理由をお聞きしても?」
ヴィクトールが問い返すと、アネッテは静かな、しかし確かな声で答える。
「あの方々なら、勝つでしょう。ですが、法廷を劇場にはしてくださらないでしょうから」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィクトールの目が細まる。
合議体の控室へと続く廊下で、リディアは一人、足を止めていた。
窓の外には、かつて自分が糾弾された大講堂が見える。在学中のいじめ、冷ややかな教師たちの視線、そして誰も味方がいなかった孤立。その記憶が、判決を終えたばかりの心に波紋を広げる。
「……だから法を選んだ」
誰に届くこともない、微かな呟き。廊下には自分以外、誰もいない。
「アネッテと同じ理由で」
リディアは自らの手に触れ、その温かさを確かめるようにして、再びゆっくりと歩き出した。
ヴィクトールが馬車へと向かう廊下を歩いていると、反対側から一人の女性がやってくる。陪席裁判官のルイーゼだ。二人の距離が縮まり、すれ違う瞬間に、ヴィクトールが軽く声をかけた。
「また会いましたね。これで何度目ですか。——ご縁が深い」
「ご縁ではなく案件です」
ルイーゼは立ち止まることなく、前を見据えたまま即答する。ヴィクトールは足を止め、彼女の背中に言葉を投げた。
「今日の陪席、立派でしたよ。アネッテの話を聞いているとき、あなたの目が変わった。"知っている"目だった。——ハーレム裁判のときと同じ」
その言葉に、ルイーゼの足がわずかに止まる。
「……審理は終わりました」
「ええ。——次はあなたが主席の法廷で弁護させてください。いつも陪席じゃもったいない」
ヴィクトールの誘いに、ルイーゼは肩越しに鋭い視線を向けた。その瞳には、初めて出会ったときと変わらぬ、法官の矜持が宿っている。
「あなたの案件を選ぶ権利は私にはありません」
「案件は僕が選びます。裁判官は選べませんが——期待しています」
ヴィクトールは軽く法衣を払い、口角を上げて背を向けた。ルイーゼもまた、自分の行くべき道へと歩みを進める。
陽光が差し込む長い廊下を、弁護士と裁判官、二人の影がそれぞれの方向へと伸びていく。
法廷の喧騒は消え、ただ、次の開廷を待つ静謐な余韻だけが、学園の古びた回廊に満ちていた。




